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3-2




「もちろん最初から気づいていました」


 正午前、ミーティングテーブルで向かい合った「吸血種」同士。


「プールの底に沈んでいた伊吹生さんを引き上げ、VIPルームまで運んで服を脱がせたとき、乱杭歯によるその腕の傷を見つけました」


 二人の手元にはグラスが置かれている。


 凌貴が持参した、隠し味の効いた赤ワインがなみなみと注がれていた。


「僕達は共食いがご法度です」


「吸血種」だろうと飲んではならない血があった。


 それは同じ「吸血種」の血だ。


 種の繁栄、存続、同種同士で血を貪り合って滅びないように昔から禁忌とされている。共食いはご法度。守るべき掟。そう、根強くすり込まれてきた。


「つまり。必然的に自分が残した痕だということになる。大方、貴方の人となりから予想はつきましたが、十年前の救急搬送に関する報告書の記載内容を読んで、答え合わせができました」


 愉しげに話す凌貴とは反対に、濃密な赤に映り込む伊吹生の顔は頑なに強張っていた。


「大切な人の血を我慢して我が身を傷つける。生き餌を連れ戻そうと無茶をする。貴方は人助けならぬ普通種助けが殊の外お好きなようですね」

「俺はお前に何かしたか」


 ワインがたっぷり残る褐色のボトルを視界の端に据え、伊吹生は心の底から問う。


「恨みを買うようなことでもしたか?」

「特に何も」

「じゃあ、どうして悪質なイヤガラセばかりしてくる」

「貴方を欺くのが楽しくて仕方なくて」

「それで、わざわざ誤認しているフリまでしたのか?」

「僕が十年前の真相を知っていることを、伊吹生さんは知らない。そう考えただけで、病みつきになりそうなワクワク感が得られました」

「あのな……。大学生なら他にすることが山程あるだろ。勉強にインターンシップ、サークル活動とか」


 イスの背もたれに背中を預けた凌貴は、薄い唇を酷薄そうに歪めた。


「カーニバル・デイの夜、僕、ワインを飲んで気を失った貴方を犯したんですよ」


 伊吹生の目がわかりやすくヒン剥かれると、クスリと微笑した。


「嘘です」

「いい加減、殴ってもいいか」

「でも、そうしたくて堪らなかった」

「れっきとした犯罪だ」

「本当はキスだって予定になかった。血を飲ませるだけのつもりが、貴方があんまりにも上手に僕を煽るから」


 彼の言動の一つ一つに左右されるのも面白くない。今度はリアクションを抑え、伊吹生はなるべく冷静でいるよう努めたのだが……。


「これは恋ですか?」


 闇夜色の双眸に狙いを定められる。


 真摯に残酷なくらい見つめられて、表情を取り繕っていた伊吹生はかつてない甘い戦慄に全身を犯された。


「ッ……俺が知るか」

「そうですか。残念です」

「いや、違う、断じて。そんなものは恋じゃない」

「そうですか?」

「ただ嫌悪しているだけだ。欺くのが楽しいなんて、恋愛対象に抱く感情じゃない」

「ふぅん。伊吹生さんは恋愛対象に対し、どんな感情を抱くんですか?」

「それは、同じ時間を過ごしたいとか、色んなことを共有したいとか……」


(何を話しているんだ、俺は)


 凌貴は「ノスフェラトゥ」の夜振りに乾杯をせがんできた。


 日中、事務所で。午後には来客の予定がある。自分自身への誓いをこうも立て続けに破るわけにもいかない。


 しかし乾杯を拒否するならば拓斗は返さないという。


 踏ん切りがつかない伊吹生は、無性に情けなくなった。年下の傲慢な青年にいいように振り回され、不甲斐なさが込み上げてきた。


 一先ずグラスを掴んだ。だが、やはり躊躇ってしまう。


 こちらを容易く窮地へ追いやる張本人はグラスの縁をゆっくりとなぞっていた。


「ワインがお口に合わないようでしたら、別のもので乾杯しましょうか」

「どうせ誰かの血なんだろ」

「それはそうですが」


 凌貴は、また、いつの間にかペーパーナイフを手にしていた。


「僕の血はどうです」


 先程、共食いはご法度だと発言した彼の、信じ難い誘い。


 ピアニストを連想させる長い指が、両刃タイプのシンプルなペーパーナイフを危うげに辿る。紙を切るのに適しており、人の肌を傷つける危険性はそうそうないはずであった。


「そんな陳腐な刃じゃあ、血管は切れない」

「そうですか?」


 凌貴は自身の滑らかな首筋にペーパーナイフの刃先を躊躇なく添えてみせた。


「同じ場所を何度も全力で掻き切れば、いけそうです」

「やめてくれ。タブー破りの共食い司法書士なんてレッテルを貼られて、お前の一族から制裁を喰らいそうだ」


 同種間における吸血行為に科せられる刑罰は存在しない。


 あくまで各々の倫理観の上で禁忌として成り立っている。


 俗に言う暗黙の掟だった。


「伊吹生さんになら飲まれてもいいと思って」

「傍迷惑にも程がある」

「暗黙のルールを守るよりも。菖さんの血を死に物狂いで我慢した伊吹生さんに求められる優越感への憧れが勝ります」

「……どうかしてるぞ」

「自分の腕に咬みついてまでして、大切な人の血を我慢した貴方に吸われると思うと、興奮します」


 凌貴は再び伊吹生に問いかけた。


「貴方の激情を一滴零さず一人占めしたい。これは恋ですか……?」


 言い知れない深黒の誘惑に伊吹生は改めて戦慄した。


 もう、もたない。頭の中で警告音が鳴り響く。


 気を逸らすために、敬遠していたはずのワインを無謀にも……呑み干した。


「伊吹生さん」


 グラスいっぱいの酒を一息に喰らい、テーブルに突っ伏せば、取り澄ましたような声が伊吹生の鼓膜を不快に震わせた。


「前回もそうでしたが、ペース配分を考えないと」


 伊吹生は目線だけ動かして凌貴を見やった。興味を示していたペーパーナイフを放り投げ、イスから背中を浮かせて前のめりになった彼は、この状況に堪らなく愉悦しているようだった。


「でも、貴方が苦しんでいる姿は、えもいわれぬご馳走に値しますね」


 凌貴は事務所備品の何の変哲もないグラスから、半分近くワインを飲んだ。


「……必ず拓斗を無事に返せ……」


 くぐもった声で伊吹生が請うと、席を立ち、真横へやってくる。適当に撫でつけて十秒以内にセットが終わる黒髪を、聖母じみた手つきで梳いた。


「優しい人ですね」


 いきなり髪を掴まれたかと思うと、有無を言わさずグイッと引っ張り上げられて伊吹生は呻吟する。


 火照った頬。早くなった呼吸。シャープな瞳は満遍なく潤み、下顎にまで唾液が滴っていた。


 血を得て興奮状態を強いられている伊吹生に、凌貴の微笑は深まった。


「もちろん返却します。僕と乾杯してくれましたからね」


 地肌に走る痛みに顔を歪めれば、さらなる愉悦に浸るように舌なめずりし、凌貴は伊吹生に口づけた。


 尖らされた舌先が熱を持つ口内に侵入してくる。


 伊吹生の黒髪を握り締めて頭を固定し、背中を屈め、彼は息継ぎも疎かに独裁的なキスに耽った。


「ん……ッ……ぅ……」


 喉奥まで嬉々として嬲られ、戸惑う舌先を吸われ、食まれ、もどかしい刺激に伊吹生は眉根を寄せた。


「……どうですか。チェイサー代わりになりましたか?」


 顔を離した凌貴に問われ、言い返そうとすれば、すぐさま塞がれた唇。


 頻りに水音を立て、勢い任せに貪られる。


 抵抗したくとも体に力が入らない。身を捩じらせるので精一杯だった。


「はぁ……ッ」


 縺れ合う唇の狭間から伊吹生が乱れた息遣いを洩らした、そのとき。


「ッ……!?」


 イスから引っ張り起こされ、テーブルの上に押し倒されて、よろしくない体勢に伊吹生は瞠目した。




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