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『レジの向こうで、今日も誰かが働いている』

作者: くろめがね
掲載日:2026/02/06

夜中のコンビニには、

名前よりも先に、事情が入ってきます。


何をしている人か。

何を終えた人か。

何を始めようとしている人か。


ここにあるのは、大きな奇跡ではありません。

ただ、誰かが買い物をして、少しだけ立ち止まり、

それぞれの場所へ帰っていく話です。


よろしければ、

一晩だけ、この店に立ち寄っていってください。


 この店には、働く人が集まる。

 正確に言えば、働いている人、働いた人、働こうとしている人、働くのをやめた人、働きたい人、働かせたい人、働かせる人が、同じ床の上を歩いてくる。


 俺は夜勤の店員だ。

 名札には名前が書いてあるが、覚えられることはほとんどない。覚えられるのは、タバコの番号と、温めるかどうかと、袋が要るかどうかだけだ。


 深夜二時。

 自動ドアが開く音で、今日も一日が少しずつ始まる。



 最初に来るのは、清掃員の男だ。

 作業着はいつも同じ色で、袖口だけが少し白くなっている。手袋を外して、缶コーヒーを二本、必ず同じ棚から取る。


「寒いですね」

 俺が言うと、男は肩をすくめる。

「まあな。でも、冬はまだマシだ」


 働いている人の言葉だ。

 働いていない人は、寒さや暑さを別の言葉で言う。


 会計を済ませると、男は深く礼をして出ていく。

 礼は、金を払った相手にするものじゃない。

 仕事に戻る自分に、している。



 次に来るのは、元会社員の男だ。

 この時間に来るようになって、半年になる。


 弁当売り場の前で、必ず立ち止まる。

 買うのはいつも、一番安いパンと牛乳。


 前はスーツだった。今は、少し大きめのパーカーだ。

 働くのをやめた人の服は、サイズが曖昧になる。


「温めますか」

「……いや、いいです」


 短い会話。

 それでも彼は、レシートを財布にしまう。

 もう使わないはずの習慣だけが、まだ残っている。



 コピー機の音が鳴る。

 若い男が、履歴書を出している。


 用紙が詰まり、機械が止まる。

「すみません……」

 彼は誰にともなく言う。


「ここ、開けてください」

 俺が指を差すと、彼は何度も頭を下げる。


 働こうとしている人は、まだ自分の価値が分からない。

 だから、必要以上に謝る。


 履歴書は一枚だけ。

 彼はそれを丁寧に折って、カバンに入れた。


「ありがとうございました」

 声が、少しだけ明るい。



 レジ横で、介護帰りの女性が立ち止まる。

 惣菜を一つ、手に取っては戻す。


 疲れた人の動きは、遅い。

 でも、迷いは少ない。


「これ、半額じゃないんですか」

「……もう少し後ですね」


 女性は頷いて、定価のまま買う。

 働きたい人は、時間よりも体力が足りない。


 会計のあと、女性は小さく息を吐く。

「明日も、ここ開いてますよね」

「ええ」

「よかった」


 帰る場所がある人の言葉だ。



 派遣会社の営業が来る。

 名刺入れが膨らんでいる。


「ここ、人手足りてます?」

 冗談みたいに聞いてくる。


「今は、足りてます」

 俺は答える。


 働かせる人は、いつも「今」を見ない。

 次の数字を見ている。


 彼はエナジードリンクを買い、電話をしながら出ていく。



 夜が一番静かになる頃、トラブルが起きる。

 レジの金額が、十円合わない。


 誰かが、どこかで、少しだけ得をした。

 あるいは、少しだけ損をした。


 清掃員は戻ってきて、ポケットを探る。

「さっき、多く払ったかもしれない」


 元会社員は首を振る。

「いや……俺が少なく払った気がする」


 若い男は慌てて財布を開く。

「僕かもしれません」


 確信はない。

 十円のために、三人の時間が止まる。


 介護帰りの女性が言った。

「いいです。私、今日は急いでないので」


 誰もが一瞬、黙る。

 派遣営業は腕時計を見る。

「まあ、十円でしょう」


 俺はレジを閉めて、引き出しを確認した。

 奥に落ちていた十円玉を見つけ、レジに戻す。


「……合いました」


 誰も得をしていない。

 でも、誰かが少しだけ、楽になった。



 清掃員は、また仕事に戻る。

 元会社員は、家に帰る。

 若い男は、履歴書を守る。

 介護帰りの女性は、惣菜を温める。

 派遣営業は、次の電話をかける。


 全員が、違う場所へ帰っていく。


 俺はカウンターを拭きながら思う。

 働く理由は、みんな違う。

 でも、この店では、全員が同じ値段で、温かいものを買って帰る。


 それでいい。

 それだけで、今日は黒字だ。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


この話には、

正しい働き方も、間違った生き方も出てきません。

あるのは、それぞれの事情と、

それぞれが選んだ帰り道だけです。


もし、読んでいる途中で

誰か一人でも思い浮かんだなら、

その人は、きっと今日もどこかで働いています。

あるいは、働くことを考えています。


この物語は、そこで終わりです。

ですが、夜中のコンビニは、

今夜もどこかで、静かに明かりを灯しています。


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