最終話 天を翔る
パシン、とかわいた破裂音が乾清宮に響く。
胡蝶の頬にするどい痛みが走り、冠が地に落ちた。
信じられない光景に、その場にいた誰もが目をみはる。
「────無礼者!奴婢の分際で、わたくしに成り代わろうなどと!」
鬼のような形相で叫ぶ芙蓉は、胡蝶よりもずっと大人の女に見えた。
「誰か!この者を連れていってちょうだい!早く!」
立ちつくしていた兵士たちが、はっと我に返り、あわてて胡蝶へ駆け寄る。
「芙蓉さま!」
胡蝶が大声で名を呼ぶが、芙蓉は背を向けた。
そして到着したばかりの輿へ向かって歩きだす。
「────走れます!」
兵士に両腕を抱えられたまま、胡蝶は叫んだ。
「あなたを背負って走れます!」
引きずられながらも、必死に声を張り上げた。
芙蓉の背中はだんだんと小さくなる。
「あの夜、どこまで走れるかって聞いたのは、このためだったんでしょう!?本当は逃げたかったんでしょう?」
「……」
芙蓉の足が止まった。
こちらに背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
「あたしはやりますよ!あなたを背負ったまま、城壁を越えて、街を抜けて、山にだって登れます!足が折れても、死ぬまで走り続けます!だからお願いです。一緒に────」
「……胡蝶っ!」
ついに芙蓉がふり返った。
大粒の涙をこぼし、白粉が落ちて素肌が見えている。
あれは妃ではない。女でもない。
まだほんの幼い、14歳の子どもの顔だった。
泣きじゃくる少女に向かって、胡蝶は腕を伸ばす。
「────っ!」
しかしその刹那、とつぜん首の後ろに衝撃が走り、体に力が入らなくなった。
目の前に薄絹の帳がおりるように、視界がゆっくりと白んでいく。
「すまない、胡蝶。すまない……っ!」
白い闇のなか、耳元で低い声がした。
ふらつき、がくんと膝から崩れた胡蝶の身体を、背後から太い腕が抱きとめる。
その声には聞き覚えがあった。
「慶、か────……」
* * *
「うわああああ~!!」
龍渓殿の前で、阿鼻叫喚が響く。
入口へつながる階段の下、石畳に座り込んで泣き叫ぶのは、26歳の韓明媚だ。
破れた衣装に乱れた髪、化粧は崩れてぼろぼろの顔。
なおも手足をばたつかせて暴れる女に、侍女も宦官らもお手上げだった。
「お姉さま、一緒に参りましょう。わたしもついていますから、怖くないですよ」
狂乱女の背中をさすり、優しくなだめるのは14歳の郭芙蓉だ。
「ははうえーっ!ははうえーっ!」
聞こえているのかいないのか、韓明媚はなおも頭をふって泣きわめく。
「おいしいお酒もあるみたい。一緒に飲みましょうよ。ね?」
芙蓉は懐から手巾を取り出して、そっと韓明媚の鼻にあてる。
中には阿片を染み込ませていた。
韓明媚の声が止み、とろんとした目つきに変わった。
宦官に二人がかりで両脇を抱えられながら、韓明媚は階段をのぼっていく。
その力なく垂れた手を、芙蓉はそっと握ってやった。
『ははうえー、どこなのお~』
『迎えにきてよお~』
『いやああああ』
龍渓殿に響き渡る幼子のような声は、外まで漏れ聞こえた。
声は一つではない。何人もの子供が泣いていた。
時がたつにつれ声は減り、小さくなって、やがて何も聞こえなくなった。
どこからか風が吹き、花吹雪が舞い上がる。
龍渓殿で生まれた37羽の蝶が飛び立ち、紫禁城を舞う。
そのちいさな羽をどれだけ広げても、天にはけして届かない───
皇帝朱堅勇の崩御にともない、37人の女が殉死した。
妃嬪は24人、女官が13人。
年齢は14歳から上は61歳。
そのひとりひとりが幼少期から大切に育てられた、美しく聡明な女たちであった。
大半の者は、皇帝の顔すら見たことがなかったという。
そんな彼女らが死後はその男の妻として、永遠に仕える役目を賜ったのである。
* * *
胡蝶は寝台の上で目を覚ました。
「おい、大丈夫か?胡蝶」
心配そうにのぞき込んでいるのは、涼しげな目元の優男だった。
明るいところで慶を見るのは初めてで、性根と顔つきが不釣り合いだと感じた。
「何のために……」
「え?」
「何のために、芙蓉さまは嬪になったんだ?龍渓殿で首をつるためか?」
胡蝶は仰向けのまま、焦点のさだまらない顔でつぶやく。
「ここで長い間、贅沢ばかり貪っていた女が罰を受けるなら、まだわかる。だけどあの人は嬪になったばかり。まだ子供だった。皇帝の子なんか産めるわけがない。こうなるのは最初から分かっていたはずだろう?」
憤りに近い疑問を吐き出すうちに、体に感覚が戻ってきた。
胡蝶はゆっくりと上体を起こし、そばに座る慶の顔を見つめる。
慶は少しのあいだ瞼を閉じ、息を吐いてから重い口を開いた。
「殉死する女の家は莫大な褒賞と地位がほどこされる。郭家は最初からそれが目当てだったんだろう。おそらく他の2人もそうだ」
「そんな……」
胡蝶は耳を疑った。そんな酷い話が本当にあるのか、と。
芙蓉たちは最初から死ぬために、命と引き換えの報酬を家に入れるために、後宮へ送られたというのか。
がく然とした顔で胡蝶は窓の外を見た。
この延寿宮で芙蓉と過ごしたわずかな日々が、走馬灯のようによみがえる。
あの無邪気な笑顔の裏に、どれほどの絶望を隠していたのか。
────『ああ、だけど胡蝶がうらやましいわ』
あの時、どんな気持ちで言ったのだろう。
────『わかりませんよね。親にも愛されず、あげく売りとばされた女の気持ちなんて』
胡蝶の言葉を、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「ああ……」
嘆息と同時にこぼれた涙が、頬をつたう。
後悔の念が、巨大な波となって胡蝶の胸をえぐりとった。
「馬鹿だあたしは……何てばかなことを……ははっ」
無知であった自分があまりに愚かで、怒りを通り越して笑いがこみ上げる。
「……少し、出られるか?」
苦い顔をして話を聞いていた慶はそう言って、胡蝶の手をとった。
返事をする間もなく胡蝶は寝台から降り、手をひかれて歩きだした。
連れてこられたのは、いつかの夜に忍び込んだ御花園の浮碧亭。
東屋の下で、誰かが地面にうずくまっている。
近づいてみるとそれは、栗色の髪をした鷲鼻の青年だった。
青年は丸めた背中を震わせながら、声を殺して泣いていた。
その手には芙蓉の簪が握られている。
「……本当に愛していたんだな。あの人のこと」
今ならわかる。愛する女に、心を殺して子を産めと迫ったわけを。
胡蝶はすぐにでも彼に謝罪したかったが、今はきっと誰の声も届かないだろう。
隣で慶がつぶやいた。
「周家は郭美人のおかげで官職を取り戻した。あいつも晴れて官僚の仲間入りだ」
愛する人を奪った紫禁城。
彼はこれからどんな気持ちで、毎日この土を踏むのだろうか。
「……殉死によってさずけられる官職で、最も多いのは何だと思う?」
かすれた声の慶にたずねられたが、胡蝶には知る由もないことだった。
「錦衣衛だ」
「え……?」
胡蝶は思わず慶のほうを向く。
慶は左手の剣をぐっと握りなおし、まっすぐ東屋を見つめている。
「俺の大叔母も、先帝に殉じて死んだ。俺が生きているのは、そのおかげなんだ」
静かに唇を噛む慶。
そして懐から何かを取り出し、胡蝶へ差し出す。
「これを預かっていた」
それは四つ折りになった一枚の紙だった。
胡蝶が受け取って開くと、中には小さな文字が書かれている。
『胡蝶、叩いてしまってごめんなさい。
あなたにどうしても伝えたいことがあって、最後に筆をとるのを許してもらったわ。
実はあの日、わたしとあなたがこっそり入れ替わったあの夜にね、
本当はわたし、期待していたの。
お兄さまがわたしを、ここから連れ出してくれるんじゃないかって。
だけど、期待どおりにはいかなかった。
もしもあの時、わたしがいなくなったら、部屋に残した胡蝶がどんな目にあうかは、わかっていたわ。
何も知らないあなたを犠牲にして、それでも逃げようと思っていたの。
だからあなたに、身代わりになってもらう資格なんかないのよ。
胡蝶、一緒に逃げようと言ってくれてありがとう。
あなたがいなくなって悲しむ人間は、ここにいるわ。
郭芙蓉』
「────っ!!」
慟哭がひびく。
土砂崩れのような泣き声に、御花園の楼閣がゆれた。
親に殴られても、飢え死に寸前でも泣かなかった三娘が
男に小屋へ連れ込まれても、大好きな姉が死んだ時すら平然としていた三娘が
この時は火が点いたように泣きじゃくって、一向におさまらない。
女が生きるということは
ただ生きるということが
どうしてこんなに────
「……後宮の女ほど哀れな生き物はない」
慶のつぶやきを耳にしたとたん、胡蝶の涙は止まった。
「────黙れ!あの人は哀れなんかじゃない!誰よりも強くて、気高い人だったんだ!」
「……では証明してみろ。女が強いということを」
冷たく言い放つ慶に、胡蝶はさらに怒りをあらわにした。
「お前に証明して……何の意味がある。このクソみたいな世界は、どうしたって変わらないんだよ!」
罵倒された慶は、なぜか口の端をわずかに上げた。
「それはどうかな」
「……え?」
慶の声色が、まるで別人のように変わった。
「俺はふだん、表向きは錦衣衛として動いているが、裏ではさるお方に身を捧げている」
突然の告白に胡蝶は面食らった。
錦衣衛は本来、皇帝の命でしか動かないはず。
しかし慶の本当の主は、別の人物だったということだ。
「俺はその方の命で、あるものをずっと探していたんだ」
「あるもの……って、何だ?」
話が読めず、胡蝶は首をかしげた。
その刹那、2人の間をやわらかな風が吹きぬける。
「────“忠義に厚く、主へ命を捧げられる人材”だよ」
背後から声がして、胡蝶はふり返る。
いつの間にか、太湖石の前に1人の男が立っていた。
おだやかな笑みをたたえ、後ろ手を組んでいるのは、20歳くらいの青年であった。
「かつて祖父上が、叔父である先帝を撃って即位したのは有名な話だ。外敵からの侵略が続く今、同じような内乱は後を絶たない。宮中においても、信頼できる者はわずかなんだよ。たとえ同じ釜の飯を食う仲であっても、背中は見せられない」
慶がその場で膝を屈し、頭を下げた。
胡蝶は立ったまま、青年を上から下へと眺める。
全身を麻の喪服で装っているが、くっきりとした目元の華やかな顔立ち、物腰からも気品がにじみ出ている。
初対面の青年は、まるで昔なじみのような笑顔で手をさしのべる。
「胡蝶、君になら背中を預けられる。私と一緒にこの国を変えないか」
* * *
1465年
皇帝朱章基によって殉死制度は撤廃された。
朱章基は、自身の崩御のおりには「誰一人として共に埋葬させることを禁ずる」と勅命を出し、同時にすべての国民へ殉死を禁じた。
殉死をおこなった家は職を没され、多大な罰金を命じられた。
殉死撤廃にもっとも尽力したのは、朱章基の正妻、秋皇后であった。
皇后は皇帝との間に生涯子を産まず、すすんで女たちの盾となった。
異民族からの襲撃のさい、みずから軍を率いて戦場へ向かう勇敢さと、慈愛にみちた秋皇后。
めずらしく纏足をしておらず、走るのが速かったことから『天足の皇后』と呼ばれ親しまれた。
完
最後までお読みいただきありがとうございました。
短編のつもりで書いたので、最後の方かなりかけ足になりましたが、かつて後宮に実在した【殉死】について少しでも知っていただけたらと思います。
本作は、明の時代の中華後宮をモデルにしたフィクションです。
史実が気になる方はぜひ「明朝 殉死」でググるかドラマ「尚食~美味なる恋は紫禁城で~」をご覧ください。(ドラマはオリジナル要素入ってます)
最後に、本作を少しでも気に入っていただけましたら、★にて評価いただけますと幸いです。
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拙作『腐女子、召喚 ~初期設定「言語能力」だけで後宮を救ってしまったオタクの話~』
カクヨムと小説家になろうにて長期連載中です。
異世界要素を入れた中華後宮もので、コミカル色強めですが、本作と共通して「後宮の女たちの苦悩」を書いています。
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