展翅
それは酷く暑い夏で。
寄ると触ると、苛々とした。
羽が擦れ、脚が絡み
頭がぶつかってはぎちぎち、ぎちぎちと顎を鳴らし合った。
何がそうさせるのかはわからなかった。
ただ今にも変身が起きそうな予兆がして
いつも落ち着かずにいた。
変化は唐突に、夜明けと同時にやってきた。
バリバリと身の内から食い破られる。
羽化したのは、脚も翅も、黒く塗り潰された新しい姿。
複眼が、炯炯と光る。
一匹が動き出すと、もうとまらなかった。
我も我もと徒党をなしてそこを跳び立った。
喰い尽くせ
喰らい尽くせ
あらゆる物を
何もかもを
男は走っていた。
あきれた王だ。
だからこそ決して斃させはせぬ。
無意識に袷に手をやり、そこにあるかそけき感触を確かめる。
乾いた閃紫蝶の亡骸と、紙で折られた蝶。
届けなければ、一瞬でも早く。
気の焦りが、足元を違わせる。あっと思った瞬間には既に遅く。足から砂の海へと飲み込まれていった。
潤冬は壮年の博士である。博士といっても徒名であり、実際は土木を司る工部の下級官人であり、位はそう高くない。それでも衣食住が賄えて大学で学んできたことを思う侭研究できれば問題はなかった。そうして出世にも浮世にも背を向けてきた潤冬が何故走っているのかと言えば
―――潤冬、こんなところにいたのか。さあ、馬に乗りに行くぞ
―――またですか、陛下。私は官人になるのですから、馬術は必須ではないのですよ。
―――何を言うか。お前は愛する虫達が暮らす所見たくはないのか?
―――そういって、水泳だの帆船漕ぎだの、あなたは連れまわすのでしょう。
ひとえに、学友であった皇帝の為である。
決して派手でなく、智慧に富んでもいないが、実直な男である。賢帝と名高かった父帝の治世の末期から蔓延っていた佞臣達の駆除に年月を擁した為、登朝には時間が掛かった。
佞臣達の駆除には官位の低い潤冬は何もできず、嵐の中をやり過ごす事しかできなかった。
だからせめて『飛蝗ノ災イ』だけは。
自分の分野である虫の分野でだけは、友であった男を助けたかった。
はた、と目を開けた。
気を失っていたのは四半刻にも満たないだろう。砂の海を渡り始めて数日が経ち、体に降り積もった砂の量で凡その時間を測れるようになっていた。
まず背中の荷がそこにあることを、それから袷の中の感触を確かめる。
砂の海は昼間は陽が容赦なく照りつけ灼熱地獄となる。それを避ける為に移動は日が暮れてからと決めているが、その分足元が危うい。
仰向けにひっくり返ったまま中天にぽっかりと浮かんだ月と、その周囲を彩る星の様子を観察する。砂の海には雨が降らない。だから常に月と星は見えて、道を見失わないのは僥倖であった。
その、月を跳び越すように、二匹の螇蚚が姿を現した。
咄嗟に追いかけ、両手で捕まえる。砂の中に諸共に沈み込んで捉えたそれらの両脚の棘は小さく色は――鮮やかな緑色をしていた。
良かった、と安堵が全身を駆け巡る。まだ「凝リノ相」は表れていない。穏やかな「隔テノ相」をしていた。
ぱっと手離すと二匹の螇蚚は夜闇へと吸い込まれてゆく。
立ち上がると再び走り出す。
彼らが穏やかな内に、潤冬は彼らを追い越さねばならぬのだ。
『飛蝗ノ災イ』
国の西側の砂の海から突如として始まる螇蚚の大量発生。
日常に溶け込む彼らが、ある日一斉に牙を向く。穀物はおろか、酪農の飼料も、畳表も、書物や、人々の衣服など、凡そ植物由来のありとあらゆるものを彼らは獰猛な食欲で喰らい尽くす。そうなれば、冬を越す事はできないから当然人々は飢える。大量発生は波のように年々に範囲を広げてゆく。去年飢える隣人を憐れんで施しを与えた人々が、今年は同じように飢える。それは幾年か続く。
今回の禍では国の西三分の一が飢えた。
無論皇帝が、朝廷が、無策であった訳ではない。
螇蚚が去った土地に種を与え、飢える人々に施しを与え、あらゆる手を講じて螇蚚を滅した。その結果、飢えはしたものの死者は最低限に抑えられ、この秋螇蚚の大量発生は生じなかった。
けれど、そこまでなのだ。
与え続けた国庫は既に尽き、今年も収穫はそう高く見込めない。
次に『飛蝗ノ災イ』が起きれば国は為す術なく倒れる。
そして、もう一つここに問題が起きる。
『飛蝗ノ災イ』には皇という字が入るのだ。つまり、皇帝が起こす災いとなる。そうなれば下野した佞臣達が黙ってはいないだろう。飢える前に政変でこの国が、朝廷が倒れる。
―――潤冬、助けてくれ。もうそなたしか、頼るところがない。薬は駄目だ。他の生き物を害してしまう。捕まえても喰らうこともできない。どうか次の『飛蝗ノ災イ』が起きないように、起きるとしてももう少し先に延ばすことが、出来ないか。
深夜の図書寮にかつてのようにふらりと、けれど悲壮な面持ちでやってきた男は。こちらの両手を押し頂くように強く強く握って、そう願った。
立ち上がる。砂を押し込むようにして進む。
足を包み込む砂はしかし、潤冬を捉えて離さない。そこへ置いてきた人々の面影が過ぎる。頭を振って一歩、一歩と歩みを進める。一刻」程も歩みを進めると、息が白く曇り始めた。砂の海の環境は過酷だ。昼間に溜め込んだ熱を一気に放射した砂は今度は急速に冷えていく。乾いた大気も熱を含む余裕がなく、ただ底なしに冷えていく。
肺腑を冷やしてはならない。笈箱から外套を取り出そうとして
「おおい、しっかり。しっかり、しろ!」
笈箱の中幾重にも真綿と大鋸屑で包み、大切に運んできた二つの鉢植えが無残にも萎れていた。
夕時、緑州を出る時に給水機に水を満杯に蓄えてはずなのだ。
それが何故、と呆然として、一瞬自失状態となる。
そうだ、先刻転倒した時に確かめなかった。あの時に給水機がずれていたのだとしたら。
己の迂闊さに歯噛みする。空になった給水機を押しやり、逡巡する。
水はある。けれどこれは自分の飲み水だ。これを与えてしまっては、翌朝辿り着く予定の緑州まで己の身が持たない。しかし、この草が枯れてしまえば、己だけ辿り着いても何の意味もないのだ。
決断を迫られ、涙が滲みそうになる。何も潤さない水分に、何の意味があろうか。
そこまで考えて、思考がある一点に集約する。
水分ならあるではないか。
旅装の袖をめくり、二の腕の内側を、短刀で一息に裂いた。
ばたたたっと鮮血が指先を伝い鉢へと流れ落ちる。
「頑張れ、頑張れ」
こんな咎人の血では不満かもしれないけれど。
どうか、枯れないでくれ。
『飛蝗ノ災イ』を起こす螇蚚と平和に農地を跳ねる螇蚚。両者は砂の海で生まれ、本質的な違いがないことは、古からの研究で分かっていた。
そして潤冬は自らの研究でこの両者が触れ合いによって生じることを突き止めた。
どうやら彼らは体をぶつける回数が増えると凶悪な性質を示すようだ。人為的に『飛蝗ノ災イ』を起こしている等と知れたら前代未聞。研究は僅かの舅と共に半ば大学の隅に設えた房に住み込むような形で行われた。
凝集性が高いから『凝リノ相』
隔絶されているから『隔テノ相』
そう名付けた螇蚚を昼夜の別なく、ぶつけたり、離したり、腹を開いてみたり、交尾させたりすること更に一年。
とうとう潤冬は螇蚚が蛹からの羽化直後に集まる覇王樹が大きければ大きい程、互いの距離が開くため『凝リノ相』が起きにくい、ということを突き止めた。
覇王樹を根こそぎ枯らしてしまえばそこに螇蚚は集まらず『飛蝗ノ災イ』は起こらなくなるだろう。
しかし、本当にそれでよいのか。
逡巡しながら報告に上がった潤冬を皇帝は笑って迎え入れた。
―――よくやった!それならばその覇王樹を朝安定の基盤として大きく育てよう。そなたの監督の下、砂の海に植えればよい。虫の皇を住まわせる覇王の樹というのもまた興だ。
交尾、産卵、成長と螇蚚の研究には時間が掛かる。遅々たる進みの潤冬を尻目に、何倍もの速さで老獪さを得ていくかつての友は、玉座の上から惜しみない賛辞を与えてくれた。
新たな局面に差し掛かった潤冬の研究は困難を極めた。覇王樹は他花受粉により株を増やすことができるが、この覇王樹は棘がある上に、毒もあるのだ。
毒のある場所を住処とする生存戦略は生き物として間違ったものではない。しかし、他の花のように花潜や蜂は寄り付かない。それでも懸命に研究を続けていると、ある種の蝶がこの花に寄り付く事が分かった。
「―――紫閃蝶ですか?」
大学の図書寮で文献を捲っていると、後ろから声をかけられた。
「ああ、失礼しました」
叩頭し、下がろうとした女に、引っ掛かりを覚えて声をかける。
「知っているのか?」
「その蝶は、私にとって特別のものなので」
何とも地味な女だった。舅と同じような布衣を纏い、肩から掛けた肩掛けには図書寮の所属を示す茶色の織物を使っている。潤冬は肩掛けを止める為に佩玉を付けているが、この女にはそれがなかった。どうやら官人ではなく図書寮の職員であるらしい。
代わりに夜明けの空のような羽の蝶の飾りをつけていた。墨を一滴垂らしたような淡い紫は
「私の名前は紫閃と言います。この蝶々の名前を貰いました」
意識が朦朧としてくる。寒くて暑い。袂を探って鎮痛剤代わりの廻花を得ようとしたが、何もない。水はどうだ。先程失った血の代わりに流し込んだ水が、最後の一滴だった。無理はない。緑州とは言え昼日中の砂の海は灼熱だ。しかもその間でさえ鉢が枯れないか心配で、微睡んでは飛び起きての繰り返しなのだから。
がくッと膝が折れ、両手を砂につく。
闇雲に顔を上げればぽつり、ぽつり、と等間隔に覇王樹が丸い姿を見せている。どれもまだ小さい。この大きさでは先程の二匹が番となり、産卵したとすれば……
立ち上がろう。立てないまでも、這ってでも進めば。
小さな覇王樹の姿が力を与えてくれる。
覇王樹の姿を目で追っていくと、砂の丘の先に、異様な姿をしたものが見えた。
紫閃は変わり者の女だった。海を渡った南国の商家の生まれだという彼女は芸事より学が好きで、図書寮の職員として働いている。
知っている、知らない、わからない、見つかった。
さばさばというよりはぼそぼそと喋る女で、言葉数も少ない。かと思えば折紙で細々と物を作ることが好きなようで、閉館間際に潤冬が慌てて片付けた書物など栞を作って入れておいてくれる事もあった。
紫閃蝶を調べていると言ったら、朝廷に集まっている所がある、と連れ出してくれた。典薬寮の植物園の隅、佩蘭の愛らしい紫の小花に無数に集まる蝶々。
折り畳んだ羽根の外側は朽葉色。内側にはっとするほど優しい薄紫を湛えた。
ーーー間違いない紫閃蝶だ。
しかも思ったよりも数が多い。潤冬が房で育てている覇王樹に集まるよりもずっと。
もしかしたら、と潤冬はその場に屈んだ。
卵、または幼虫、もしくは蛹。
そうしたものが見つからないかと思ったのだ。
紫閃蝶は都から少し離れた高地でもしばしば見かける蝶ではあるが、不思議な程に成体以外を見つけることはない。保護して卵から孵せれば、より効率よく覇王樹を育てることが出来る。
暫く探してみたが、やはりここでも見つからなかった。
ふわーんと風に乗って何頭かの蝶が潤冬の持つ覇王樹に寄って来る。
はじめて見ます、と覇王樹を観察していた紫閃があっと声を上げた。
「ここにいるのは雄ばかりです」
薄い羽を摘み腹にある生殖器を示す。
これも、ほら、これも、と次々摘まんではこちらへ見せてくる。
うーん、と首を傾げた紫閃はぐっと首を伸ばして覇王樹に顔を寄せた。棘が刺さるギリギリまで鼻を寄せてすんすんとしばし匂いを嗅いでいたが
「何か、雄を引き寄せる匂いのようなものがしているのかと思いましたが、私にはわからないようです。わかりますか?」
そのまま、顔を上げてこちらを見つめる。目も鼻も口も細く薄い分雪花石膏のような滑らかな膚が際立つ。
紫閃蝶が指に纏わりつき紙に、瞳に淡く影を落とす。
頬に星屑のような薄い雀斑が散っていることに、不意に気が付いた。
甘い、匂いがしていた。
「お兄さん、旅人かね」
そこに居たのは駱駝を連れた行商人だった。
建造物などない砂の海の只中。ありえぬ奇形。長大な筒の形の先にもしゃもしゃとした枝分かれがある。
「猴面包樹を知らないのかね」
「見るのは、初めてだ……」
知識としてはあった。寝物語に砂の海の話をした時に、彼女がそういうものがあると教えてくれた。その記憶を目印に、ここまで辿り着いたのだ。
「そうか。俺は偶に助けて貰うよ。年を取ると緑州から緑州までが長くて辛いんだ」
幹の一か所に小さな穴が開き、そこから皮袋へと雫が垂れている。駱駝がその下の樹皮を舐めていた。
ぱちりと、行商人の足元で焚火が爆ぜた。蛾のように誘われて座り込む。
「あんた臭うな。何かやってるのか?それに顔色が随分悪いよ……って、怪我してるじゃないか!」
炎に照らされて、乾いた血の色が見えた。
「どうしたんだ、盗賊にでもやられたのか」
いいんだ、と潤冬は答えた。
「深くは聞かないが、だいぶ熱を持っているな。熱が体に回らないといいんだが」
行商人はこんな時でも商売っ気に溢れ、薬や酒精を売ってくれた。沢山買ってくれたおまけだと駱駝の乳を煮て作った粥まで振舞って貰い、潤冬はやっと人心地ついた。
酒精は得意でない。それが傷口から沁みてきたのか酷くだるかった。
「旅人ではなさそうだな。どこから来なさった」
潤冬は首を振った。代わりに行きたい場所を告げる。
行商人が鸚鵡返しに繰り返した。声音が何故、と問うている。
「届けなければならないものが、あるんだ」
潤冬は紫閃に訳あって蝶を増やさなければならないのだと告げた。
「同じ蝶が、私の故郷にもいると、話したと思うのですが」
何を今更、というような顔を彼女はしていた。表情に乏しい女だが、このところは多少の顔色を見分けられるようになってきている。
「蛹から羽化するところを見ますよ」
何を言っているのかわからない。
「だから、この蝶達は南で生まれて、ここまで飛んできているんじゃないですか?だって、砂の海でも、生きてるんですよね?」
紫閃の故郷で卵を産み、孵化して、幼虫の時期を迎え、蛹になって、羽化して。そこから
砂の海に向かって飛び立つ?
「どれだけ、どれだけの距離があるのだ?!」
「そんなこと知りません。私、蝶ではありませんので」
素っ気なく言い切った紫閃は、けれど振り向くと楽しそうに笑った。
「でも、試してみませんか?私、秋の終わりに帰省しようと思っているんです」
墨に膠を混ぜて粘度を上げたものを用い、紫閃蝶の羽のその淡い色の部分に印をつけていく。蝶を捕まえるのは潤冬の役目で、印をつけるのは紫閃の役目。
不思議なほど人懐こい蝶々達は大人しく捕まってくれた。
傷つけないよう、優しく丁寧に。
潤冬と紫閃。二人の手が互いに触れ合う熱さえも優しく、その時は過ぎた。
「また向こうで会いましょうね」
いつしか体に纏わりついて離れない蝶々達を空に放しつつ、一匹一匹に紫閃は声をかける。
「弟妹に文を書いて、捕まえて貰います。もし、印があるものが見つかれば、早馬で知らせてもらえるように、頼んでおきますが、私達の方が早いかもしれませんね」
片付けをしながら、紫閃はそんなことを口にした。
ああ、と頷いて潤冬は言葉のあやに気が付いた。
私達?
言葉少なな彼女がそんな風に余分な語を足すとは思えなかった。
「一緒に行かないんですか?早馬より早いですよ」
さも当然、何を況や、という顔で紫閃は言い切った。
二人が辿り着いた丁度その日。今まさに早馬を出す所であったと印のついた蝶が捉えられていた。
羽の縁は欠け、秋の中頃に相次いだ嵐に遭遇したのだろう、羽全体がくしゃくしゃと白く色褪せて変形している。腹回りも記憶にあるよりも細く、ただでさえ小さく軽いその蝶は、さらに軽くなって。
それでも羽に、二人で書いた『潤』の文字が確かに入っていた。
今にも息絶えそうなそれを、潤冬は幼子達に頼んで譲り受けた。
疑って悪かった、と平謝りする潤冬に紫閃は別にいいです、と言葉少なく答えるのみで、許してくれたのかは分からなかった。
それでもまだ幼い弟妹が「多分これだよ」「ここに卵があるの」と卵を産み付けられた植物まで案内してくれ、許可を得てそれらを採集する事も出来た。
夜は紫閃の実家の、客人用だという離れに泊まらせて貰った。
母屋じゃなくて良いのか、秋の夜の祭りだからせめてそれだけでも、と紫閃の家族が誘うのを固辞して皇帝への文を認めていたその時に
蝶の羽ばたきより小さな音で、戸を叩く者がいた。
誰だろうか、と戸を開けると、そこには。
紫閃蝶よりも一つ明るい朽葉色の上衣を着て、いつもより奇麗に髪を梳った紫閃が、靴の先で地面を抉りながら、所在無げに立っていた。
一夜限りかと思った関係は、しかし。
帰都後、花一輪の飾りもない質素な自邸へと紫閃を招き入れ、彼女がそれに応え。
その熱い程に眩い、至福の秋の日々。潤冬は生涯何度も、繰り返して思い出す。
そしてその年、例年より暖かかった冬の初め。
他国で小さな『飛蝗ノ災イ』が起きたと知った。
『飛蝗ノ災イ』は砂の海に面する国であれば、何処でも起きる可能性がある。もっと言うならば接していなくとも彼らは跳んでいくのだ。幸いごく初期に沈静化することが出来たが、翌年以降に更に大きな禍が起きないとも限らない。
「共同研究の場を作ろうという話があってな」
人払いの上、久し振りに顔を合わせた友は開口一番そう言った。
「砂の海の緑州に周囲の国が協力して博士や研究者を集め『飛蝗ノ災イ』を防ぐ……この国ならそなたが適任と思ったが、やめておこう」
蝶に群がられて死んでしまう、と皇帝は笑った。何となくの意味を察し、潤冬の頬が染まる。
「『飛蝗ノ災イ』は起きないのが一番だからな。暫くは僅かばかり金子を送って研究資料をこちらへ届けてもらうことにしよう」
それが正しい、とその時は潤冬も思っていた。現に潤冬だって友である皇帝からの頼みであり、紫閃の故郷が関わっているから『飛蝗ノ災イ』を研究するのであって、そうでなければ別の何かを研究していただろう。
けれど今は思う。
中途半端に、手を出してはならないものも、確かにこの世にはあるのだ。
「悪いようにはしないから、それを見せてくれないか」
行商人は手負いの獣を宥めるようにゆっくりと潤冬に近づき、体の強張りを解すように数度さすってから、慎重に笈箱の蓋を開けた。
「植物だね。水気が必要かい?」
わからない、と首を振った。「片方のことは、本当によく知らないんだ。けれど、枯らしちゃいけない」
ありがとうよ、と行商人は潤冬に荷物を返す。
「こちらこそ、どうもありがとう。もう行くよ」
「行くのか?悪いこと言わないから、せめて一晩休んでからにしないか」
いやだ、と潤冬は首を振った。
いやだ、いやだ、言葉が零れると、貴重な水分が体中からつられて溢れ出す。
いやだ、いやだ、大丈夫だ、と大の男が泣き散らすのを見て行商人は呆れたように息をついた。
「よくわからないが、あんた随分いっぱいいっぱいだったんだな」
ポンポン、と背中を二つ叩くと
「行商人としてあんたに売りたい物があるんだ。ちょっと取ってくるから、一刻、いいや半刻でいいから、ここで火の番をしていてくれないか?」
南の島で紫閃蝶が卵を産み付けていたのと同じ植物を用い、同じような環境を整えたにも関わらず、孵った幼虫は育たなかった。蝶は番い、卵は生まれるのである。月が満ちて生まれた幼虫はしかし、数日も経たずに死んでしまう。温度が良くないのか、日の加減か、餌場か。房の一室に、植物園の花壇の隅に、あらゆる場所で試してみるが、結果は芳しくない。そうこうしている内に紫閃蝶達は次々と寿命を迎えてしまう。息絶えた虫達を蟲塚に収め、日夜手を合わせ、また図書寮に籠る日々が続く。
多くは語れないが、紫閃も薄々と何かを感じているようだった。夜半を過ぎてようよう自邸へ帰り着くと冷めてしまった食事を前に、ぽつねん、と座っていることがしばしばあった。
「生きていることが分かったので、失礼します」
そんな言葉と共に、ぽろ、ぽろと雪花石膏色の胸を涙が滑っていく。
それが、彼女を見た最後だった。
程無くして、彼女が職を辞して南方の島へ戻ったと聞いた。元よりその約束で都へ出てきていたのだという。望まれて、直ぐに地元の役人の元へ嫁いだと、聞いた。
それでも潤冬の日々は変わらず、螇蚚と紫閃蝶の世話と、研究に明け暮れていた。
季節が巡る。
郷里の父が死んだ。
母が嫁いだ姉の元に身を寄せると聞いた。
皇帝の子の、元服の祝いを横目で見た。
幾人かの同僚が去り、幾人かの上司の首がすげ変わったのを張り紙で読んだ。
砂の海の研究施設から届く研究結果は決定打になりえなかった。
南方の島から、紫閃蝶がやってきた。
今年も、『飛蝗ノ災イ』は起きなかった。
何の糸口も見いだせず、困り果てた潤冬はとうとう南方の島へ助けを求める事にした。
紫閃と別れた後も研究協力の謝礼として金子を送り続けていたので、藁にも縋る思いであった。
暫くして返ってきた手紙の文字の表書きの「潤」の字があまりに見慣れたもので、つきりと胸が痛んだ。中身は彼女の弟からで、驚いたことに紫閃蝶が卵を産み付ける草と、幼虫が食べる草は別物であると書かれていた。産み付けるのは羅架綿だが食べるのは玉蝶梅。実験したので間違いない。と潤冬が使っているのと同じ書式で結果が書き連ねてあった。
そして、弟の字で姉が娘を産んだと書いてあった。
玉蝶梅なら、植物園にある。
淡い桃色の花の咲く、切込みの入った肉厚の葉が美しい有毒の植物だ。
毒のある植物に集う蝶なのだから、幼虫が毒のある葉を好むのも道理である。
一抱えある鉢を植物園から急ぎ持ち帰る。紫閃蝶を用意しようとして、俄かに房の外が騒がしくなった。潤冬の代わりに砂の海の研究施設と行き来する男は賑やかな男なので、きっと彼が研究結果を持ってきたに違いない。数日遅れの便りを受け取るべく房の扉を開けると
「観察御史だ。こちらで謀反の疑いがあると密告があった。動かないで頂きたい」
揃いの装束を着けた物々しい装備の男たちが、無頓着に房の中へ足を踏み入れる。
「居たぞ!黒い螇蚚だ!!やはりここが『飛蝗ノ災イ』の発生源だ!」
虫籠が次々と叩き落され中から螇蚚が飛び出す。
「駄目だ!やめろ!」
ここで『飛蝗ノ災イ』の研究をしているのを知っているのは―――あの男。
賑やかな砂の海との橋渡し役。かの男が佞臣達の手下であったとしたら。
自分達ではなく、潤冬が謀反を起こしていると密告したとしたら。
そして『飛蝗ノ災イ』が誰かの手によって、人為的に起きるものだとされたなら。
それを起こせるのはただ一人。人身で唯一皇の名を関する―――
「うわ、なんだこいつら!」「服に噛り付いてくるぞ!」「離れろ!離れろ!!」
狂暴化した黒い螇蚚が観察御史を襲う、その一瞬の隙をついて。
潤冬は二つの鉢を引っ掴んでその場から逃げ出した。
螇蚚が皆、弾けるように四散する。紫閃蝶が風に乗ってどこかへ行ってしまおうとする。
その只中を、虫と一緒くたになって、駆けて、駆けて、駆けた。
ここに居てはいけないことだけは分かった。袷に手をやり、そこにある微かな感触を捉える。これだけが、潤冬の心の拠り所であった。
どこへ逃げるか。行先は一つしかない。砂の海の研究施設。これまでの交流の事を考えれば受け入れて貰えるだろう。贅沢はしなかったので幸い金子はあった。
肩掛けに下げた佩玉と引き換えに手に入れた金子で、潤冬は砂の海を目指した。
「丁度良かった。今戻った所だ。あんた、これを買わないか。採りたての猴面包樹の葉だ。安くしておくよ」
一刻か、二刻か。あるいはそれ以上か。寝入っていた潤冬に明るく告げた行商人は布袋に詰めた緑の葉を見せた。
「水分をたっぷり含んでいて野菜みたいなものだ。中に実も少しだけど入っている。これがあれば、もう少し持つだろう」
こっちは皮袋に入れると良い、と差し出されたのは
「猴面包樹の幹を削ったものだ。陽に当てておくと中から水が出てくる。それを草にはやればいい。もちろんあんたも飲める」
この固い幹を削ったのか。この夜中にこの巨木を登り、葉を刈って実を摘んだのか。
言われた値段は多分、とても安い。
潤冬が商品を受け取り、荷を収めたのを見届けると行商人はがっしりと両手でこちらの肩を掴み
「いいかい?あんたが行きたい場所までもう少しなんだ。だから諦めちゃ駄目だよ。あと一息頑張んな」
何故、という言葉が先に漏れた。
「なんでそこまでしてくれるんだ。今さっき、会ったばかりなのに」
願ってくれた友は窮地に立たされ
父の死に目に立ち会わず
恋人は己の元を涙と共に去り
そんな咎ばかりの自分だというのに。
さあな、と行商人は笑った。
「俺にもわかんないよ。でも、あんたがそんな風に疲れ果てても未だ頑張ってるってことは何か重要なことなんだろう。それで、そんな風に頑張れるのはきっとこれまで、助けてくれた人たちが一杯居るんだろう。だったら俺も助けてやらなきゃって、それだけだよ」
いつでも呵々大笑で研究の進捗を見守ってくれた友が
なすべき役目を果たせと見守ってくれた家族が
眩いほどの熱を与えてくれた無口な恋人が
研究に携わってくれて、力を貸してくれた全ての人々が
記憶が、想いが、潤冬を力強く、包み込む。
「有難う、助けてくれて」
万感の思いを込めて、それだけを告げた。
うん、と行商人は笑い
「俺はもう行くよ。夜が明け始めたから。日が昇るまでに次の緑州へ着きたいんだ」
これまでと地平線が違う色を帯び始めている。
薄明という言葉がふと脳裏を過った。
夜色からうっすらと姿を現したのは淡い紫に墨を一滴垂らしたような
―――紫閃蝶の羽の内側と同じ色の、夜明けだった。
僕らは、旅をする。
どうして旅をするかなんて、わからない。
大切なものがあって、出逢わなくちゃいけないものがあって。
いつしか隔ててしまった距離をどうしたら飛び越えられるか。
そればかりを考えて。
僕らは飛んだ。
最初はみんなで渡れた距離が、どんどん渡ることが難しくなって。
また一頭、また一頭と仲間が脱落していく中で、
飛び続けられるたった一頭の未来を、願った。
何十、何百の、未来をつなぐ為の輪廻があって。
ついに僕らは、旅をするための力を手に入れた。
どんな風も、嵐も、もう怖くない。
この羽には、この生には、それだけの力がある。
僕らは、旅をする。