『レジの向こうで、今日も誰かが働いている』
夜中のコンビニには、
名前よりも先に、事情が入ってきます。
何をしている人か。
何を終えた人か。
何を始めようとしている人か。
ここにあるのは、大きな奇跡ではありません。
ただ、誰かが買い物をして、少しだけ立ち止まり、
それぞれの場所へ帰っていく話です。
よろしければ、
一晩だけ、この店に立ち寄っていってください。
この店には、働く人が集まる。
正確に言えば、働いている人、働いた人、働こうとしている人、働くのをやめた人、働きたい人、働かせたい人、働かせる人が、同じ床の上を歩いてくる。
俺は夜勤の店員だ。
名札には名前が書いてあるが、覚えられることはほとんどない。覚えられるのは、タバコの番号と、温めるかどうかと、袋が要るかどうかだけだ。
深夜二時。
自動ドアが開く音で、今日も一日が少しずつ始まる。
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最初に来るのは、清掃員の男だ。
作業着はいつも同じ色で、袖口だけが少し白くなっている。手袋を外して、缶コーヒーを二本、必ず同じ棚から取る。
「寒いですね」
俺が言うと、男は肩をすくめる。
「まあな。でも、冬はまだマシだ」
働いている人の言葉だ。
働いていない人は、寒さや暑さを別の言葉で言う。
会計を済ませると、男は深く礼をして出ていく。
礼は、金を払った相手にするものじゃない。
仕事に戻る自分に、している。
⸻
次に来るのは、元会社員の男だ。
この時間に来るようになって、半年になる。
弁当売り場の前で、必ず立ち止まる。
買うのはいつも、一番安いパンと牛乳。
前はスーツだった。今は、少し大きめのパーカーだ。
働くのをやめた人の服は、サイズが曖昧になる。
「温めますか」
「……いや、いいです」
短い会話。
それでも彼は、レシートを財布にしまう。
もう使わないはずの習慣だけが、まだ残っている。
⸻
コピー機の音が鳴る。
若い男が、履歴書を出している。
用紙が詰まり、機械が止まる。
「すみません……」
彼は誰にともなく言う。
「ここ、開けてください」
俺が指を差すと、彼は何度も頭を下げる。
働こうとしている人は、まだ自分の価値が分からない。
だから、必要以上に謝る。
履歴書は一枚だけ。
彼はそれを丁寧に折って、カバンに入れた。
「ありがとうございました」
声が、少しだけ明るい。
⸻
レジ横で、介護帰りの女性が立ち止まる。
惣菜を一つ、手に取っては戻す。
疲れた人の動きは、遅い。
でも、迷いは少ない。
「これ、半額じゃないんですか」
「……もう少し後ですね」
女性は頷いて、定価のまま買う。
働きたい人は、時間よりも体力が足りない。
会計のあと、女性は小さく息を吐く。
「明日も、ここ開いてますよね」
「ええ」
「よかった」
帰る場所がある人の言葉だ。
⸻
派遣会社の営業が来る。
名刺入れが膨らんでいる。
「ここ、人手足りてます?」
冗談みたいに聞いてくる。
「今は、足りてます」
俺は答える。
働かせる人は、いつも「今」を見ない。
次の数字を見ている。
彼はエナジードリンクを買い、電話をしながら出ていく。
⸻
夜が一番静かになる頃、トラブルが起きる。
レジの金額が、十円合わない。
誰かが、どこかで、少しだけ得をした。
あるいは、少しだけ損をした。
清掃員は戻ってきて、ポケットを探る。
「さっき、多く払ったかもしれない」
元会社員は首を振る。
「いや……俺が少なく払った気がする」
若い男は慌てて財布を開く。
「僕かもしれません」
確信はない。
十円のために、三人の時間が止まる。
介護帰りの女性が言った。
「いいです。私、今日は急いでないので」
誰もが一瞬、黙る。
派遣営業は腕時計を見る。
「まあ、十円でしょう」
俺はレジを閉めて、引き出しを確認した。
奥に落ちていた十円玉を見つけ、レジに戻す。
「……合いました」
誰も得をしていない。
でも、誰かが少しだけ、楽になった。
⸻
清掃員は、また仕事に戻る。
元会社員は、家に帰る。
若い男は、履歴書を守る。
介護帰りの女性は、惣菜を温める。
派遣営業は、次の電話をかける。
全員が、違う場所へ帰っていく。
俺はカウンターを拭きながら思う。
働く理由は、みんな違う。
でも、この店では、全員が同じ値段で、温かいものを買って帰る。
それでいい。
それだけで、今日は黒字だ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この話には、
正しい働き方も、間違った生き方も出てきません。
あるのは、それぞれの事情と、
それぞれが選んだ帰り道だけです。
もし、読んでいる途中で
誰か一人でも思い浮かんだなら、
その人は、きっと今日もどこかで働いています。
あるいは、働くことを考えています。
この物語は、そこで終わりです。
ですが、夜中のコンビニは、
今夜もどこかで、静かに明かりを灯しています。




