3、反省と感謝
部長はあたしを椅子に座らせ、蝋燭に火を点けた。
「この部屋は、明日の朝まで空いている。
頼み込んでピアノ周辺を2時間だけ貸してもらったんだ。
……お誕生日おめでとう」
そう言って渡された物は、数枚の楽譜だった。
譜読みの苦手なあたしは、とっさにそれが何を意味するのかわからなかった。
呆然と音符をながめていると、部長は黙ってピアノの前に座った。
部長が本気でピアノを弾く所を見たのは、初めてだった。
曲が始まった途端その姿にくぎ付けになり、たった今もらった楽譜を見るのを忘れた。 彼が弾いているのはもちろんその楽譜だ。
それに気付いたのは、1ページ分演奏が済んでしまってからだった。
さらにその楽譜が手書きで、部長自身が書いた字であると気付いたのは、半分以上も終ったころだった。
それは不思議な曲だった。
和音の流れがわざとずらしてあるような、どこか不安定な曲。
それでいて、妙に自信たっぷりで、重量感がある。
ある意味、その曲は部長そのものだった。
学ランを来て、指揮台でタクトを振っていた在部中の姿を思い出した。
それは、彼ら3年生が最後に部活に出て来た日のことだった。
クラブの伝統に従って、弾き継ぎ式を行ったのだ。
部員全員が合唱している途中で、指揮者が交代する。 前部長から新部長へ。
曲目はたいてい、校歌を歌うことになっているらしいが、気に入った曲があって、それでやる部長もいる。 緑川部長のお好みは、本格ゴスペルだ。
ソシアルダンスのように、長身をビシリと伸ばした指揮スタイル。
ソフトに歌わせたい時は、唇を尖らせて人差し指を立てる。
普段ポーカーフェイスの部長が唯一、表情で人に伝えようとする瞬間だ。
セクシーかもしれない。
指先の緊張とか。
スキップする視線とか。
要求する手のひらめきとか。
それは、あたしが入部してからずっと見つめて来た姿だった。
今、初めて気付いた。
あの指揮台に立つ部長を見ながら歌った一年間が、これまでで一番充実した時間だったこと。
ソロのレギュラーメンバーに選ばれて、他の人たちに追いつこうと必死で声を出したあの日。
恋愛や人間関係でボロボロな時もあった。
泣きそうになりながら、あたしが睨み付けていたのは、指揮台のあの学ラン姿だった。
確信があった。
この先の人生で、またいつか悲しい思いをする時が来たら、思い出すのは指揮台の部長だ。
あたしの希望、あたしの羅針盤、暗闇にともる光。
どう頑張ればいいのかわからなくなったら、きっと思い浮かべるだろう。
あの日頑張った自分の姿を思い起こすために。
あたしたちの別れはもう始まっている。
部長は3月には学校からいなくなってしまう。
指揮台の部長を見る機会は、あたしには二度とない。……たぶん一生。
あわててハンカチを出した。
楽譜の上に、パタパタと涙が落ちていくのに気づいたからだ。
ピアノを弾き終えた部長が、戸惑ったように立ち上がる。
あたしはそれよりも早く立ち上がり、頭を下げた。
「先輩、ありがとうございました。
さっきは失礼なことを言ってすみませんでした」
「いや……」
部長が珍しく対応に迷っている。 あたしは言葉をつないだ。
「先輩はホントにすごい人です。 あたし、先輩のおかげで、高校に入って人生観が変わりました」
「……どんな風に?」
「先輩を見てて、一生懸命やるってカッコいいことなんだってわかったんです」
「カッコいい?」
「真剣に集中して努力することはカッコいいことです。 ホントはみんなわかってるんです、でもできないんです。
オリンピック選手、カッコいいじゃないですか。
高校野球、カッコいいじゃないですか。
あたしたちの定期公演だって、超かっこいいでしょ?
ホントはわかってるのに、自分がやるときは照れるんです。
自習時間に、静かにやろうよとか、掃除をやたらていねいにやったりとか。
そういうことをしたら、適当に流したい人に迷惑かけてるみたいに思えて、場の空気に流されて、ほとんどの時間を不真面目に過ごしてしまうんです。 あたしそれまで、気になるのに直せなかった。
先輩は、そういうことのくだらなさを教えて下さいました。
自分のしたいことを思い切りするのが、恥ずかしくないって教えて下さいました。
部活を通して一生の宝をもらいました。
それだけでも十分なのにその上、この素晴らしい曲を。
宝物にします。ありがとうござ‥‥」
最後は泣き声が混じってしまい、言葉にはならなかった。
バスターミナルまで、部長を送って行った。
窓の外を降る雪は、しんしんと静かに続いている。
それを見ながら、あたしと部長も沈黙していた。
重苦しいものではなかった。
何かを感じあう間、しゃべるのを忘れていただけだった。
「キンギョちゃんに頼みがあるんだけど」
「‥‥はい?」
「ボタンを一つ、くれないか」
部長がぽつりと言った。
「あたしの服のですか」
「そう。お守りにするから」
「受験のですか? えええ? あたし頭悪いです、ご利益なさそう」
「ぼくにとっては大いにあるよ。
出来るだけ心臓に近いところのボタンが欲しい」
あたしは頬が火照ってくるのを感じた。
お裁縫セットから、ミニチュアのはさみを出して、自分の胸を見下ろした。
心臓に近いボタン。
上着なら、一番上。 ブラウスなら、第3ボタン。
上着のボタンじゃ卒業式みたいだし、ブラウスの方が心臓に近いよね。
あたしはブラウスの貝殻ボタンを一つ、パチンと切り取った。
三番目のボタンだ。
「ありがとう」
部長はホントに嬉しそうにそれを受け取った。
ところが。
「危ないっ」
部長が急にあたしの腕を引っ張った。
その横を、お弁当らしい包みをいっぱい積んだ手押しワゴンがすり抜けて行った。
あたしは避けながら、部長の荷物と軽く衝突した。
その反動で、部長の手の中のものがかちんと落ちた。
「あっ」
貝殻ボタンは落ちて弾んで、一瞬で見えなくなってしまった。
と同時に、あたしの胸の辺りが、ぐっと引っ張られた。
ボタンのないブラウスの継ぎ目の所に、荷物の金具が引っかかったのだ。
バチン。
むちゃくちゃイヤな音がして、ボタンがもう一個、凄い勢いで飛び出して行った。
うそでしょう。
上着のボタンごと、持って行かれてしまった。
おまけにどちらも見えなくなってしまったのだ。
「うわ。 最悪だ」
部長はしばらく床を捜索したが、ボタンは発見できなかった。
「ごめん。 僕のミスだ」
頭を下げる部長の声とかぶって、発車準備を告げるアナウンスが聞こえてきた。
片手で胸を押さえたまま、バスに乗り込む部長に手を振った。
申し訳なさそうに、彼も手を振り返した。
あれ?
何かくっついてる。 部長の荷物の金具のところ。
小さいゴミみたいな、ピンクのもの。
「先輩! 先輩!」
手振りで教えると、部長は気付いて、金具からその謎の物体を外した。
「なんだ?」
指先でつまんで、あたしに見せるのだが、小さくてよく分からない。
ちっちゃいリボンみたいに見えるんだけど。
あんな小さいもの、どこに付いてたっけ?
名札とか携帯とか鞄のマスコットまで見たけど、わからなかった。
首をひねりながら、バスの出発を見送った。
交通網が乱れていて、家に帰るのも一苦労だった。
またしても来ないバスを待って、バス停でぎゅう詰めになっていると、部長からメールが入った。
一見して、ちょっと謎めいた文面だった。
“ピンクのリボンをありがとう。 最高の餞別でした。
多分、きみの心臓に一番近い場所から来たものだと思う。
これでやる気が出なきゃ、男じゃないね。
絶対に合格するから見ててくれ!”
あたしは首をかしげた。
文字通り、胸に手を当てて考える。
心臓に一番近いとこから来た、ピンクのリボン?
「あ! ああああああ?」
いきなり声が出てしまった。
バス待ちをしていた人たちが、一斉にこっちを振り向いた。
ウソだと言って。
あたしはブラウスの隙間から指を入れ、胸を探ってみた、
やっぱりそうだ。 それしかない。
ブラジャーの真ん中に付いてたリボンがなくなってる!
金具でブラウスを引っ掛けた時、一緒に引っかかっちゃったのだ。
よりにもよって、下着の部品を、お守りに持って行かれてしまった。
町は一分ごとに、白い世界に近づいていく。
寒さで足がかじかんでいる。
でも、あたしの顔は真赤になったまま。
体中が熱くて死にそう。
“これで落ちたら承知しませんからね。
それと、死んでも人に言わないで下さいね!
誰かみたいに、やーいうらやましーだろ!とかメールしたら絶交ですよ!!”
雪の中で、必死でメールを打った。
(「必勝祈願はピンクのリボンに」終わり)