第23章 Countdown9
第23章:金庫のなかの毒薬――プールという幻想と財政の自壊
財務省・主計局、最奥の特別審議室。
テーブルの上に山積みにされた財務省令や財政法の注解書の傍らで、主席主計官は冷徹な眼差しで、若手官僚たちが持ち込んだ「資金プールの現実的実務」に関する検証レポートを見下ろしていた。
「主計官……私たちの描く『動的スタビライザー』の理想が、いかに現実の法制度と実務の岩盤に阻まれているか、その全貌がようやく見えてきました」
若手官僚は、疲労の色を隠せない声で三つの致命的な壁を指し示した。
「政府系金融機関の活用も、デリバティブの駆使も、そして『プール目的の国債発行』も――すべて、現行の法と経済の原則において、決定的な矛盾を孕んでいます」
主計官は静かにうなずき、その矛盾の正体を一つずつ解き明かしていく講義を始めた。
一、政府系金融機関で資金は「プール」できるのか?
「まずは、日本政策金融公庫や日本政策投資銀行といった『政府系金融機関の財布』を使ってインフレ時のマネーを寝かせておくという発想法だ。結論から言えば、それは制度的に不可能だ」
主計官はホワイトボードに力強く書き殴った。
「資金を回すこと」が存在意義であるという宿命
政府系金融機関は、国からの出資や借入を原資として、特定の政策目的に沿った「融資や出資」を実行するために存在する組織である。彼らの組織の存在意義は、資金を安全に「プール(貯め置いて寝かせておく)」ための金庫番になることではなく、あくまで「産業や地域に資金を回す(投融資する)」ことにある。
法制上の制限
もし仮に、インフレ抑制の名目のもとに数兆円もの巨額の余剰金をそのまま何年も金庫のなかに塩漬けにし続けた場合、財務省の予算統制や会計検査院の監査において、「目的外の資金保有・運用放棄」として厳しく糾弾される。財政法の枠組みにおいて、使われない巨額のキャッシュを組織の内部で眠らせることは許されないのだ。
二、国債オプションやCDSによる引き締めの罠
「第二に、金融工学の粋を集めて、オプション取引やCDSといったデリバティブを政府系機関が大規模に動かし、市中のマネーを直接引き締めようというアプローチはどうだ?」
主計官は冷ややかに鼻で笑った。
本来の目的からの逸脱
オプションやCDSは、もともと個別の金融機関が「金利やクレジット(信用)の変動リスクをヘッジ(回避)するための保険・契約ツール」にすぎない。
市場の歪みとモラルハザードの暴走
これを政府が「マクロのインフレ退治」を目的として大規模に買い漁ったり売り飛ばしたりすれば、民間デリバティブ市場の価格形成を完全に破壊することになる。さらに、相場が少しでも逆方向に動いた瞬間、政府側が『数兆円単位の巨額の評価損(補填のための税金投入)』を抱えるという最悪のモラルハザードと財政リスクを引き起こす。実務上、採用できるはずがない絵空事だ。
三、プールするための「新規国債発行」という最大の自滅
そして主計官は、最も危険な禁忌である「インフレ退治のための国債発行と資金凍結」のスキームにメスを入れた。
「使わないため」の国債発行の不条理
「国債というものは、そもそも『国家予算(一般会計)の足りない財源を補うため』、あるいは『特定の法律に基づいた公共事業や償還』のために発行される法定の債務証書だ。『インフレ退治のために市場からマネーを吸い上げて、使わずに金庫のなかに眠らせておく』という目的の国債発行は、日本の法体系において一切想定されていない。法的裏付けのない発行は、それ自体が違法行為となる」
利子だけを払い続ける「自滅の構造」
「仮に、法改正をして無理やり現金を集め、それを一円も使わずに金庫のなかに閉じ込めたとしよう。だが、忘れてはならない最大の真実がある。国債には、使おうが使うまいが、毎年必ず『利子(金利)』の支払い義務が発生し続けるということだ」
「つまり、市場のインフレを鎮めるために現金を集めて金庫に眠らせている間も、政府は使っていないそのお金のために、国民の税金から巨額の利子を民間投資家へ支払い続けなければならない。これは、財政の熱を冷ますどころか、『使わないキャッシュのために自ら借金を膨らませて自滅する』という本末転倒の極みだ。国家の財政赤字を自ら加速させる毒薬にほかならない」
四、近代財政の防波堤と、残された問い
審議室の空気は、冷え切った鉄板のように重かった。
「――これで結論が出たな」
主計官はチョークを音を立てて置き、資料の束を閉じ入れた。
「『インフレ時に市中のマネーを回収して政府側でプールし、嵐が去ったら戻す』というアイデアは、マクロ経済学の教科書の上では極めてスマートな動的スタビライザーに見える。しかし、それを日本の現行制度――『財政法』の単年度主義、『政府系金融機関』の存在意義、『国債』の発行目的、そして『利子負担』という現実のコストに当てはめようとすれば、法制度・実務・財政コストのすべてにおいて、越えられない巨大な壁に激突する」
若手官僚は深くうなずき、目の前にある現実の重みを受け入れた。
「制度の壁とは、単なる手続きの面倒さではなく、国家が自らを破滅させないための防波堤そのものなのですね……」
「その通りだ。感情や理想論で財政の防波堤を崩した瞬間、国家はシステムそのものの重みに押しつぶされて崩壊する。よく覚えておけ」




