第3話 真夜中の来訪者
翌日、芙蓉は風邪をひいたと言って朝から床にふせ、胡蝶はその看病と称して共に部屋へこもった。
二更の鐘が鳴るころ(午後九時ごろ)、芙蓉は胡蝶の持参した衣装にきがえ、脱出の準備をはじめる。
鏡の前で芙蓉は、女官服には不釣り合いなほど大きな花の簪を挿してほほえんだ。
「昔お兄さまからいただいたものなの。ちょっと子供っぽいかしら?」
そのウキウキとした表情は、いかにも年相応の少女らしい。
これからすることは紛れもなく不貞行為なのだが、本人にその自覚はないようだ。
男から簪を贈るのはふつう、求婚の意味である。
簪は彼女の名前どおり、芙蓉の花がかたどられていた。
ついに消灯時間をむかえ、屋敷全体がひっそりと静まりかえる。
部屋の周囲を確認すると、胡蝶にふんした芙蓉は火の消えた燭台を手にしてこっそり部屋を出た。
部屋にひとり残った胡蝶は、窓の外をのぞく。
ちょこちょことした足取りで門を出る女官の後ろ姿を確認すると、芙蓉の寝間着に身を包んで床に入った。
しかし────
「芙蓉さま?お休みのところ申し訳ありません」
まだ三更(午後十一時)の鐘も鳴らないころ、扉の向こうから聞きなれた女の声がした。
いつも何かと理由をつけて胡蝶を叱りとばす、先輩女官の阿里だ。
「〇〇の××さまがいらっしゃって────」
どうやら来客があったようだが、詳細は聞きとれなかった。
胡蝶は布団から腕を出し、寝台をかこう帳(カーテン)に手をかける。
「芙蓉さま?お休み中でしょうか……?」
だんだん大きくなる阿里の声は、懐疑心を含んでいる。
胡蝶はあわてて手をひっこめた。
返事をしては声で気づかれてしまう。
このまま寝たふりを続けようと決心し、頭まで布団をかぶった。
そのうち暗闇のなかで、ギイイと戸が開く音が響く。
(うそだろ……入ってきた?)
『寝室の扉は、芙蓉さまの許可なく開けてはならない!』
いつもそう厳しく言っていたのに、自分は簡単にその掟を破るのか。
しかも就寝中の主の顔を覗くなど、無礼極まりないではないか。
胡蝶がひとり憤慨する間にも、足音は近づいてくる。
(頼む!用があるなら朝にしてくれ!)
体を縮こめ祈る胡蝶だが、そのうちある違和感に気づく。
さっきから聞こえる“足音”だ。
たしか阿里は纏足で、不規則な小股で歩く。
布製の小さな靴を履き、歩くときはすっすと擦れる音だけがするのだ。
しかし今、部屋にはカツカツと大きな音が、ゆっくりとした等間隔で響いている。
これはおそらく革靴の音だろう。
帳越しに人の気配を感じたころ、靴音は止まった。
「……郭美人、体調はいかがでしょうか?」
「……!?」
予想外の事態に、身体をびくんと震わせる胡蝶。
耳に届いたのが、聞き覚えのない男の声だったからだ。
(────誰だこの男は?)
さっき阿里が言っていた来客だろうか。
まさかこれが“お兄さま”なのか?
しかし、彼は今ごろ花園で芙蓉と会っているはず。
そもそもこんな夜更けに、妃嬪の屋敷へ通される男が外部の人間のはずがない。
おそらくどこかの宦官だろう。
今すぐ布団をめくりたい気持ちを、ぐっとこらえる胡蝶。
相手が女官だろうが見知らぬ宦官だろうが、自分がすることは同じ。
こうして眠っているふりを続けて、いなくなるのを待つほかない。
むしろ相手が男ならなおさら、眠っている妃嬪を叩き起こすような真似はできないはずだ。
「……おい、起きろ」
しかし予想に反し、あきらめの悪い男だった。
そのうえ宦官のくせに、郭美人に対しずいぶんと横柄な物言いをする。
「おい……大きな足が出ているぞ」
「───なっ!?」
その一言で胡蝶は飛び起きた。
とたん、暗闇で何かが喉元に強く押しあてられ、そのまま仰向けに倒れた。
男にのしかかられ、なおも圧迫される喉からは「ぐえっ」と嗚咽のような声が漏れる。
かすかな燭台の明かりに目が慣れてくると、当てられているのが鞘におさまった剣であるとわかった。
「貴様、いったい何者だ。郭美人はどこへ行った」
胡蝶に馬乗りになった男は、低い声で問う。
「ぐ……うっ……」
「やけに派手な簪をした女官が、この近くをひとりで歩いていたと、報告があって確認にきたのだ」
「……」
しまった、と思った。
あんな上等な簪を、下級女官がつけているはずがない。
逢瀬を前にうわついていた芙蓉を、自分が冷静に諭すべきだったと後悔する。
「まさか郭美人は、この紫禁城から逃げるつもりではないか?」
妃嬪の脱走は、けして珍しいことではない。
入ったばかりの若い嬪が失踪したとなれば、まずそれを疑うのが自然だろう。
「早く答えろっ!」
せかす男の腕を、胡蝶は拳で何度も殴りつけた。
答えようにも、喉をつぶされていては声も出ない。
しばらくして剣の力はゆるんだが、もう片方の手が胡蝶の肩を床へ押しつけた。
「正直に答えねば殺すぞ」
胡蝶を見下ろしながら、空いた片手で剣を鞘から抜きはじめる男。
大きな咳を2回してから、胡蝶は男に向かって唾を吐きつける。
「殺したきゃ殺せよ!居場所は一生聞けなくなるけどな!」
こういう時は、けして下手に出てはいけない。
主導権はこちらにあると示すのだ。
「……クソが!」
男は顔をぬぐいながら罵声を吐き捨てる。
そして胡蝶にまたがるのをやめ、床へ降り立った。
「纏足の女なら、まだ遠くへは行っていないだろう」
場所を聞き出すのはあきらめ、自力で探すつもりらしい。
「おい待てよ!」
胡蝶はとっさに腕をのばし、男が握る剣を両手でつかんだ。
そのまま剣ごと男を寝台へ引き戻す。
「あの、芙蓉さま……どうされました?」
激しい乱闘のすえ、今度は胡蝶が男へ馬乗りになったところで、女の声が聞こえふり向く。
開け放たれた扉の前には、阿里が立っていた。
「きゃああ!」
黄色い悲鳴が上がったところで、胡蝶は顔を見られる前に帳を閉めた。
これで向こうからは、女が男にまたがる影しか見えないはず。
逆に好都合かもしれない。
「まさか芙蓉さまと……慶どのが!?」
生殖能力をもたない宦官は、妃嬪の愛人になることが暗に許されている。
この“秘密の関係”において、むしろ積極的なのは芙蓉の方だと勘違いするだろう。
案の定、阿里は部屋に入ることなく扉を閉めた。
纏足特有の、衣擦れのような足音が消え、ひとまず胸をなでおろす胡蝶。
「降りろ!この怪力女!」
慶と呼ばれた宦官が叫び、胡蝶の腰をつかんで押しのける。
が、さっきとはうって変わって、腕に力が入っていない。
男を見下ろすと、幞頭(帽子)が外れ、長い黒髪が寝台の上に広がっている。
口の悪さゆえ中年宦官かと思いきや、若い顔をしていた。
「……うん?お前、ひょっとして宦官じゃないのか?」
尻にあたる“感触”に、胡蝶は首をかしげながら腰を跳ねさせた。
これで宦官だというのなら、手術したのは相当なヤブに違いない。
「何が宦官だ!おれはれっきとした男だ!」
男は握りしめた剣を胡蝶の眼前にかかげる。
柄の部分には、皇帝の証である龍の紋章が刻まれていた。
この剣を持つ者は限られている。
それは錦衣衛、つまり宮廷の警備をおこなう皇帝直属兵士だ。




