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第9回 覆面お題小説  作者: 読メオフ会 小説班
6/7

絵葉書

「もうこれ以上、先には行けねえよ」

「え、でも…」

 現地で雇った髭面の案内人はこの先に行くなんて正気じゃないという表情だった。

「ここから先は反政府武装組織の支配地域なんだ」

「……そこを、なんとかなりませんか? お金なら出しますから」

 私は必死に言いつのる。どうしてもこの先に行きたかった。

「金なんて命あっての物種だ」

「そんな…」

「悪いことは言わねえ。あんたも、ここで引き返すんだな」

 男は諦め悪く何度も頼み込む私に申し訳なさそうにしていたけれど最後には去っていった。私は呆然と途方に暮れる。ここは南米のジャングルの奥地。国境付近の辺境の町だった。胸ポケットから肌身離さず持っている絵葉書を取り出す。薄汚れて何が映っているのかも分からないその絵葉書写真に胸が熱くなる。挫けかけた心に灯が点る。こんなところで帰れない。ここに行くと決めたんだ。顔を上げる。どうすればこの先に進めるかを考え始めた。


 ☆


 GWは混雑するだろうと少し時期をずらして正解だった。新緑に包まれた白神山地には観光客の姿は疎らで、申し込んだトレッキングツアーの参加者も少人数のグループになった。

 良かった。世界遺産をじっくり堪能できそう。


 元々旅行好きだった私は大学進学を機に日本の世界遺産を巡って旅行する計画を立てた。その手始めがここ青森県の白神山地だ。ブナの自然林で有名な地だけど日本海側には多くの湖が様々な顔を見せる十二湖地域がある。午前十時。集合場所の物産展でガイドと合流した私たちはいよいよ森の中を歩き出す。碧の湖面に波が揺れる鶏頭場の池。神秘的な青が印象的な、湖底に沈んだ倒木まではっきり見える青池。そそり立つブナの自然林の森は陽の光が枝葉から漏れてキラキラ輝いている。その中をガイドの説明を聞きながらゆっくりと歩いて行った。

 いくつ目かの湖の畔に珍しく人がいた。若い男の人が湖畔に腰を下ろして三脚に乗せたカメラを構えている。結構大きなレンズの付いた本格的なカメラだった。なにを撮ってるのかな? 少し興味が沸いたけれどツアーの途中なのでそのまま通り過ぎる。これからツアーは山の方に入っていくことになっていた。


「ああ、ステキだった」

 夕方、集合場所の物産展に戻ってきた。ツアーはここで解散になって私は館内に設置されたイートインコーナーの椅子に座ってホッと息を吐いた。疲れたけど楽しかったあ。

「じゃあ、あかねさん、お気を付けて」

「おねえちゃん、ばいばい」

「はい。お元気で」

 ツアーで仲良くなった家族連れが一足先に帰って行く。彼らは自家用車なのだろう。私は帰りのバスをここで待つ。

 なんか食べるものでも買おうかな。売店に目をやったとき誰かが館内に入ってきた。

 あっ。見覚えのある服装。肩に担いだ三脚とカメラ。あの人だ。

 こんな時間までずっと写真撮ってたのかな? なに撮ってたんだろう? 

 好奇心がムクムクと沸いてきた。こっちに来ないかな。

 彼は売店で飲み物を買うと真っ直ぐこっちに歩いてくる。内心でやったと思った。一つ離れたテーブルに彼が座る。

「あ、あの…」

 好奇心に負けて声を掛けた。

「長池のところで何か撮ってらした方ですよね」

「うん?」

 こちらに顔を向けた彼が訝しげな表情をする。あ、私、いきなり話しかけて不審者みたいだ。

「あの、私、トレッキングツアーの途中であなたを見かけて、それで気になって、えっと……」

 焦りから早口になる。彼の表情がますます険しくなる。まずい、と思った。

「あの、えっと、その、興味があって」

「興味?」

「はい、あなたの撮られた写真に興味が……」

 パッと彼の表情が変わった。

「僕の写真に!」

「え? …はい」

「見たい?」

「えっと、そうですね」

「うん。いいよ!」

 面食らった。急に前のめりに話し出したその勢いに、これはうかつに声をかけなかった方が良かっただろうか? と少し不安になってくる。

「はい、どうぞ」

 彼がカメラの液晶モニターをこちらに向けてくる。そこに映った写真を見て思わず声が漏れた。

「うわー、すごい!」

 映し出されていたのは綺麗な朱い鳥が翼を広げ、今にも湖から飛び立とうとしている姿。湖面に朱い姿が映り込んで碧の湖との対比が鮮やかだった。

「すごい! 綺麗な鳥ですね」

「アカショウビンて言うんだ。カワセミの仲間」

「へえ。すてきな写真」

「ありがとう」

 彼は満面の笑顔を浮かべている。

「ずっと撮ってらしたんですか?」

「なかなか良いシャッターチャンスが無くてね」

「ずっと待ってるのって大変そうですね」

「いや、全然。待つのも楽しいよ」

「写真、好きなんですね」

 彼は少しはにかみながら

「うん。将来フォトグラファーになるのが夢なんだ」

 その意外に幼い少年のような笑顔に急に胸がドキッとする。なんだか眩しいものを見た気がした。

「なれたらいいですね」

 内心の動揺を隠すように告げる。

「ありがとう」

 ニコニコとした笑顔で彼は答えた。

 それからすぐにバスが来たので失礼しますと別れた。


 ☆


 私の世界遺産巡りは夏休みに船の運行の関係で一度行ったら一週間は帰ってこれない小笠原諸島を訪ねてマリンスポーツを堪能したのに続いて、秋、紅葉の知床半島を訪れていた。

 知床峠から羅臼湖を巡るトレッキングコースは片道約三キロ。途中、二の沼から五の沼までの四つの湖沼がコース上に並んでいる。広大な湿地帯が広がる一帯は泥濘んでいてトレッキングには長靴が必要なほどだ。ヒグマの生息地でもあり、本当はガイドツアーに参加するのが安全なんだけど、山歩きになれてきたこともあり今回は思い切って単独行にした。

 気持ちのいい秋晴れのお天気の元、紅く色付いた木々の間を抜け、見晴らしの良い沼の畔を通り抜けながらエゾジカやキタキツネが出てこないかな、なんて考えていた。一時間ほど歩くと三の沼が近付いてくる。湖面に映る逆さ羅臼岳で有名なその湖に近付くと先客が居た。

 三脚カメラを構えて湖畔に座っているその姿に私は、あっと小さく声を上げた。

 まさか! と思った。あの人だ! 

 心音が高くなるのが自分でも分かった。こんな偶然ってある? 背後から近付いていくと熊よけの鈴の音に気づいた彼が振り返った。私の姿を認めて眼を細める。それから何かに気づいたように瞳を見開いた。

「あ、キミ、白神山地で会った……」

 良かった。私のこと覚えていてくれた。なんだか嬉しくて私は少し芝居がかった声音で答える。

「奇遇ですね」

「ああ、ほんとに」

 彼も素直に驚いてくれる。

「もしかしてあなたも世界遺産巡りしてたりします?」

「え? なに?」

「あははは」

 それから私は実は、と話し出す。自分が大学に入ったのを機に世界遺産巡りの旅をしている事。あのあと小笠原諸島に行って今回の知床で三つ目だと言う事。それに対して彼も将来の夢に向かって日本各地で撮影旅行を行なっているんだと話してくれた。話しながら、この出逢いの貴重さに次第にテンションが上がってくる。お互い旅好きなら同じ場所に来ることもあるだろう。でも同じ日、同じ時間に同じ旅先で二度も鉢合わせるなんて、これはもう奇跡なんじゃないだろうか? もしかしたら運命かも? そう思ったら、このままサヨナラしたくなかった。

「あの、私、東雲あかねと言います。東京で大学に通う一年生で」

「ああ、そうなんだ。東京かあ、良いね。僕は茅先春樹。福岡の大学三年。芸術学部でフォトグラファーを目指してる。あっとこれは前にも言ったっけ?」

「はい、お聞きしました」

 その時の彼のはにかんだ笑顔を思い出して胸がキュッとなる。

 それから私たちはお互いの身の上や旅先でのあれこれ、最近の話題などとりとめなく話した。ほとんど初対面なのに話題に困ることもなく、次から次へと話が広がった。もちろん彼が撮った写真も見せてもらった。青い空と紅葉の大地の中で三の沼に映る逆さ羅臼岳の雄姿。雄大で神秘的にさえ見えた。ほけーと感動して眺めていると

「キミを撮っても良い?」

「え?」

 彼がカメラを持ちあげてファインダー越しに聞いてくる。

「え、あの」

「そうだな、その辺に立ってもらってもいい? ちょうど逆さ羅臼岳を背景に撮れると思うんだ」

 有無を言わさぬその指示に私は怖ず怖ずと従う。本格的にカメラを習っている人に自分の写真を撮ってもらうなんてちょっと恥ずかしい。そんな私の思いも知らず彼は私に立ち位置や表情の指示を出す。その毎にパシャパシャとシャッターを切る音が響いた。

「はい、終了」

 彼がそう言うまでにいったい何枚の写真を撮っただろうか。自分の頬が熱くなっているのが分かった。

「撮った写真、見せてもらえますか?」

「もちろん」

 彼が撮った写真を次々に液晶モニターに映し出していく。湖沼に映った逆さ羅臼岳を背景に私の全身が写った写真や腰から上を切り取った構図の写真。カメラ目線の写真だけでなく、湖面を見つめている所や空を仰ぎ見ている写真もあった。その中の一枚の写真を見たとき、あっと声を出してしまった。胸から上をアップで撮ったその写真は背景のぼけた湖面に反射した光が幻想的で、それを見つめる私はまるで幼い少女のような笑顔を浮かべている。見た瞬間、顔が熱くなった。恥ずかしすぎる!

「これがお気に入り?」

「え、あ、その」

 彼が勘違いした事を言う。

「じゃあ、これ、あとでパネルにしてあげるよ」

「えっ」

「もちろん他の写真もデータをあげる」

「えっと」

 勘違いを訂正したかったけど、なんとなく言い出せなかった。この写真を欲しいと少しだけ思ってしまったから。そんなこんなで私たちは連絡先を交換し、二度目の出逢いを終えた。


 ☆


 それから私たちが親しくなるのに時間は掛からなかった。

 旅行から帰るとしばらくして彼からあの写真を大きく引き伸ばしたパネルが送られてきた。改めて見てもすごく恥ずかしい。けれど、そのドキドキが心地良くもあった。すぐお礼のメールを送ると彼からもメールが返ってくる。そんな風にして私たちはメールやSNSで近況を報告しあうようになった。

 初めて一緒に旅行に行ったのはその冬。年が明けてお正月の混雑も終わった一月中旬。私の世界遺産巡りは続いていて雪の飛騨高山白川郷に行きたいといったら、彼もそれはぜひ撮ってみたい風景だと言うことになってお互い日にちを合わせて出かけることにした。だから三度目の出会いは必然で、それがとても嬉しかった。

 白川郷では茅葺き屋根に積もる白い雪景色が幻想的で、郷内の宿も囲炉裏があったりして素敵だった。驚いたのは彼の写真撮影だ。良い構図を探して白川郷を見渡せる高台に赴いたり、郷内を隈なく歩いてファインダーを覗いたり、いい構図が見つかると身を切るような寒さにも関わらず、屋外でずっと写真を撮り続けた。彼は私に、一緒に回れなくてごめんねとしきりに謝ってくれたけど、もちろん彼にとってはそのために来た旅行なので、私は少し寂しく思いつつも、むしろ彼の写真に対する情熱と真剣さに尊敬に似た想いを抱いた。同時にこの寒空で風邪をひいたりしないかと心配にもなった。


 それからもお互い時間が合う時には示し合わせて旅先で落ち合ったりした。私の中で彼の存在はどんどん大きくなっていった。やがてひと足先に大学を卒業した彼は、上京してデザイン会社で働きはじめた。そこで広告に使われるスチール写真やアーティストの写真を撮るかたわら、時間を作ってはやっぱり撮影旅行に出かけるような生活をしていた。

 彼が東京に出てきたことでちょっとした時間ーーー彼の仕事帰りや週末に会える機会が増えて嬉しかった。逆に一緒に旅行には行かないようになった。彼はもうプロのフォトグラファーで撮影旅行は遊びじゃないのだ。私が一緒に行ったら彼の邪魔になってしまう。それでも少し寂しく思っていると、彼は旅先で撮った写真をそのまま絵葉書にして私に送ってくれるようになった。SNSでいくらでも画像が送れる時代に、なんで絵葉書? と思ったけれど実際に手に取って触って見ることができるその写真は私の心を安らげてくれた。きっと彼が私のために選んでくれた写真だと思った。彼も私の事を特別に想ってくれているのかな? そんな期待に胸が膨らんだ。

 私が大学を卒業する頃には、少しずつ彼のフォトグラファーとしての実績も増えていって、彼の撮った写真が有名どころの広告に採用されたり、大手出版社から雑誌に載せる写真の依頼が舞い込んだりしていた。プロになってから彼が最も力を入れている撮影対象は風景、それも見た人が驚くような、あるいは誰も見たことの無いような景色で、そのために海外に撮影に行くこともしばしばだった。二、三ヶ月の長期滞在も多く、今更ながら会えないことがすごく寂しかった。それでも東京でOLになった私には彼はとても眩しく見えた。

 私が働き始めて二年経った頃、彼が海外の小さな賞を貰うことになった。授賞式前に帰国した彼と会っておめでとうを伝えた時、珍しく彼が自信なさげな表情で私の手を取った。

「もし、キミが良かったらなんだけど、授賞式一緒に出てくれないか?」

「え?」

「えっと、その…」

「授賞式に招待してくれるってこと?」

「いや、そう、えっと、違うか…」

「もう、なに?」

 彼が意を決したように口を開く。

「僕の奥さんとして出席して欲しいんだ」

「へ」

 あまりに突然でなにを言われたのか、わからなかった。それから徐々に言葉が染み込んでいく。気がついた時には彼に抱きついていた。

「私でいいの?」

「もちろん、キミしかいないよ」

「うれしい」

 私たちは夫婦になった。


 それから数年、彼は活躍の場をどんどん広げていき、比例するように世界中を飛び回っていた。誰も見たことがないような風景を求めて僻地へ赴くこともしばしば。ある時は広大な砂漠で吹き荒れる砂嵐の直中に赴き、別の機会には北極圏のオーロラの下、氷壁が崩行く直下に迫ったり、人跡未踏の高地で深さ数百メートルにも達する渓谷を踏破していたり、熱帯雨林の聳り立つ樹木の天辺からスコールに煙る世界を映し出したりした。

 私は日本でまだOLを続けながら、そんな彼が帰って来るのを待つ生活をおくっていた。彼の活躍は嬉しくも、やっぱり離れていると寂しさや不安を感じてしまう。彼は写真バカだから、カメラを構えると周りが見えなくなる。あるいは撮りたいもののために突き進んでしまう。大丈夫かな。無茶なことしてなければいいんだけど。彼は相変わらず海外からも絵葉書を送ってくれていてそれを見ながら私はほっと息をつくのだ。もちろん彼が無事帰ってきて日に焼けた笑顔を見せてくれた時には心底ほっとする。

 けれどそんな日々は唐突に終わりを告げた。


 ☆


 彼の前の会社(数ヶ月前に独立してフリーになっていた)から連絡が入ったのは、じゃあ、いってくるね、という彼をいつもどおり送り出して一月程した頃だった。外務省を通じて会社に入った連絡は、彼が南米の聞いたことも無いどこかの町で亡くなったと言う知らせだった。まさか! と思った。そんなことあるはずない! けれど心臓は凍りついたように冷たくなって、そのくせ、ドクドクと鼓動だけが高鳴っていく。頭から血の気が引いていくのが分かった。

 伝えられた話は断片的で会社の方でも詳細はわからないらしかった。教えてもらった外務省の方に連絡しても、今、情報収集中で詳しいことはわからないと告げられる。もちろんメールやSNSで彼に連絡を取ろうとしても返信はなかった。それ以上何もできず、なにも手につかず、二、三日生きた心地がしないまま連絡を待っていたのだけど、最悪の連絡が来た。亡くなった彼の遺体は現地ですでに荼毘に付され、遺骨と遺品だけが日本に帰ってくると言う。スマホ越しに話される声が急に遠ざかる。私はその場にくず折れていた。

 それから起こったことはまるで白昼夢のようだった。彼の遺骨だという何物かを受け取り、彼の居ないお葬式が催され、誰かが私に御愁傷様ですと頭を下げていく。でも私は、彼を送り出したあの日から彼を見ていない私は、彼の死の実感が少しもなかった。涙も出なかった。明日にでも彼がただいまと帰ってきてくれそうな気がしていた。それでもなにかが私の中からぽっかりと無くなったのはわかった。


 それから一月ほどして、これからのことを考えようとしても頭が回らず、体調も崩して自宅で療養していた時、郵便受けに一葉の葉書が入っていた。見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。彼からの絵葉書! まさか! やっぱり生きて…その期待に心臓が早鐘を打つ。急いで葉書の文面を読むと、いつもと同じように素敵な写真が撮れたから送る由が書かれてあるだけで、しかもその文字は掠れて見えづらく、写真も酷く薄汚れていて暗い背景にぼうっとした明かりの連なりが見えるだけで、なにが写っているのかよくわからなかった。目を皿のようにしてハガキを調べると投函されたのはもう一月以上前、彼が亡くなった頃の消印があった。それで分かった。これは彼が死ぬ前に送ってくれた葉書なんだ。心臓の高鳴りが急速に萎んでいく。南米の奥地からどこをどう経たのか分からないけれど、こんなに時間がかかって届いたのだろう。けれど、そう気がつくとむしろ届いたのが奇跡のように思えてきた。


 ーーー奇跡


 彼との出会いの奇跡を思い出す。胸に熱いものが込み上げてくる。同時に奇跡的に届いたこのハガキが彼の見た最後の景色なら、自分も見てみたいと思った。その想いがどんどん胸の中に湧き上がってくる。この一ヶ月で初めて何かをしたいという気力が湧いてきた。私は彼から届いた最後の絵葉書を見つめながら、これからなにをしなければいけないかを必死に考え始めた。


 ☆


 彼から最後の絵葉書が届いた後、私は考えられるあらゆる方法を使って彼の消息を調べた。もちろん会社や外務省にも尋ねたし、現地で対応に当たってくれた大使館の方にも連絡を取った。絵葉書の投函場所を頼りにSNSで情報を募ったり、彼の写真家仲間に彼が今回どこに行こうとしていたか尋ね回った。そんな努力のおかげで、どうにか彼を最後に診察したお医者さんが見つかった。私は居ても立ってもいられず直ぐ現地に向かった。

 南米のジャングルの奥地の小さな町の診療所で、はるばる日本から来た私を迎えてくれたその初老の医者は、自分が診た時にはもう手遅れだったのですと申し訳なさそうに話してくれた。死因は頭部の打撲とそこからの出血だったそうだ。それから彼をこの診療所に運んできたのはさらに奥地にある集落の住人だったこと、その集落には川沿いを遡れば辿り着けるはずだけど何日かかるか分からないと教えてくれた。

 ようやく目的地の目処がついて喜んだのも束の間、その場所は反政府武装組織の勢力圏だった。案内人に同行を拒否された私は辺境の町に一人取り残された。それでもここで諦める事なんてできないし、したくなかった。だから私は一人で進む事を決心した。


 ☆


 川沿いに奥地に向かって三日。何とかレンタカーで進むことができたけど、遂に道幅が狭くなり歩くしかなくなった。私はキャンプ道具を詰めたバックパックを背負って歩き出す。途端にずっしりとした重さが肩にかかって脚がふらついた。もう何日も体調が思わしくない。旅の疲労とストレスで微熱が続いていて食欲もほとんど無かった。それでもなんとか足を動かして前へ進む。彼の最後の地へ。それだけを考えて一歩一歩、歩き続けた。

 二日、野宿して歩いたけれど集落は見えてこない。それどころか誰一人遭遇しない。本当にこの道で合ってるのかな? あとどのくらい歩けばいいんだろう? 不安が胸に湧き上がってくる。体調もますます悪くなってきて、歩きながら意識が飛びそうになる。時々吐き気もするようになってきた。

 遂に一歩も動けなくなって川沿いの樹木の幹に倒れるように腰を下ろした。はあはあと苦しい息が漏れる。瞼が今にも閉じそうになる。熱のせいか嫌な汗が背中を滴り落ちるのがわかった。もうダメなのかな。辿り着けないのかな。この旅に出て初めて弱音がよぎる。胸の中のそれが瞼を刺激して溢れ出そうとした時、ガサガサと音がした。

 顔を上げると木陰から急に誰かが視界の中に現れた。あっと声が出て、その声で相手もこちらに気づいた。壮年の男の人だった。肩から銃を下げているのが見えて、心臓に冷たいものが走った。反政府武装組織。頭の中にその単語が浮かぶ。逃げなきゃ。そう思うのだけど、もはや体は少しも動かない。驚き顔だった男がこちらに近づいてくる。肩から銃を下ろそうとしている。もうダメなのかな。違う意味でそう思った。

「私は日本人です! 〇〇村を探しています! 茅咲春樹を知りませんか?」

 必死に叫んでいた。男が怪訝な顔をする。なにを言われたか分からなかったのだろう。やっぱりダメだよね。そう思った時、

「ハルキ?」

 幼い声が聞こえた。男の背後からひょっこりと少年が顔を出す。ハルキ、ハルキと口に出しながら私の顔をじっと見つめて、突然、ワオッと飛び上がった。私を指さして

「アカネ! アカネ! ハルキ ズ スウィートハート!」

 そう叫ぶとぴょんぴょん跳ねながら傍の男に何かを告げている。突然自分の名前を呼ばれたことに驚きつつも極度の緊張と体調の悪さに堪えきれず私の意識は遠のいていった。


 ☆


 目を開けた時、剥き出しの粗末な天井が見えて、自分がどこにいるのか分からなかった。と、視界の中に少年の顔が大きく現れる。その顔に微かに見覚えがあった。彼は大きく目を見開くと、わおっと叫びながら部屋を飛び出していく。あのとき出会った少年だ。じゃあ、私は助けられたのだろうか? 簡素なベッドに寝かされていた。起きあがろうとしたけれど身体がだるく思うように動かなかった。しばらくすると少年が飛ぶように戻ってきて、手に持った紙のようなものをひらひらと動かして指さす。よく見るとそれは印刷された写真のようだった。少年は写真と私を交互に指差すとアカネ、アカネと言う。私は、そこに写っているものに気がついて息を呑んだ。

 それは私の写真だった。もう随分前、そうだ、彼が初めて私を撮ってくれた写真。知床の羅臼湖畔の。少年がその写真を持っていることの意味を考え始めた時、部屋に幾人もの人が入ってきた。男の人も女の人もいた。大人も子供も。みんな手に手に写真を掲げて笑っている。多分被写体はその人たちだ。彼らは写真を指さしながら声を揃えて言った。ハルキと。


 それからカタコトの外国語と身振り手振りを交えての会話で理解できたことは、彼がこの集落に滞在していたこと、その間、村の人々の写真を撮ってあげたりして、村人とかなり仲良くなっていたらしいこと、この村を拠点にさらに奥地に撮影に出掛けていたこと。そして彼が奥地で亡くなっているのを発見してくれたのもこの村の人々だった。それを聞いた時、思わず大きな声が出ていた。その場所に行きたい。私を連れて行ってください。けれど彼らは私の体調を心配して今直ぐは無理だねと言う。もどかしかったけれど自分でも無理なのはわかった。元気になったら必ず、と約束する。

 それから数日、村で療養しながら、村人たちとカタコトのやり取りをしながら過ごした。あの私の写真を持っている少年に写真のことを尋ねると、彼に貰ったのだという。どうしてと尋ねると、彼がカワイイだろう、僕のスイートハートなんだと自慢して少年に見せたので、いいないいなと囃し立てたら、くれたのだと言う。ちょっとどう言うことか分からないのだけど(ちゃんと少年の言った事を理解できたかも自信がないけど)旅先で自分のことをそんなふうに話されていたのを知るとなんだか恥ずかしく、でも胸が温かくなった。

 一週間ほどしてようやく熱も下がり、まだ吐き気は残っているものの体力の回復した私は、彼が最後に訪れた場所に連れて行ってもらうことになった。


 ☆


 道と言える程の道もないジャングルの中を村の青年に案内されて2時間以上歩いた。突然、目の前の木々が切れ、ポッカリと空間が現れる。わー。思わず声が出た。眼下にまるい湖が周囲の木々を映して横たわっていた。カルデラ湖だろうか? 湖面は数メーター下の崖下にあった。案内してくれた青年が、彼はこの崖下で倒れているところを見つかったのだと悲しそうな表情で教えてくれた。思わず膝をついて眼下を覗き込む。彼はどこにいたのだろうかと想像の彼を探した。もちろん彼が居るはずもなく、けれどしばらく私はその場所から目を離すことができなかった。

 私がそうしている間に青年は簡単な野営の用意をしてくれていた。と言うのも、私が彼の亡くなった場所で一晩過ごしたいと希望したからだ。村の人たちは難色を示したけど、いろんな理由を付けてお願いした。一つには苦労を重ねてようやく彼の最後の場所に辿り着いたのにすぐに帰ってしまうのはイヤだったこと、それから彼が夜通し撮影に出ていたことを聞いたこと、そして彼にもらった最後の絵葉書に映っていたのがどうも夜の景色のように思えたこと。


ーーーでも本当はその場所でひとり彼のことを静かに思い出したかったのだ。


 青年は持ってきた毛布で寝床を整え、拾った石で竈をこしらえ、同じく小枝を拾い集めて火を点けてくれた。その間、私はずっと湖を見つめていた。湖面に映った雲が流れていく。小さなさざ波が立っていた。青年は明日の朝、また迎えに来るからと言い置いて帰って行った。私は小さくお礼を言って、竈の傍らに腰を下ろす。それからまたぼんやりと湖を見つめた。

 一人になると、ようやく心が落ち着いてきた。やっとここまでこれたよ。あなたの居た場所まで。心の中で彼に話しかける。あなたはここでどんな景色を見たの? なにを撮ろうとしてたの? 眼下に見える湖は美しい。空の青を映し、木々の緑を反射して輝いている。でもそれだけじゃない気がした。彼が最後に映そうとしたもの。もっとすごい何かのような気がした。もちろん、そうであって欲しいという私のただの願望かもしれないけれど。それから私の意識はしだいに彼との思い出に向かった。初めて出会った白神山地。運命を感じた知床での二度目の出逢い。一緒に旅した白川郷。彼は雪の中、ずっとシャッターチャンスを狙っていたっけ。彼が上京してからの小さな待ち合わせ。それが私にとってどんなにドキドキすることだったか。いくつもの彼との思い出が溢れてきて、眼を閉じてまるで反芻するようにそれをなぞっていった。


 あれ? いつの間にか自分は眠っていたのだろうか? 浅くなった眠りの中で意識が覚醒していく。ゆっくりと目を開けた。瞬間、無数の灯りが眼に飛び込んできた。

 え?

 最初、なにが見えているのか分からなかった。真っ暗な空間を埋め尽くすような無数の灯り。それが星空だと理解したとき、思わず声が漏れた。見たこともないほどの数の星が夜空に瞬いていた。星が空を埋め尽くしている! 月明かりはなく、それでも星明かりだけで空が眩しいくらい明るかった。起き上がって空に手を伸ばす。なんだか届きそうな気がした。ふと地上を見るとそこにも星が瞬いていた。わあああ! 今度こそ叫んでいた。湖面に星が映り込んで地上にも空が広がっている。すごい! まるで宇宙にいるみたい!

 しばらく見とれていたら不思議なことに気がついた。ボウッとした光が湖面から次々湧き上がってくる。まるで湖に映った星が実体を持って飛び出してきたようだった。光はどんどん多くなって私の周りでもふわふわと飛びまわった。なにこれ? 光る虫? それとも何かの自然現象? 光に手を伸ばしてもなんの感触もなかった。不意にその光が誘うように流れ始める。私は立ち上がってふらふらとその後を追いかけた。本当に星の中を歩いている気がした。三百六十度どこを見渡しても光が溢れている。

 ああ、この光景! これこそ彼がーーー 

 ”危ないよ、あかね!” 

 え? 誰かに名前を呼ばれた気がした。瞬間、自分の身体がふわりと浮き上がった。それから急速に落下していく感覚。つっ! とっさに頭を庇った。直後に全身に激痛が奔る。痛くて息が詰まった。

 落ちたんだと思った。あの崖から。痛みを堪えて目を開けるとふわふわした光はますます数を増し、その先には無数の星が天空に輝いている。世界はこんなにも美しい。けれど。

 ああ、わたしもここで死ぬのかな。彼と同じところで。なんだかそれも良いような気がしてきた。少しも怖くなかった。もしかしたらこれも運命なのかも。そう思った。彼が見た同じ景色を見ながら逝けるのならそれでも良いかな。もしかしたらそのために私はここに来たのかも。彼と同じ場所で逝くために。

 激痛の中でそんなことが頭の中をぐるぐる巡った。せめて彼と同じ場所に逝けますように。それだけを祈った。そこが限界だった。意識が途切れた。



 眩しさに眼を開いた。朝が来ていた。

 ……私、まだ生きてる。

 ぼんやりとした意識の中でそう思った。喜びよりも、逝けなかったんだという後悔にも似た気持ちが湧き上がってくる。涙が流れそうになって顔を横向ける。まだ全身に力が入らないけれど、ようやく首ぐらいは動かせた。不意に何かが光った気がした。朝の光を浴びて生い茂った雑草の下で何かがキラキラと輝いている。もしかして昨日の光? と思ってよく見ると草陰から覗くものがある。あっと息を呑んだ。まさか! まさか! 動かない腕を必死に伸ばした。雑草の下をガサガサと探る。ようやくそれに手が届く。冷たい金属の感触。知っている手触り。草の下から引っ張り出した。

 ああ、やっぱり。彼のカメラだ! 

 彼の遺品の中になかったカメラ。こんなところに隠れていたんだ。私はそれを胸の前で抱きしめる。お帰り。ようやっと彼が私のところに帰ってきた気がした。レンズが日の光にきらりと輝く。ただいま。そう言われた気がした。胸の中から熱いものが込み上げてきて溢れ出てくる。一度溢れると次から次へと溢れ出て止まらなくなった。彼が亡くなって初めて本当に泣けた気がした。


 それから迎えに来てくれた青年は私が崖下に倒れていることを発見して酷く慌てていたけれど、私が生きていることを知って応急処置をしたあと村人を呼びに行ってくれた。助け出された私は、再び村での療養を経て無事日本に生きて帰ることが出来た。

 そんな中、私は一つの喜びを知ることになった。


 ☆


 その日、都内の画廊ではある写真家の個展が開かれていた。

「惜しまれつつなくなった奇跡の写真家 〜茅先春樹が最期に見た景色〜」

 と題されたその写真展は、一年数ヶ月前に亡くなった新進気鋭の若手写真家の遺作展だった。会場の入場口には、彼の作品を掲載したことのある出版社や広告代理店、あるいはタレント事務所などから贈られた多くの花が飾られ、会場内には彼の残した写真が大小様々な大きさのパネルになって展示されていた。なかでも目玉は会場内に設置されたドーム型の部屋一面に敷き詰められた写真で、頭上には闇夜に輝く無数の星々、足元にはその星々を湖面が映して輝く地上の星、そして天と地の間の空間は漂う無数の光の珠が埋め尽くしていて、来場者は、自分がまるで宇宙空間の直中にいるような、あるいは深い海の底で光る生物たちに囲まれているような錯覚を覚えてしまう。これが本当に現実の光景を映したものなのか、みなが感嘆しながらも信じられない想いに囚われるのだ。けれどこの光景は亡くなった写真家の、一度は失われて、その後、奇跡的に見つかった愛用のカメラに最期に写っていた光景であり、彼が最期に見た景色と言われていた。その事が会場を訪れた人々の投稿したSNSなどで発信され話題になり、二週間の会期の半ばを過ぎた会場は結構な人で賑わっていた。

 そんな会場の様子をバックヤードに通じる衝立越しに、にこやかに眺めている女性が居た。傍らに置かれたベビーカーの中ではほっぺの真っ赤な赤子がキャラキャラと嬉しそうに笑いながら、彼女にとっては大きすぎるカメラを掴んでいた。



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