⑵
オリヴィアは笑顔なのに殺気を放つ目の前の人が怖かった。けれど、それを悟られないようにきっと睨んだ。
「帝国王自らが戦場に立ち、ミディル国を滅ぼすなんて、どうかしています」
「どうかしている? それはこっちの台詞だ。ウエル王は愚王だった。こんな大陸の端にある小国が我がレオンティオ帝国に刃向かい、勝てると思ったらしい」
カルロスは口角を上げた。目は笑っていない。冷たく鋭利な刃のようなほほえみだ。
オリヴィアは、震える手を止めるために剣の柄を強く握った。ちらりと横を見る。
カルロスと対峙している間に、侍女たちは敵の兵に捕まってしまった。
縄で拘束されているところを見ると、ひとまずこの場で命を奪うつもりはないらしい。あとは、自分だけだ。
「心配いらない。無抵抗の者は殺さない」
オリヴィアの考えを読んだようにカルロスは言った。
「ただし、少しでも刃向かう様子を見せたらその場で斬り捨てる」
侍女のマーラが、「姫さまっ」と悲鳴をあげた。
「姫、か。慕われているようだね。だが、姫を守る者はもういない。哀れだね」
カルロスの後ろにはレオンティオ帝国の兵がずらりと並んでいた。ミディル国兵の姿はない。
圧倒的に不利な状況だった。活路を見いだせなくて、がたがたと奥歯が震える。しかし、王家の者はいついかなるときも堂々としていなければならない。みっともない姿をこの男の前でさらしたくなかった。
「姫。剣を捨てろ」
オリヴィアは背筋を伸ばすと、無理やりほほえんだ。
「これは、我が兄の形見。捨てることなどできません」
「そうか」
刹那、カルロスの握る銀色の刃がオリヴィアの胸を貫いた。
遅れて胸がかっと熱くなった。全身から力が抜け、操り人形の糸が切れたみたいに、その場に座り込んだ。
息がうまくできない。地面に広がる赤い血だまりと、自身の長い銀髪を見ながらオリヴィアは、自分はここで死ぬのだと悟った。
震える手でなんとか髪を一房つかむと、兄の剣で髪を切った。
強い力で腕をつかまれ、引き起こされたオリヴィアは、カルロスの顔に向かって自分の髪を投げつけた。
「へえ、致命傷を受けてもあがくなんてすごいね。たいした者だ」
カルロスは難なく避けると、薄く笑った。
投げつけた髪で相手の視界を塞いでから、相打ち覚悟で刺すつもりだったが、剣は空振り、うまくいかなかった。ただ、拘束からは逃れられた。
何か言ってやりたいのに、胸が苦しくて声にならなかった。視界もぼやけてよく見えない。ただ、自分の背中が二階のバルコニーの柵を越えたのだけはわかった。
泉に吸い込まれるように身体が落ちていく。
「オリヴィア。今……」
カルロスが最後に何かを言っていたが、着水したときに聞こえなくなった。
――悔しい。どうしてこうなったの?
水中は暗く、何も見えなくなった。兄の剣も落ちた拍子になくしてしまった。
守りたかった国も、人も、そして自分の未来もすべて失った。
我がミディル国を滅ぼしたカルロスが憎かった。
――月の女神さま。このまま死にたくない。やり直したい!
こんな最後は嫌だと強く思ったとき、真っ暗だった世界に、強い光りが差し込んだ。
水中にいるはずなのに、日向にいるみたいにあたたかく、不思議な感覚だった。
おだやかな気分になってきて、これが死の世界かと思っていると、今度はどこかで猫の鳴き声がした。
――ルカ……?
お別れのあいさつをしに現れた精霊猫を、オリヴィアは思い出した。もう一度、あのふわふわの毛をなでたい。そう思いながら、強い光りの方へ手を伸ばした。
次の瞬間、オリヴィアは水中から顔を出した。
口を大きく開き、肺いっぱいに酸素を吸いながら周りを見回した。
「……え? どういうこと」
オリヴィアの目に飛び込んできたのは、青い空と白い雲、そして、陽の光だった。
目をぱちくりさせる。
泉に落ちたときは、真夜中だった。
水中で気を失うほど沈んでいただろうか。意識はもうろうとしていたが、完全に途切れた感覚はない。
オリヴィアは、額や頬に張りついている自分の髪を手で払ってから、「あれ?」と気がついた。
髪は自分で切って、カルロスに投げつけたはずだったのに、どこも切れていない。長いままだ。
「きゃあ! 姫さま、大丈夫ですか?」
顔を上げて見ると、侍女のマーラが泉にどっぷりと浸かるオリヴィアを見て絶叫していた。
「マーラ、無事だったのね!」
水中から這い出てオリヴィアは、マーラをぎゅっと抱きしめた。彼女の顔をまじまじと見つめる。
「レオンティオ帝国兵からどうやって逃げてきたの? あれからどのくらい時間が経った?」
マーラは困惑した顔で答えた。
「逃げる? オリヴィアさま、何をおっしゃっているんですか? レオンティオ帝国がどうしたのです?」
「どうしたって……レオンティオ帝国と戦争中でしょう? 主要都市が落ちて、この王都も火の海に沈み、それで……、」
――兄王は、討たれた……。
「オリヴィアさま、そんなたちの悪いご冗談はおやめてくださいませ。それよりも、まだ春先ですよ。そんな薄着でしかも自室前の泉で水浴びなんて、よしてください」
「春先? 今は秋でしょう?」
レオンティオ帝国が攻め入ってこなければ、秋の豊穣の祭りが行われる予定だった。敗戦続きで、準備がままならないとマーラが嘆いていたのを覚えている。
だが、オリヴィアの質問に彼女は渋い顔で小首をかしげるだけだった。
「話はあとにしましょう。ひとまず、これで温まってください」
マーラは自身が着ていたカーディガンを脱ぐと、オリヴィアの肩にかけてくれた。
「私の仕事着で申しわけございません。しばらくご辛抱くださいませ」
「私は大丈夫よ。それより質問に答えて。ウエル兄さまはどうなったの?」
オリヴィアはマーラの両腕を押さえて聞いた。彼女は目を見開いた。
「我が偉大なる王ウエルさまは、朝から城下に出ております」
間もなく花の祭典が催されるため、視察を兼ねた打ち合わせに行っているという。
「……花の祭典って、何回目の?」
「三十回記念の区切りの祭典でございます」
「……城下は、無事なの?」
「はい、無事です。今無事じゃないのは、全身びしょ濡れのオリヴィアさまです。このままでは風邪を召されます。さあ、お部屋へ戻りましょう」
自分の記憶と、マーラとの会話が食い違っていた。
無事と聞いてもまだ不安で、ウエルに会って確かめたいと思った。彼女から視線を逸らし、ちらりと上部を見る。
――時計塔に、砲撃のあとがない。
時計塔は無事で、長針と短針は朝の九時を少し過ぎたあたりを指し示していた。
――九時間経って朝になっただけ? でも、髪が長い。レオンティオ帝国兵の姿はなく、兄も無事で秋ではなく今は春だというの?
考えている間にも身体は勝手に小刻みに震えた。濡れたまま風に当たると寒い。
頭は混乱していたが、今はマーラの言うとおり身体を温めるのが先決だった。
訝しげな顔をしている彼女と一緒にオリヴィアは自室に戻った。
すぐに花を浮かべた湯船に肩まで浸った。冷めた身体を芯から温めていく。
――あれは夢。悪夢だったとか?
オリヴィアは、自身の胸元を見た。彼に刺された箇所は痛みや傷はなく、血こそ流れてはいないが、痣のように赤く腫れていた。
辺りに立ち込める焦げた匂い。怒号、カルロスの殺気と、刺された瞬間の痛みがありありと蘇る。オリヴィアは身体の奥から恐怖が迫り上がってくるのを感じた。
「やっぱり、夢じゃない。私は、カルロス王に殺された……」
オリヴィアは自分の両肩をぎゅっと抱きしめた。
――あれが夢だったなら、どんなに良かっただろう。
涙がぽろぽろと目の端からこぼれていく。
「時が、半年前に戻ったんだわ。とても、信じられないけれど」
秋ではなく春。花の祭典前で、自身の髪は長く、建物は無傷。兄も誰も死んでいない。
すべてが滅ぼされる前の状態だ。自分の命だけが過去に戻ったとしか考えられなかった。
――本当に時が戻ったのなら、神さま、感謝いたします。
オリヴィアは胸の前で手を組み、目を閉じて祈りを捧げた。
「……待って。今日は、半年前のいつかしら?」
オリヴィアは未来を知っている。
自分が行動することで、これから起きる不幸を変えられるかもしれない。
まずは、正確な日時が知りたくて、湯船から立ち上がると、マーラを呼んだ。