放課後図書館の小悪魔先輩は、僕をダメ人間にしたいらしい
第一章:静寂の特等席と、不敵な笑み
高校の図書室というのは、基本的に静寂を守るための場所だ。
本棚の隙間から差し込むオレンジ色の夕日、古い紙の匂い、そして遠くからかすかに聞こえる運動部の声。その静けさが好きで、僕は放課後になるといつも一番奥の窓際席に陣取っていた。
誰にも邪魔されず、静かに読書や勉強に没頭できるはずの僕の聖域。
――しかし、最近はその「平和」が完全に脅かされていた。
「ねえ、蓮くん。またそんなに難しい顔して数学解いてるの? 真面目だねぇ」
耳元で、甘く囁くような声が聞こえた。
鼓膜を直接撫でられたような感覚に、思わず肩が跳ね上がる。振り向くと、すぐ隣に顔を近づけていたのは、一学年上の先輩――氷室凛先輩だった。
黒髪のロングヘアを肩に流し、透き通るような白い肌と、どこか猫を思わせる大きな瞳。校内でもトップクラスの美少女として有名だが、僕にとって彼女はただの綺麗先輩ではない。
「……凛先輩。驚かさないでくださいっていつも言ってるでしょう。あと、近いです」
「えー? 近くないよ。ほら、ちゃんと15センチは開いてるし」
そう言って先輩は、クスクスと楽しそうに笑いながら僕の隣の椅子を引き、ごく自然な動作で座り込んだ。15センチどころか、肩と肩が触れ合わんばかりの距離感だ。先輩から漂う、ほんのり甘いシャンプーの香りが脳を揺さぶる。
「で、今日は何やってるの? 掲示板のテスト順位、蓮くん学年5位だったでしょ? 十分すごいんだから、たまには息抜きしなよー」
「5位じゃダメなんです。次の定期テストでは学年1位を取らないと、親との約束で塾を増やされるので……」
「へぇー、大変だねぇ。偉い偉い」
先輩はそう言うと、頭を撫でてきた。
細くて柔らかい指先が、僕の髪を優しくすき通る。
「……っ! ちょ、ちょっと! 学校ですよ!?」
「いいじゃない、誰も見てないよ? それとも、私に撫でられるの、嫌だった?」
先輩は少し首をかしげ、潤んだ瞳で僕をじっと見つめてくる。上目遣い。破壊力が尋常じゃない。
ここで「嫌です」と言えば嘘になるし、「嬉しいです」と言えば確実に面白がられて弄ばれる。八方塞がりだ。
「嫌とかじゃなくて……集中できないんです」
「ふふ、可愛い。顔、真っ赤だよ? 蓮くんってば、本当に反応が素直なんだから」
先輩は満足そうに口元を緩めると、自分のカバンから何やらカラフルな袋を取り出した。
「ほら、ご褒美。あーん」
目の前に差し出されたのは、小さくカットされたイチゴ味のグミだった。
先輩の指先が、グミを挟んで僕の唇のすぐ近くにある。
「は、自分で食べられますから!」
「ダメー。『あーん』してくれないと、蓮くんのシャープペンシル没収しまーす」
「子どもじゃないんだから……」
「いいから、ほら。あーん」
逃げ場のないプレッシャーと、先輩の楽しそうな笑顔。僕は諦めて、そっと口を開けた。
「……あー」
パくっとグミを口に含む。果汁の甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
そして、ほんの一瞬だけ、先輩の指先が僕の唇に触れた気がした。
「……おいしい?」
「……はい」
「よかった。じゃあ、次のお勉強頑張ったら、もっといいご褒美あげるね?」
先輩は満足そうに微笑むと、頬づえをついて僕の横顔をじーっと見つめ始めた。
こんな状況で、どうやって微分積分に集中しろというのだろうか。僕の平穏な放課後は、この日も小悪魔な先輩によって見事に乱されていくのだった。
第二章:甘い毒と、断れない提案
凛先輩との出会いは、半年前の雨の日だった。
傘を忘れて図書室で途方に暮れていた僕に、先輩が「半分入っていく?」と相合い傘を提案してくれたのが始まりだ。あの時は「なんて親切で大人っぽい先輩なんだろう」と感動したものだが、今思えばあれがすべての罠だった。
一度距離が縮まってからは、先輩の「小悪魔モード」が全開になった。
毎日のように僕のところへやってきては、甘い言葉でからかい、僕が赤面するのを楽しんでいる。
「蓮くーん。ノートとる手、止まってるよ?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
溜息をつきながらペンを走らせる僕の横で、先輩は退屈そうに自分のスマホを弄っていたが、突然何かを思いついたように手を叩いた。
「ねえ、蓮くん。今日の勉強、そろそろ終わりにしない?」
「まだ予定の半分も終わっていません」
「だって、もう17時半だよ? 図書室閉まっちゃうし。……それにさ、たまには私の家で勉強続きしない?」
――はい?
思わず耳を疑った。
今、この先輩は何と言った? 家?
「な、何を言ってるんですか。先輩の家に男子が行くなんて、不健全です」
「不健全って、別に怪しいことなんてしないよ? ただ、私の部屋で一緒に勉強して、疲れたらゲームでもしよっかなーって。ご両親も今日は遅くなるって言ってたし」
「余計にダメじゃないですか!」
僕が勢いよく立ち上がると、図書室の司書教諭から静かに目配せで怒られた。慌てて深々と頭を下げ、再び席につく。
「ふふ、そんなに警戒しなくてもいいのに。蓮くん、私に何か変なことされるとでも思ってるの?」
「されそうだから警戒してるんです!」
「失礼だなあ。私はただ、大好きな後輩と一緒にもっと過ごしたいだけなのに……」
先輩は少しだけ寂しそうな顔を作ってみせた。
わかっている。絶対に演技だ。僕を罪悪感で押し潰して「はい」と言わせるための、計算し尽くされた表情だ。
……わかっているのに。
「……本当に、勉強するだけですか?」
「もちろん! 美味しい紅茶とケーキも淹れてあげるよ?」
「……ハァ。一時間だけですよ。本当に勉強だけですからね」
僕が折れると、先輩の顔にパッと花が咲いたような満面の笑みが戻った。
「やった! じゃあ決まりね。さ、荷物まとめて行こー!」
まんまと乗せられた。毎回こうだ。僕は先輩のこの笑顔に、いつだって勝てない。
第三章:秘密の部屋と、急速接近
凛先輩の家は、学校から歩いて10分ほどの閑静な住宅街にあった。
通された部屋は、白とピンクを基調とした、清潔感があってどこか甘い香りのする「女子高生の部屋」そのものだった。
「はい、どうぞー。適当に座ってね」
先輩に促され、僕は部屋の中央にある小さなローテーブルの前に座った。緊張で背筋がピンと伸びてしまう。
「お茶淹れてくるから、待っててね」
先輩が部屋を出ていくと、僕はふぅーっと深いため息をついた。
部屋を見渡すと、可愛いぬいぐるみがベッドの上に並んでおり、棚には文庫本や漫画が綺麗に整頓されている。先輩のプライベートな空間に自分がいるという事実だけで、心拍数が跳ね上がる。
しばらくすると、先輩がトレーに乗せた紅茶とショートケーキを持って戻ってきた。
「お待たせー。さ、召し上がれ」
「ありがとうございます……いただきます」
ケーキを一口食べる。甘くて美味しい。
「美味しい?」
「はい、すごく」
「よかった! 実はね、蓮くんが来るって決まってから……じゃなくて、今日蓮くんにあげるために買っておいたんだー」
一瞬、何か言いかけたのを誤魔化すように笑う先輩。
(……ん? 今『来るって決まってから』って言わなかったか?)
考え込む僕の隣に、先輩がすっと吸い寄せられるように座った。学校の図書室よりもさらに距離が近い。先輩の体温が直に伝わってくるレベルだ。
「ねえ、蓮くん」
「はい?」
「勉強、もう嫌になっちゃった」
「まだ始まってもいません」
「だってー、蓮くんが隣にいるのに、教科書なんて見たくないもん」
先輩はそう言うと、僕の腕に自分の両腕を絡めてきた。
柔らかい感触が腕に伝わり、頭の中のキャパシティが一瞬でオーバーする。
「せ、先輩!? 近いです! 腕、当たってます!」
「いいじゃん。誰も見てないよ? ここ、私の部屋だし」
先輩の瞳が、至近距離で僕を映し出す。その目は少し潤んでいて、いつも戯れでからかってくるときの表情とはどこか違っていた。
「蓮くんさ、いつも私のこと『からかってくる困った先輩』って思ってるでしょ?」
「え……まあ、否定はできませんけど」
「ひどいなぁ。私、本気なんだけどな」
耳元で落とされたその言葉に、思考が完全にフリーズする。
「え……? 本気……って……」
「蓮くんが可愛くて、反応が面白くてからかっちゃうのは本当だけど……それ以上に、私以外の女の子と話してるとモヤモヤするし、放課後はずっと私だけのものにしたいって思ってるよ?」
先輩の手が、僕の手の上に重なる。
指を絡められ、いわゆる「恋人繋ぎ」の形になる。先輩の手はとても小さくて、少し震えていた。
「……ねえ、蓮くん。私がこんなにアプローチしてるのに、いつまで『先輩と後輩』のままでいるつもり?」
小悪魔な笑顔は消えていた。そこにいたのは、赤くなった頬を隠そうともせず、まっすぐな瞳で僕の答えを待つ、一人の恋する少女だった。
「僕……は……」
言葉が喉に詰まる。
嫌なはずがなかった。毎日先輩にからかわれるのが、本当は嬉しくてたまらなかった。図書室で過ごすあの時間が、僕にとっても一番大切な時間だったんだ。
ただ、先輩が魅力的すぎて、自分なんかが相手にされるわけがないと、無意識にブレーキをかけていただけだった。
「……僕も、先輩のことが好きです。からかわれてばっかりで情けないですけど……先輩が他の男の人と話してるのを見ると、胸が苦しくなってました」
僕がそう答えると、先輩の瞳が丸くなった。
そして次の瞬間、耳まで真っ赤にして、僕の肩に顔をうずめた。
「〜〜〜っ! もう、バカ! なんでそんなにかっこいいこと言うのよ……!」
「えぇ!? 先輩が聞いたんじゃないですか!」
「だって、絶対ドギマギして逃げると思ったのに……狡い……」
肩口から聞こえる先輩の声は、完全にデレデレで、いつもの小悪魔的な余裕なんて欠片もなかった。
なるほど。いざ攻められると弱いタイプなんだ、この人は。
「凛先輩」
「なに……?」
「顔、見せてください」
「やだ。恥ずかしい……」
「見たいです。僕の恋人になった先輩の顔」
僕が少し強気に言うと、先輩はおそるおそる顔を上げた。
真っ赤になった顔で、上目遣いに僕を見つめる凛先輩。その姿は、どんな小悪魔な仕草よりも毒性が強くて、最高に愛らしかった。
「……これから、いっぱい甘えさせてあげるからね。覚悟してよ、蓮くん」
「望むところです」
窓の外では、夕闇が静かに街を包み込んでいた。
僕の平穏だった放課後は終わりを告げ、甘くて少し甘酸っぱい、特別な日常がここから始まるのだった。
第四章:甘やかしの休日と、甘い罰
恋人同士になってから、最初の週末。
僕らは駅前のカフェで待ち合わせをしていた。
私服姿の凛先輩は、いつも以上に可愛らしかった。萌え袖のニットにフリルのスカート、少し巻いた髪。周りを歩く男たちの視線が先輩に集まっているのがわかり、僕は少し誇らしく、同時に猛烈な独占欲を覚えた。
「蓮くん! お待たせ!」
「いえ、僕も今来たところです。……今日の私服、すごく似合ってます」
「本当!? えへへ、蓮くんに可愛いって思ってもらいたくて、今朝すごく悩んだんだー」
そう言って、先輩は自然な動作で僕の腕に抱きついてきた。
学校では周りの目を気にして少し控えめ(と言っても十分距離は近かったが)にしていた反動か、休日の先輩は甘やかしモードが全開だった。
「ねえねえ、今日はどこ行く? 蓮くんの行きたいところ、どこでも付き合ってあげるよ?」
「僕は、先輩と一緒にいられればどこでもいいですけど……」
「〜〜っ! もう、そういうことを平気な顔で言わないで! 私の心臓が持たないでしょ!」
先輩は赤くなった顔を僕の二の腕に押し付けてくる。
立場が完全に逆転していた。からかわれてばかりだった以前とは違い、僕が素直な気持ちを口にするたびに、先輩は過剰なまでに照れてしまうのだ。
「ふふ、先輩って案外チョロいんですね」
「ちょっ……! チョロくないもん! 蓮くん限定だもん!」
「それ、自分で認めてますよ」
「むぅ……生意気。後で甘い罰をあげなきゃね」
そう言ってニヤリと笑う先輩の瞳には、いつもの小悪魔的な光が戻っていた。
僕らはカフェに入り、甘いパンケーキを二人でつつき合った。
「はい、蓮くん。あーん」
「え、カフェでですか? 周りの目が……」
「ダメ。恋人なんだから、当然でしょ? ほら、あーん」
拒否権はないらしい。腹をくくって口を開ける。
「あー……ん」
「ん、偉い偉い♪」
口の中に広がる生クリームの甘さと、先輩の満足そうな笑顔。
周りの視線が痛い気もするが、もうどうでもよくなっていた。
「ねえ、蓮くん。私ね、ずっと夢だったんだ」
「夢?」
「うん。大好きな人と、こうやって放課後や休日に甘いものを食べて、手を繋いで、なんでもない会話をして笑い合うこと」
先輩は僕の手をギュッと握りしめた。
「蓮くんが私を選んでくれて、本当に嬉しい。私、蓮くんを世界一幸せな男の子にしてあげるからね」
「僕の方こそ、先輩を世界一幸せにしますよ」
「……もう、またすぐそういうこと言う。……大好き」
「僕もです、凛先輩」
言葉を交わすたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
小悪魔で、甘々で、ちょっぴり押しが強い僕の先輩。
これからもきっと、僕は先輩の手のひらで転がされながら、最高に甘い日常を歩んでいくのだと思う。
でも、それも悪くない。
だって僕は、この小悪魔な先輩に、とっくに心を奪われてしまっているのだから。




