呪い
足早に校門をくぐり、ボーカルの絶叫を聴きながら、下駄箱で校内靴をつっかける。靴を踵に合わせながら、2段飛ばしで階段を登るが、その最中、周囲には誰もいない。僕は、眉を顰めた。
「あの野郎……」
不愉快さを全開に2年8組の教室に着くと、後ろから肩をかけられた。
「おはよう涼!」
横を向かずとも、明るい声の主が誰かを理解した。
「てめー、騙しやがったな。この野郎」
非難の視線を浴びせ、肩を締めてやる。
「ごめんって! 涼に早く会いたくてさ」
「野郎に言われても嬉しくねーよ」
ギブアップともう片方の手で俺を叩くのは、伊藤学。通称、ガク。
人を揶揄う為にあの手この手を尽くす悪友であり、今日も、未だ脳みそが冴えていないのか、こいつに騙されてしまった。教室内には、数人分のスクールバッグが置かれているだけで、殆どの生徒は未だ登校中のようだ。
平謝りを続けるガクを他所に、自分の席にスクールバッグを下ろす。
「けど、連絡事項があるってのは本当だぜ」
言い訳するガクは、茶色がかった長い前髪を中央で分け、その間から爽やかな笑顔が浮かんでいる。
「そうかよ」
自席について参考書を取り出すと、ガクは、俺の前席に後ろ向きで腰掛けた。
「……朝練があるんじゃないのか。エースがいない練習も締まらないだろ」
「んー。まだ行かなくていいや」
ガクは、黒色に赤い線が入ったバスケ用の練習着にバスケットシューズといった、すぐさま運動できる格好だった。加えて、幾筋か体を流れる汗を見るに、大方練習を抜け出してきたのだろう。
「で、点数は?」
「3点。ハットトリックだな」
淡々と告げると、ガクはスマホを置いて叫んだ。
「……マジかよ! 今月4回もデートあるのによぉ」
机に突っ伏したガクに、淡々と告げる。
「言い訳はいいから、黙って買ってこい」
「おー、こわこわ。やっぱ関東選抜様は違えや」
大袈裟に手を振るガク。
「……というより、デート4回ってなんだよ。まさか全員違う子とか言わないよな?」
「え、そうだけど」
けろっと答えるガク。そのまま、デート必勝法だとか、文化祭デートを一度は経験するべきだとかを力説した。
「……じゃあ、戻るわ」
「おう。朝練終わりにコーラ、忘れるなよ」
「うげ」と顔を曇らせると、体育館へと走っていった。
その姿を見送ると、参考書を閉じて文庫本を取り出した。普段は教室では本を読まないようにしているが、今日は未だ登校者も少ないし、誰かに見られることもないだろう。
漫然と読み進めていると、ある一文に、手を止めた。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の鷹にも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう」
教師が語りかけるその文章は、単なる日常の一コマのようでいて、ノスタルジーが漂っていた。終わりゆく少年時代への淡い憂いと、新たに訪れる青年期への物悲しさが、夏休みという輝きの終焉と、肌寒い秋の訪れによって暗示されている。
だが、僕が感じたのは、懐古ではなかった。
————そうだ。……彼の人生はもう終わってしまったのだ。
瞬間、足首をつかまれる感覚が走った。
数年の時を経て歪に繋ぎ合わさった記憶が、無人の教室で再上映される。
僕は、ゆっくりと、足元に視線を落とした。蔦のように絡みつく五本の指。白い爪が、皮膚を裂き、肉を断とうとせんばかりに、力強く足首を掴んでいる。その後ろには、砂埃が付着した短髪と、床の汚れのように薄暗い瞳。青白い肌には微かに血管が滲み、口元は苦渋にひきつり、笑っているようにも見えた。
しかし、全ては段々と透けていって、最終的には見えなくなった。
「……兄ちゃん」
ゆっくりと、透明になった『それ』は、言葉を発した。
『なぜお前だけが、前に進もうとするんだ。もはや俺は、走る事さえできないのに』
右足首を握る力が、さらに強まった。
「ひっ……!」
椅子が倒れる音。僕は、立ち上がって周囲を見回した。しかし、穏やかな朝日と眠気を纏った気怠い空気が、整然と並べられた机と共にあるだけ。しん、と静まりかえった教室の中、僕は椅子を起こして教室を去った。




