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「オリヴィアさま、あなた、隣国の王妃になりたいと言うの?」
ナディアも驚いているが、オリヴィアも自分の口から出た言葉にびっくりした。
だけどもうこれ以外、彼女を説得させる答えが浮かばなかった。
「兄さまの計画が失敗するとかはこじつけで、じ、実は私が行きたいだけなんです。なのに、反対されて、それで……」
――本当は憎き相手ですけど。大っ嫌いですけど!
たどたどしく説明するオリヴィアをナディアはじっと見つめた。
「もう一度聞きます。あなたは、我が祖国カルーデルを滅ぼした帝国に嫁ぎたいと?」
彼女の声は低く、鋭いものに変わった。帝国のことを恨んでいるのが、肌で感じた。
「カルーデル国を滅ぼしたのは、今は亡き先帝です。現皇帝陛下は、戦場にはいたものの、殺戮は彼の意思かはわかりかねます」
「現皇帝の噂は、酷い者ばかりですよ?」
「ナディアさまのおっしゃるとおりです。ですが、噂とは必ず誇張され曲げられるもの。真実とは違うかもしれません」
レオンティオ帝国が隣国を滅ぼし蹂躙していったのは、先帝の代だ。現皇帝カルロスは去年即位したばかりでわからないことのほうが多い。
「……現レオンティオ帝国の皇帝は、容姿端麗の美男子と評判。その噂も、嘘かもしれませんよ?」
オリヴィアは頷いてから口を開いた。
「見目麗しいかどうかの真意も含めて、この目で見て確かめてきます。そして、可能なら仲良くしたい。私が嫁ぐことで両国の争いを避けられるのならそれが一番です」
ナディアはふうっと、憂いを含んだため息をもらした。
「カルロス皇帝陛下は、冷酷非道でも有名。けれどきっかけは人質でも、そこから恋が成就するかもしれませんね」
「成就するかはわかりませんが、彼のことがもっと知りたいんです」
義理姉はオリヴィアの言葉を咀嚼するように、深く頷いた。
「政治に私情は関係ないという考えもありますけれど、私は人を想う気持ちこそが大事だと思います。オリヴィアさまのおっしゃるとおり暗殺よりも友誼を深めるほうがいいですし、命をかけて好きな人の元へ行きたいというあなたの気持ちを私は、尊重したい。きっと、冷酷な彼の凶悪王の心も、あなたの一途な思いなら動かせるでしょう」
決してカルロスのことが好きなわけじゃないが、彼の気持ちを変えたいのはその通りで、オリヴィアは、ナディアの話に頷きを返した。
「嫁に行きたいのなら、こっそりではなく堂々と発ちなさい。私が協力しますわ」
「お許しだけじゃなく、協力もいただけるのですか?」
ナディアは兄の次に実権を握っている。オリヴィアは現王の妹と言うだけで、それほど実権を持っているわけじゃない。彼女の協力は正直ありがたかった。
「でも、きっと反対されます。兄王も、宰相も、シェンナだって」
「みんなまとめて私が何とかしますわ」
ナディアはオリヴィアに近づいた。手を差し出されそっと握る。彼女からは花のいい香りがした。
「オリヴィアさま。人は変われます。だからどうか、幸せになってくださいね」
「……はい」
――相手は一度自分を殺した男。果たして幸せになれるのかは疑問だけれど。
「今夜はもう寝ましょう。寝不足で長旅はつらいですわ」
彼女は「ウエルさまたちは私にまかせて」と言ってゆっくり手を離すと、柔和な笑みを残して去って行った。
翌日。晴れやかな空の下、オリヴィアを乗せた馬車は予定どおりレオンティオ帝国に向けて出立した。
城から続く花嫁行列を見送る民は、みんな暗い顔をしていた。ハンカチで目元を拭う者までいる。
婚姻の目的が友好ではなく、人質だとみんな知っているからだ。
――レオンティオ帝国のいいなりで、王女を差し出したことに不安や不信を抱いているのね。
花嫁専用の豪華な馬車の窓から沿道を見つめ、そっとため息をついた。
――お兄さま、お腹、大丈夫かな……。
視線をはるか遠くに見える城へ向ける。オリヴィアは心の中で「ごめんなさい」と謝った。
出立予定の数時間前、身代わり計画を知っている兄王とシェンナ、宰相のノーバはほぼ同時にお腹を下してしまった。
ナディアが三人に、お腹の調子を緩める薬をハーブティーに混ぜて飲ませたらしい。
『シェンナは別の部屋で休んでるわ。ウエルさまと宰相のノーバは予定どおりシェンナが身代わりで嫁ぐと思わせているから、一日から二日は時間稼ぎできるはずよ』
オリヴィアを見送るナディアは、にこやかに笑いながら教えてくれた。
兄やシェンナたちの腹痛を心配すると『大丈夫。私が普段美容のために飲んでいるものを多めに飲ませただけだから』と、彼女はさらりと言った。
『それよりも、あなたのほうが心配だわ。あちらに行ったら様子を手紙で知らせてね。待ってるわ』
『はい。ナディアさま、兄やこの国をどうぞよろしくお願いします』
オリヴィアは、彼女にたくさんお礼を伝え、侍女のマーラと護衛騎士シグルド含む数人を連れて、城をあとにした。
馬の蹄が乾いた土を巻き上げる。
車輪の音を響かせて、馬車は滅びたカルーゼル国を通りすぎていく。ここはもうレオンティオ帝国領土内だ。
オリヴィアは、隣国のカルーゼル国に何度か訪れたことがあった。
街道には青々とした葉を茂らせた木々が立ち並んでいた。いつも市場が開かれていて、商人や買い物客で賑わう明るく活気がある国だった。
今目の前に広がっている景色は、壊れた建物と焼けて黒くなってしまった元は木々だったものだ。人の姿はなく、馬車が通れるように瓦礫が脇に寄せ固められていた。
――知らない国に来たみたい。
悲惨な光景に胸を痛めながらもオリヴィアは、他人事じゃないと思った。
外交などほとんどしたことがない自分に、帝国の進軍を止められるだろうか。
――これ以上、犠牲者を出してはだめ。不安に思っている場合じゃない。やるしかない。まずは王女として、戦争の回避!
気持ちをあらためなおしていると、突然、足元でにゃーっと猫の鳴き声が聞こえた。
窓の外を見ていたオリヴィアは驚いて、ぱっと視線を下に向けた。
「え……。ルカ?」
祖国を出て半日以上経っている。精霊猫の存在にまったく気づかなかった。
「今までどこに隠れていたのかしら」
オリヴィアは座席の下を覗き込んだ。猫一匹くらいなら丸まって寝られるスペースがあった。
「ルカ。勝手に入っていたのね」
金色に輝く長毛の猫は、両前足を伸ばし背伸びをしている。
ルカに会うのは、時が戻って初めてだ。よしよしと背中をなでるとゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。
――そう言えば、時が戻る直前にこの子の声を聞いた気がしたのよね。
「あなたも一緒に時を遡ったの? なんてね」
ルカは言葉がわかるみたいに、にゃーと一鳴きした。
「どうしよう。引き返せないし、今さら外に放つわけにもいかないし……旅は道連れって言うし、一緒にいこうか、ルカ」
ルカは、オリヴィアの前の座席に飛び乗ると、丸まって寝はじめた。
不安で、心細くなっていたが、ルカのおかげで気持ちが軽くなった。
オリヴィアは、自分にできることを見つけてがんばろうと気合いを入れ直した。
馬車に揺られること二時間後、日が暮れるとオリヴィアは予定していた宿に着いた。宿の亭主にミディル国から知らせは来ていないかと訊ねたが、何も来ていなかった。
追っ手も、知らせもまだ来ていないことにほっと胸をなで下ろす。
――ナディアさまがうまくやってくれているのね。
国境は越えた。ここはもうレオンティオ帝国内だったが、ウエルが目覚めれば、きっと追っ手を放たれる。
王都までは最短ルートを通ってもあと一日は馬車を走らせなければならない。オリヴィアは亭主と従者たちに、明日は日が昇る前に発つと伝え、早々に寝所についた。
次の日、オリヴィアは夜が明けきる前に宿を出発した。
馬車に揺られながら窓の外、藍色の薄暗い空を見つめていると、精霊猫はぴょんと膝の上に乗ってきた。