第4話 逢瀬
後宮には、皇帝の住まう乾清宮と皇后の坤寧宮を中軸として、その東西に妃嬪の居住区がある。
中心(皇帝)に近いほど貴いとされるが、芙蓉の住む延寿宮は、東エリアの北東端だ。
「おい。本当に郭美人は花園にいるのか?また嘘をついたら、ただではすまさんぞ」
「うるさいなあ。今さら嘘ついて何になるんだよ」
胡蝶は寝間着に上着をかさねて、御花園へ向かっている。
御花園は坤寧宮の北側にあり、延寿宮からは歩いて一刻(15分弱)ほどだ。
胡蝶が事情を打ち明けてもなお、錦衣衛の慶は、芙蓉が後宮から逃げ出したのではと疑っている。
いつまでも寝室で言い争ってもらちが明かないので、証拠を見せることにしたのだ。
「それより、正直に話したら見逃すってのは嘘じゃないだろうな?」
「お前が嘘つきではないと証明されればの話だ」
胡蝶は軽く舌打ちした。
人目につかぬよう、北側の延和門を通って2人は御花園へ足を踏み入れる。
狭い道を抜け、現れた浮碧亭という立派な東屋の下に、灯りを持ったふたつの人影を見つけた。
背の低いほうは女官服に大きな芙蓉の簪をしているので、間違いない。
身長差のある2人は何やら熱心に話し込んでいるが、胡蝶が心配するほど距離は近くなかった。
胡蝶たちは2人を観察するため、そばにあった太湖石の影に隠れた。
岩のように巨大な太湖石は、表面は浜に打ち上げられた珊瑚のように穴が空いている。
「ほら見ろ。あのふたりは従兄妹で幼なじみなんだってさ。何も怪しいことはないだろう?」
その従兄が芙蓉へ花の簪を贈っていたことは、内緒だ。
慶はあごに手をやりながら東屋をのぞき込む。
「あの男は、周家の嫡男か?たしかに郭家とは親戚だったはずだ」
一介の兵士のくせに、官吏についてやけに詳しい。
話しぶりからして、郭家が没落した経緯も知っているのだろう。
慶の素性について考えるさなか、東屋の下では妙なことが起きていた。
従兄と思われる背の高い男が、その場で腰を下ろし、地面に両膝をついているではないか。
一体どうしたのかと胡蝶と慶は注目し、ともに耳をすませた。
『……どうか、私のことはお忘れください。そして1日でも早く、お子を……陛下のお子を産んでくださいっ!』
たしかに男はそう言って、芙蓉に深々と頭を下げた。
「────はあ!?何言ってんだアイツ!」
聞き捨てならない台詞に、胡蝶はつい心の声を大音量で漏らしてしまう。
その声に気づき、芙蓉と従兄が同時にこちらを向く。
「え……胡蝶?どうしてここに?」
芙蓉は目を丸くして言う。
その前で跪く従兄は、芙蓉と同じ栗色の髪で、鷲鼻の若い青年だった。
胡蝶はあわてて拱手し頭を下げた。
「申し訳ありません。この錦衣衛に見つかってしまいました……」
観念して、慶とともに芙蓉のもとへ走る胡蝶。
東屋の下で芙蓉は、慶に自ら今回のいきさつを明かした。
その内容は、胡蝶が慶に語ったことと同じだった。
おそらく2人が恋仲であったことはバレてしまったが、それは今夜をもって過去のもの。
それを目の当たりにした慶は約束どおり、芙蓉たちを咎めることはせず、従兄を黙って帰路につかせた。
「今回は見逃しますが、二度目はないと思ってください」
「大丈夫よ。もう会わないから」
赤い塀に囲われた道を戻るのは、女官服の芙蓉と、寝間着姿の胡蝶。
そして錦衣衛の慶が背後についている。
『もう会わない』という宣言は、果たして本音だろうか。
「あんな男、早く忘れたほうがいいですよ」
胡蝶は歩きながら、足下の小石を蹴り飛ばす。
ただの励ましではなく、心からの言葉であった。
過去がどうであれ、芙蓉はすでに皇帝の妻だ。
互いのためを思う従兄の気持ちも分からなくはないが、あの台詞を思い出すだけで、胡蝶は今もはらわたが煮えくり返る。
「『忘れてください』だけならともかく、『早く子を作れ』だなんて、ひどすぎる!」
鷲鼻で覇気のない顔を、脳内で殴りつける。
最低最悪の男だ。
しかし、当の芙蓉は意外な反応を見せた。
「いいえ。お兄さまはやっぱり優しい方だった。それがわかってよかったわ」
歩くたびに芙蓉の頭で簪がゆれる。
胡蝶の目には、それとは別の意味で花が咲いて見えた。
「そういえば、あなた……慶と言ったかしら。お姉さまがたが最近どうしているか知ってる?」
芙蓉は前を向いたまま、背後の慶にたずねた。
お姉さまというのは、同じ時期に入った2人の嬪のことだろう。
慶は「妃嬪の内情には詳しくありませんが」と前置いたうえで、人づてに聞いた話を明かした。
「張美人は特にお変わりなく、ふだんから屋敷にこもって日がな刺繍などしているそうです」
張美人は、胡蝶と同い年のおとなしい女だ。
例の女官選別会を最後に会っていないが、印象が薄く顔すらほとんど覚えていない。
しかしあの性格では、他の女たちとの交流も苦手なのだろう。
「韓美人は陛下に気に入られたようで、近ごろは頻繁に召されております」
あの強烈な韓美人の噂は、胡蝶もよく耳にする。
最近知ったことだが、韓氏はもともと異国から献上された貢女だったらしい。
後宮ではその身分と傲慢さゆえ、他の妃嬪に嫌われているようだが、本人はどこ吹く風。
屋敷に美女ばかりそろえ、毎日あの手この手で皇帝の気を引いている。
寝室の内装を極彩色で飾り、夜は韓美人みずから下着姿で魅惑的な舞を披露している、という噂もある。
出世欲たくましいと感心する一方で、さすがの胡蝶も嫌悪感はいなめない。
「いくら皇帝陛下だからって、毎晩年寄りの相手なんて寒気がする。芙蓉さまは気に入られなくてよかったですね」
なにを隠そう皇帝は、御年68歳の老人なのだ。
話を聞くかぎり性欲は衰えていないようだが、その体に種が残っているのかすら怪しい。
そんな爺と寝るくらいなら、一生男を知らない方がましだと胡蝶は思う。
皇帝への揶揄を口にしながら、背後から怒声をあびるものと覚悟していたが、不思議なことに慶は何も言わなかった。
かわりに諫めたのは芙蓉だ。
「胡蝶、いくらなんでも失礼よ。陛下は若いころに大変苦労をされて、国のために心身を捧げてこられた。最近までみずから戦場に立っていたというし、立派なお方だわ」
「会ったことあるんですか?」
「いいえ。姿絵を拝見しただけ」
ちゃめっ気のある顔で、肩をすくめる芙蓉。
「まあどんな殿方も、お兄さまには敵わないでしょうけれど」
うふふと笑う少女の頭に咲く花に、蝶がとまる。
「……ねえ胡蝶、わたし疲れちゃった。おぶってくれない?」
「ええ?」
唐突な“お願い”に戸惑う胡蝶だったが、纏足で歩く苦労を思い、従うことにした。
背中に感じるあるじの身体は、自分と大差ないはずなのに、ずっと小さく感じた。
「胡蝶は、わたしを背負ってどこまで走れる?」
耳元でささやかれた問いに、夜空を見上げ考えた。
「うう~ん。ここから延寿門までならいけるかと。でも、全力では走れないですよ?」
「そうよね。普通に歩いたほうが速いかも」
「……早く帰りたければ、私が背負いましょうか」
慶がぼそりとつぶやくと、
「いやよ~。お兄さまに悪いもの」
と、芙蓉は笑いながら足をばたつかせる。
いつもより幼いあるじのふるまいと、慶のちょっと傷ついた顔が印象的だった。
* * *
1424年9月
この国は大きな節目をむかえた。
皇帝が崩御したのである。
享年69歳。死因は肺の病によるものだが、大往生であった。
皇族らは上から下まで白の喪服、その他臣下たちは、普段着に白装束を重ねる簡易的な喪装に身を包んだ。
装いが粗末で簡素なほど、喪の厳粛さを示しているため、どれも縫い目が粗く切りっぱなしの麻布でできている。
そして大勢が泣いた。
儒教においては泣く人が多いほど、故人の徳が高いとされる。
哭臨と呼ばれる、遺体の前で泣きながら礼拝する儀式は数日間続いた。
崩御から4日後、延寿宮には朝から喧噪が響きわたる。
「早く冠の準備をして!ありったけのお酒と、芙蓉さまの好きなお菓子を!」
大声で指揮をとっているのは、嫌味な先輩女官の阿里だ。
胡蝶は厨房でひろった林檎をかじりながらたずねる。
「どうしたんですか?喪中なのに、まるでお祝いごとみたいに」
のんきな様子を見て阿里は「女官のくせにそんなことも知らないのか」と胡蝶を叱責し、そして呆れたようにため息をついた。
「明日、芙蓉さまは陛下のもとへゆかれるの」
「……」
胡蝶の手から林檎がこぼれ落ち、床で砕けた。




