愚者
駅前の商業ビルのトイレで、制服から私服姿へと着替えた後、僕は先輩達の待つ池袋駅南口へと向かった。制服は練習用具とともにリュックサックにしまった為、臭いが移るか少し心配だが、これから経験する事に比べたら些細な問題だろう。
仕事帰りのサラリーマンや、如何わしいお店のキャッチらしい黒服の間を縫って階段を上がると、東京の夜の街に溶け込みきれずにいる先輩達の姿が、居酒屋の光彩看板前に見えた。
「おせーぞ、涼」
「すみません。中々トイレが空かなくて」
「ったく。行くぞ」
齋藤先輩は気にせず歩き始めるが、他の先輩達が粘っこい視線をこちらに向ける。
差し詰め、「本当に大丈夫なんだろうな」と言いたげな感じだが、僕はあえてそれに気づかないフリをして、黙って後ろをついて行く。
先陣を切る齋藤先輩は池袋の南口エリア、つまりは飲屋街にふさわしい格好をしている。貶す訳ではないが、流行遅れのタイツみたいなジーンズに、やけに大きな白いスニーカーが不格好だ。けれど、これから向かう先では、時代遅れの格好の方が都合が良いかもしれない。
僕は、前回お気に入りのウールシャツに腐臭がこびりついたことを反省して、今回は安物の黒の半袖シャツとスラックスに革のローファーといった、シンプルかつ目立たない格好だ。トレンドを押さえたこの格好ならば、疑われることも無いし、仮に目撃情報が出たとしても記憶に残らないだろう。
「ここを右行ったビルの地下だ」
先導する斎藤先輩が、ネオンに照らされながら振り返る。周囲からは、大人達の笑い声や叫び声、アルコールと肉が焼かれる香りが漂ってきて、僕は悔しくも腹が鳴りそうになる。
この景色を見ることになるのは、大学生以降で、まさか高校生のうちに来る羽目になるとは露ほども思わなかった。
「早く行こうぜ。試合始まっちまうよ」
背徳感から興奮した様子で駆けて行くの先輩達を、僕は最後尾から眺める。笑い声をあげながらビルの地下入り口に吸い込まれて行く後ろ姿を歩いて追う間、ふと、いつも僕はこうやって、兄の後ろをついて回ったことを思い出した。
家族で行ったショッピングモールや、広大な人工芝のピッチ。全てにおいて僕は兄の後ろに無言でくっついていたのだ。だから、この選択は仕方がない。兄も同様の選択をしたのだろうから、これから経験する事は全て、甘んじて受け入れるべきなのだ。
ビルの薄暗い地下へと続く階段を降りると、目の前には鮮やかな照明と大音量の歓声が響く空間が広がった。壁にかけられた巨大スクリーンには海外サッカーリーグの試合が映し出され、赤いユニフォーム姿の観客たちが熱狂的に声を上げている。ここが、先輩たちが目指していた、スポーツバーだ。
「いい雰囲気じゃねえか。ほら、席確保しようぜ!」
斎藤先輩は慣れた様子でカウンター席へ進むと、店員に手を上げて挨拶した。僕はこの場違いな雰囲気にどぎまぎしながら後に続く。岐路があるとすれば、今この瞬間だ。適当に理由をつけて、年齢確認や先輩達から逃げるなら今しかない。
けれど、それをしたら僕は、一体どうなってしまうのだろう。
決断を下すことも出来ずにいると、先輩達は席に乱暴に腰をおろして、店員を呼んだ。
観客の声と大音量の実況中継に遮られて、先輩の注文が何かはわからなかったけれど、おおよその予想はついていた。数分後、店員がいくつかの揚げ物と、部活で見るような飲み物の容器を持ってきた。
予想通り、注文されたのはピッチャーに入った黄金色の液体————ビールだった。
「やっべー。旨そう」
「とっとと配れよ!」
思い思いに叫ぶ先輩達の姿は、大人用の飲み物を前にしているにも関わらず、今まで見たどの瞬間よりも子供染みて見えた。斎藤先輩が一つ一つのグラスに、黄金色の液体を注ぎ、先輩達へと配る。そして最後に、正面に座る僕にグラスを渡してきた。
「おい涼。今日はお前の人生最初にして最大のデビュー戦だぞ。最初にお前が飲んでから乾杯だ。じゃなきゃ筋が通らねえ」
「いや、僕、未成年ですし……」
「は? 俺たちも一緒だっつーの。ここじゃ誰も気にしねえよ。さあ飲め」
先輩たちに囲まれ、逃げ場のない状態でジョッキを渡される。手にしたガラスの冷たさが、その場の圧力と相まって僕の心拍数を跳ね上げた。
仕方なく、一口だけ————そう決めて唇をジョッキに当てた。
苦味と炭酸の刺激が喉を襲うと同時に、全身に汗が噴き出す。一口進めるたびに意識が朦朧としてきて、もっと飲めと促されたと思った瞬間にジョッキが空になり、いつしか自分がどれだけ飲んだのかも分からなくなっていた。
あれだけ煩かったサッカーの歓声も、今では耳から耳へと通り過ぎて行くようで、その叫び声が先輩達のものなのか、または自分のものかすら分からない。視界が揺れ、耳鳴りがする。頭がぼんやりと重くなり、冷たい床をしっかりと踏みしめている感覚も曖昧だ。
「う、うっ……」
どれくらい経ったのだろうか。胃から押し上げられる異物感を何とか耐えようとするが、それも限界だと感じ、トイレへ駆け込む。扉を開けた瞬間、堪えきれず胃の内容物を便器に吐き出した。
冷たいタイルの床に倒れ込み、手と膝をついて深呼吸を繰り返す。喉が焼けるように痛い。頭の中は混沌とし、自分の甘い判断を呪った。
「……最悪だ」
独り言とも言えないような呻き声がトイレに響く。いつの間にか、涙が溢れて止まらなくなっていた。
気づくと、トイレの外で斎藤先輩の声がした。
「おい、涼、大丈夫かよ? 無理すんな、飲ませすぎたな。出てこいよ」
その優しげな声に反して、どうしても外へ出る気になれなかった。僕の中で、兄と先輩が重なり合い、自己嫌悪と怒りが渦巻いていたからだ。僕は、扉の外に透明な兄貴がいるような気がして、また、吐いた。




