第77話 恋バナ
「恋…………」
「恋っていうのはね、相手を想うと胸が締め付けられたり、ドキドキしたり、暖かくなったりする感情を言うのよ」
夏影陽里らしくない言い方ではあったが、気にしない。
───そうか、これは…………
自分の気持ちが、確信に変わっていく感覚だ。
心にかかっていた靄が取れるような。
───ですが……
「…………私は、恋など知りません。この感情が、恋であるという確信が──」
「顔、真っ赤よ」
そう言われて、メイは咄嗟に自分の頬を両の手で包むようにして触れた。
手から伝わってくる、異常な熱。
それが、自分の顔の持つものだと理解するのは簡単だった。
「恋、だったんですね」
口に出してしまえば、スッと納得がいった。
これが、恋かと。
今まで、恋──異性と疎遠だった彼女にとって、それは革新的な気付きだ。
自分とは無縁だと思っていた恋愛を、自分の手で体験していること。
それが、乙女の心臓をより昂ぶらせていた。
「嫌な感覚ではないでしょう?」
「はい。恥ずかしさはありますが…………」
「ふふ、可愛らしいものね」
心が軽い。
今すぐ、スキップしたいような感じだ。
当然、メイはそんなことをしないのだが。
それでも、この気持ちを聞いてくれる人が、目の前にはいた。
それだけで、昂ぶった感情の行き場に困ることはなかった。
「あなたは、どうしたいの?」
「どうしたい、と言うのは……?」
「彼とどうなりたいの?」
───それは、もちろん…………
そこで、ふと思い出した。
彼女にとって、彼と共になることは困難を極めるということを。
恋をした男が、自らの主人の敵であることを。
「その、夏影陽里様」
「ん? なにかしら?」
「私の部屋で、話の続きをしてもよろしいでしょうか?」
おそるおそる、言葉をかける。
彼女とて、休日を過ごしているのだ。
メイの勝手な事情に付き合わせるのは、忍びない。
それでも、メイには話し相手が必要だった。
彼女の気持ちと、板挟みにされているこの複雑な状況を、聞いてくれる人物が。
そして、夏影陽里はその最適だと思ったのだ。
彼女ならば、自分の求めている答えを出してくれるかもしれない、そんな期待もあった。
「分かったわ。それじゃあ、店を出ましょうか」
「私が払います。勇者様に払わせるなど、できません」
そうして通貨を取り出そうとすると、夏影陽里に止められる。
「今の私は勇者ではないわ。勇者という肩書きを下ろして、休日を過ごしているの。一人の友人として、私に奢らせて」
力強い言い方だった。
こう言われてしまうと、メイにはもはや断ることはできない。
「ありがとうございます。ご馳走さまです」
素直に感謝を口にして、メイはパンケーキを食べきる。
夏影陽里が会計を済ませると、2人はそのままメイの部屋へと向かった。
・ ・ ・
「何も無い部屋ですが……」
メイの部屋は、客人をもてなすのにはとても向いていない。
彼女があくまで生活できればいい、というレベルの部屋でしかない。
メイはメイドだ。
それゆえ、部屋の掃除は、ちゃんと行き届いている。
家具が最低限のものしかないことを除けば、清潔感のある部屋だった。
メイは夏影陽里をテーブルへと案内し、椅子に座らせる。
椅子は、一応2つあった。予備というのと、ベールが急用で来訪した際、座る場所を用意していないようでは不敬だ、という理由からだ。
そして、紅茶を注ぐ。
トポトポと、規則的な音を立てて注がれるホットティーは、彼女の得意分野だ。
透き通った紅茶が、白いティーカップを満たしていく。
それを夏影陽里の分、対にくるように自分の分まで注げば、準備は完了である。
メイも、椅子に腰掛けた。
「美味しいわね。人生で一番美味しい紅茶だわ」
紅茶の香りを楽しむように、ゆっくりと口をつけた夏影陽里の漏らした感想だ。
彼女の仕草は優雅だった。
どこかの貴族かと疑ってしまうほど、所作に雅がある。
「ありがとうございます。紅茶を淹れるのは、得意ですので」
「なんだか、貴女の話を聞けるのは新鮮ね。どこか、近寄りがたい雰囲気だったから」
言われても、メイには反撃できない。
自覚はあるのだ。
キリッと、そういう態度を心掛けているからこそ、周りにすれば関わりにくさを感じるのだろう。
「それは、申し訳ありません」
「謝ることじゃないわ。けど、謝罪は受け取っておく。────それで、話の続きをしましょうか。なにか、まだ悩みがあるのでしょう?」
「はい」
一度、深呼吸をした。
これを勇者である彼女に言っていいのか、それはメイも迷っていた。
ただ、隠す必要もないだろうという判断だ。
むしろ、これを伝えることで夏影陽里が警戒してくれるならば、良い方向に働くはずだ。
「駿河屋光輝様が死んだのを、覚えておりますか?」
「ええ。確か魔族の仕業、だったかしら?」
「はい。そして、桃原愛美様も魔族によって暗殺されたと、そう言われております」
メイが言うと、夏影陽里が一瞬怪訝な表情を浮かべる。
「言われてる?」
「実際は、魔族の仕業ではないのです。魔族の手引があることは確実ですが、犯行に及んだのは人間です」
「なるほど」
なぜ魔族のせいになれているのか。
彼女は、それを言わずとも理解したことだろう。
考え込むような表情の彼女の脳内は今、あらゆることを思案したはずだ。
「私の想い人は────その人なんです」
「………………」
夏影陽里は無言だった。
メイの初恋を叶えようとすれば、それは主人であるベールに反することになる。
夏影陽里が反するならばともかく、それはメイ自身の裏切りだ。
メイには、それが難しいだろう。
恋する相手と、尊敬する女神ベール。
両方を取ることはできず、多分、どちらかが死ぬまでその対立は解けない。
なんとも、板挟みにされた状況なわけだ。
「それは…………」
「分かっています。普通に考えて、ベール様を優先すべきだということは」
「それでも、心のどこかに迷いがあるのでしょう?」
「ないと言えば、嘘になります」
控えめな言い方だったが、メイの葛藤を夏影陽里は見抜いていた。
大して仲が良かったわけでもない彼女に相談する時点で、内心は余程迷いがあるはずだ。
それこそ、猫の手も借りたい、というような。
迷い、葛藤し、挙げ句の果に夏影陽里に相談した。そうでなくては、彼女がこれを話す必要などないのだから。
「たかが、恋する相手に過ぎません。それをベール様と比べる時点で、不敬だということは分かっています」
心の内に秘める思いは、難しく、複雑。
答えを簡単に出せるものではない。
「それでも、なぜか迷ってしまうのです。とても、この想いを大切にしたいと思ってしまうのです。
私は、どうすれば良いのでしょうか?」
「とりあえず、この話を女神様にするのはやめておきなさい」
前で頷くメイを見て、夏影陽里の持つ違和感は増していく。
おかしいのだ。
長年、女神に仕えているメイドが、たかが1人の少年への初恋でその忠誠が揺らぎかけている、ということが。
思春期の少女に、恋という感覚は強烈なものかもしれないが、メイは確か見た目以上の年齢であるはず。女神に仕えてきた年数も多く、彼女のそれは崇拝に近い領域だった。
夏影陽里の考えていることは、少年の方になにか問題があるということ。
つまり、精神支配の類である可能性。
それゆえに、女神への思いが揺らぐのだ、と。
しかし、この考えには穴がある。
精神支配をメイレベルの対象に行えるのか、という話だ。
ぶっちゃけ、無理だろう。
まあ、だからこそ不完全な状態なのかもしれないが。
ただ、精神支配が不完全でも行われている、というには考え難い。
女神は一度、精神支配を無能だと蔑んでいる。
メイに有効なのに、無能だと言ったとは思えない。
なので、どちらかというとこれは、女神────────
そこで、夏影陽里の思考は途切れた。
これ以上は、頭に靄がかかったようで、考えられない。
「まあいいわ」と頭を振り、葛藤する少女に向き直った。
「────どうすれば良いのでしょうか?」
「その少年は、女神様と敵対しているのでしょう?」
「え? あ、はい。そうです」
唐突な質問に、メイは戸惑いながらも答えた。
「それじゃあ、もう一度会うことになるわけよね」
「そうですね」
アオイは暗殺に使われるほど、能力を信頼されているということ。
つまり、魔族との全面戦争にでもなれば、必ず出てくるだろう。
しかし、
「一目見れる程度でしょう。私も、彼をベール様に近づけるわけにはいきません」
「私がなんとか時間を作ってあげるわ。別に、そんな後じゃなくてもいいでしょう? 会うくらいならなんとかなるんじゃないの? 魔族領域に住む人だっているでしょう?」
「そういう問題ではなく、アオイさんは暗殺者なんですよ? 勇者を殺しているんです」
言い切って、しまったと思う。
アオイという名前はえてして伏せていたのに、勢いでつい言ってしまった。
「アオイ? 彼の名前かしら?」
「…………はい。ご内密にお願いします」
「分かったわ。まあ、どちらにせよ今決めれることではないと思うし、どこかのタイミングで会ってみるしかないんじゃないかしら? あなたは動きにくいでしょうし、私がセッティングくらいはしてもいい。会う気がないならば、今ここでスパッと決めるべきでしょう?」
夏影陽里の言うとおりである。
───アオイさん…………
もう一度会う必要がある、そう考えただけで胸が高鳴った。
頬が紅潮していくのを感じる。
目の前にいる勇者は、それを真剣な表情で見ていた。
「あぁ、なるほどね……」
そして小さな声で、呟く。
メイにも聞こえたが、取り留めもないことだと無視した。
「まあ、機会の用意くらいはするわよ。友人のためだもの」
「わざわざ、ありがとうございます。ですが、危険はないように」
「当然よ。それに────」
一瞬迷ったような表情を浮かべた後に、続ける。
「──いえ、なんでもないわ。確信を得たらまた話すわね」
「? かしこまりました」
含みのある言い方をされたが、気にしないことにした。
多分、考えても分からない。
彼女に話す気がない以上はどうしようもないだろう。
「それじゃあ、もう少し惚気話でも聞きましょうか」
話を変えるように、明るい口調で夏影陽里が言った。
メイも「そうですね」と相槌を打ち、彼女たちの恋バナは再開したのだった。