第5話 花嫁たちの葬列
「死にたくない!」
女の叫び声が響き渡るのは、韓美人の住む長春宮だった。
「放してよ!あたくしは妊娠しているの!先月から月のものがこないのよ!」
髪をふり乱し下着姿で暴れる韓美人を、女官がすがりつくようにして抑える。そして涙声で訴えた。
「医師は何人も呼びました。しかしどの者も『懐妊の兆しなし』との診断でございます……っ!」
“皇帝崩御の際、子のない妃は死を賜り、ともに埋葬されるべし”
【殉死】とは、遠い昔に廃れた制度であった。
かの始皇帝が、本物の人馬の代わりに兵馬俑(陶器製の兵士や馬の像)を埋葬させたのは有名な話である。
虐殺のかぎりを尽くした歴代の暴君ですら、死後に伴侶の命を奪うことはしなかった。
黄国で【殉死】を復活させたのは先々帝であった。
先々帝は生前に粛清をくり返した暴君であったが、晩年は身内からの反乱に怯え精神を疲弊した。
その結果、死後にも皇帝としての威厳を保ちたいという切実な願いから、妃たちに殉死を命じたのではと言われている。
* * *
郭芙蓉は身支度を終えると、鏡に映った自分を見た。
輿入れの際にたまわった豪勢な冠、金銀青の刺繍が入った赤い衣装。
血のように真っ赤な口紅は、まったく似合わないなと思った。
「あの簪は?」
たずねると、女官は顔を真っ青にして床にひれ伏す。
「申し訳ありません!昨日ここにしまったはずなのですが、見つからなくて……」
「そう、まあいいわ。もし見つかったら、お兄さまに返しておいてくれる?」
こんな時にまで、あの人を連れて行くのはさすがに可哀想だ。
「みな、今日までよく仕えてくれたわね。短い間だったけれどありがとう」
改まって言うと、皆がさめざめと泣きはじめる。
粗末な喪服姿の中で、1人だけ豪勢な衣裳の自分が、とんでもなく場違いに思えた。
「郭美人、そろそろ参りましょう」
宦官に呼ばれて、屋敷の前に用意された輿に乗る。
そのまま住まいの延寿宮を出て、紫禁城の中心部にある乾清門へ向かった。
芙蓉が到着したとき、門前にはすでに着飾った女たちが大勢集まっていた。
乾清門の北にあるのが皇帝の住まいであり、今は遺体が安置されている乾清宮。
こたび殉死をたまわる女たちは、この乾清宮までの一本道を、皆で列をなして歩くのだ。
列は仕えた年数の長い順に形成されるので、芙蓉は最後尾だった。
しばらく待ってから、ついに芙蓉が乾清門をくぐる。
眼前に広がったのは、見たこともない美しい景色だった。
さわやかな秋空の下、まっすぐに伸びる赤い道。
精いっぱい着飾った女たちが夫のもとへゆく、豪華絢爛な葬列。まるで花嫁行列だ。
ひとつ異なるのは、道の両脇にいる観衆たちがみな、喪服姿で泣いていることくらいだろう。
一歩、また一歩と足を進めながら芙蓉は考える。
いったい何人の女がいるのだろう。20人か30人か。
子のない妃嬪の中には、コネや賄賂で逃れられる者もいる。
自分の場合は最初から、どうしようもなかったことだ。
そしてこの先で待つ皇帝は、どんな男だろう。
祖父より年上の夫だが、命がけで愛せというのなら、せめて立派な人だったと思いたい。
道も半ばまで来たところで、左側の観衆のなかに張美人を見つけた。
白い喪服を着た張美人はこちらをじっと見つめながら、静かに自分の腹を撫でている。
唇をきつく結んだその表情は、涙をこらえているようにも、笑っているようにも見えた。
* * *
韓美人こと韓明媚は、赤い衣装を引きずりながら走っていた。
全力で走った記憶は、生まれてこのかた一度もない。
足は5歳のときからきつく縛っている。
息が切れ、口は渇き、心臓が飛び出しそうに苦しい。
自慢の足はもはや感覚がなかった。
乾清門から南に逃げ、保和殿、中和殿、太和殿を順番に横切り、西側の右翼門をめざす。
「───ああっ!」
しかし、ついに足がもつれ転んでしまった。
両の膝と手のひら、そしてあごを地面に打ちつけ、痛みにうめく韓明媚。
突っ伏しながら背後をふり返ると、ずいぶん前に離れたはずの乾清門が、まだ大きくそびえ立っている。
想像の三分の一も、進んでいなかった。
「……可哀想にな。逃げられるわけねえんだ、こんな足で」
血のにじんだ纏足を見下ろす錦衣衛が、しずかに嘆息を漏らした。
* * *
乾清宮で皇帝と最後の対面を果たし、それから女たちは龍渓殿へ移動する。
そこで宴を催されたあと、ようやく旅立ちを果たすのだ。
ここでもやはり最後尾の芙蓉が、侍女たちとともに輿を待っている。
「芙蓉さま!」
名を呼ばれふり返ると、そこには胡蝶が立っていた。
「……」
驚きに言葉を失う芙蓉。
目の前にあるのは、金の冠、赤い婚礼衣裳────
自分と瓜二つの人間だったからだ。
似合わぬ口紅までそっくりな胡蝶は、息を切らしながら言う。
「お願いです。どうかあたしの……身代わりになってください!」
その手に握られた簪を見て、芙蓉はすべてを察した。
今朝から姿が見えなかったのはそのせいか。簪も、胡蝶も。
芙蓉は困ったように眉を下げて言う。
「ありがとう。だけど、あなたがそんなことをする必要はないのよ」
しかし胡蝶はかたくなな様子で、首を横にふる。
こちらを睨みつけるようにして言った。
「あたしがいなくなっても、悲しむ人間なんかいません。でもあなたは違う。皆から愛されて、愛する人もいる。生きなきゃいけない人だ」
とうとう侍女たちがこらえきれず、涙と嗚咽を漏らす。
胡蝶は続けた。
「だからあなたは今日から、女官の胡蝶として生きるんです。はじめは下働きかもしれませんが、そのうち外にも出られるでしょう。これから何だってできますよ、生きてさえいればね」
最後はそう笑顔で締めくくる様子は、これから死に向かおうとしているとは思えなかった。
「胡蝶……」
芙蓉は周囲を見まわすが、止めようとする者は一人もいない。
監視役の兵士ですら、知らぬふりをしていた。
誰もがそうすべきだと、『胡蝶が死んで芙蓉が生きるべきだ』と、沈黙の中で言っていた。
芙蓉はそっとまぶたを閉じる。
真っ暗な世界に、突如あらわれた甘美な夢。
もしも自分が、このまま“胡蝶”として生きられたら────……
この重苦しい衣装を脱ぎ捨て
大声で叫び
どこまでも走ってみたい
そして愛する人のもとへ行って、抱きしめたい
それは見ることすら許されぬ、泡沫の夢のはずだった。
芙蓉は目を開ける。
母のように優しくほほえむ胡蝶が、こちらに手を差しのべていた。
「芙蓉さま」
────よく頑張りましたね。
そう言って差し出された幸せを、今ようやく掴みとるようにして、芙蓉は手をのばした。




