第3話 無謀なる戦意
女神が何かをつぶやくと同時に、俺の視界は暗転した。
だがそれも一瞬のことで、世界に色が灯ったときには、俺は知らない場所へと移動していた。
───魔法……
頭に可能性が過る。それは、忌々しいあの女神によって俺が転移させられたということだ。
それが閃き、遅れて怒りがふつふつと湧いてきた。
「クソッ……!」
転移された場所は森のようだった。
日は高く昇っているのか、どちらにせよ木の多さから辺りは薄暗く、時間の指標となるものはなかった。屋敷にいる時は他のことで頭がいっぱいで時間など気にしていなかったし、そもそも時間が分かるものがなかった。
「どこを見ても木……か」
持ち物はない。制服を着ているだけで、ポケットに入れていたスマホなんかはなかった。あったからといって、ここでネットは使えないだろう。
「とりあえず───」
ガサッ
「───なんだ?」
不意に後ろから音がする。
それは、何かが草にぶつかった音。
風の音ではない。確実に、”何か”がぶつかった音。
”何か”がいる。俺の後ろに、何かが。
ドクンっと、心の音が高鳴るのを感じた。
命の危機。
真後ろにいる"何か"は俺にとって最悪の脅威。
そんな気がしてならない。
俺はそっと振り返る。
そして、”何か”と目があった。
そこに佇むのは金髪の獣。百獣の王に似ているが、別の生物。
それが別の生物であるのは、体長が5メートル以上もあることから明らかであった。
こんなやつが近づいてきて、足音がしないはずがない。
だが、最初にあたりを見渡した時、コイツはいなかった。
「つまり、音もなく近づくことができる、と」
簡単に推測できること。だが、俺をより危機的な状況に追い込むには十分な事実。
獣は俺を虎視眈々と見つめていた。いつ食ってやろうかと、こちらへ訴えているように見える。
獣にとって、俺は恰好の餌なのだ。
涎を垂らしながらグルルゥ……と唸り声を上げる様子がそれを雄弁に物語っていた。
「はは……やってられねぇよ……」
乾いた笑みが溢れる。
絶対に勝てない上位者を前にして、足も竦む。
それでも───
「死にたくは……ないんだよな」
生きる意志はまだ、残っている。
あの女神に復讐するまでは、まだ、死ねない。
だから、走る。
獣に背を向けスタートダッシュを切り、逃げるように木々の合間を走り抜ける。
「うわぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁ────ッッ!!」
遅れてきた恐怖に、俺は叫びながら走った。
全力で、百獣の王に背を向けて走った。
あんな怪物には勝てない。
生き残るためには、逃げる必要がある。
後ろは一切振り返らない。
がむしゃらに前を向いて走る。
「あっ……」
人生でこれ以上ないほどの全力疾走だったからか。
恐怖で足が竦んでいることもあって、木の根に躓いた。
全力で走っていた俺の足がもつれ、木の根がそれに絡まった。
「うっ!」
バタンっと勢いよく転び、顔が地面と衝突した。
激痛が走り、その痛みについ声が漏れる。
そしてそれと同時、獣が俺に飛びかかった。
獣が俺の上を物凄い速度で通り過ぎていくのを感じる。
ただ、転んだことが幸いして偶然避けることができた。
まさに、奇跡。
生まれてこの方感じたことがない”死”への危機感と、そして圧倒的な危機感から一瞬でも逃れられたことによる安堵が同時に襲いかかる。
だが、次はもうない。これ以上、偶然は続かないだろう。
───何か、生き残る手はないのか?
圧倒的な上位者を前に出る疑問。もちろん、単純に走り回るだけでは生き残れないことは理解している。
───だからこそ、頭を使え。
俺のステータスの中で唯一高いのはINTだ。これは───頭を使えばどうにか打破できるかもしれない、ということだと信じたい。
「考えろ、考えろ、考えろッ───!」
走るか? ───否。
隠れるか? ───否。
どちらもとても逃げ切れはしない。
走るのも早く鼻もいい獣からは、その程度では逃げられない。
そんなことを考えている間に獣は俺の方に振り向く。
避けられたことに苛立ちを覚え、目には怒りを宿して。
「これしか───ない」
地に伏すように倒れている俺は今、木の根に手が触れている。
「<支配>ッ!」
俺は、俺の能力を信じる。
><支配>の行使に成功
成功した。
女神に蔑まれた能力が、無能と言われた能力が。まるで天が俺に味方をしたかのように、危機一髪の状況でそれは成功を見せた。
ならば───最後まで信じよう。
「俺を守れ! 木ッ!!」
木に何ができるというのか。傍から見ればただの悪足掻きでしかない。
実際、俺からしてもこれは最後の悪足掻き。
そう、悪足掻きのはずだった。
が───
俺の声に合わせて木の枝は動き出し、獣の四肢を絡めとるように巻き付いた。屈強な枝が獣の動きを封じたのだ。
「やれば……できるじゃないか」
その隙に俺は走る。
より速く、より遠く。
・ ・ ・
「はぁっ……はぁっ……!」
とりあえずここまで来れば大丈夫だろう。<支配>を通して、まだ木の枝が千切られていないことは伝わってくる。
「まずは……ここらへんの木をすべて<支配>する……か」
時間があるうちにできる限りのことをしておくべきだ。
周りにある木6本に俺は触れ、<支配>を使っていく。
特にこれと言った事態も起こらず、スムーズに<支配>は成功していった。
「特にスキルの使用に伴う疲労感はなし……と」
木に命令をし、俺を包むよう指示する。
6本の木の枝がにゅるにゅるとその形を変え、俺を中心に半径5メートルほどのドームを作っていく。
第三者から見れば不可思議な現象だが、生存の為にはとやかく言ってられない。
「枝もそろそろ千切られる」
はじめに<支配>した木の枝はまもなく千切れるようだった。もう1分と持たないだろう。
「その間に色々と確認をしないとな」
主に、固有スキル<生殺与奪>について。
Lvの表記があるということは、レベルが上がることもある、つまりこれから強化される可能性もある。それは自分自身も同様に、だ。
「問題は……レベルアップの方法だよな」
普通に考えるなら、トレーニングを通すか、魔獣を倒すことで上がる、といったところ。スキルの方は使っていけば上がる可能性も捨てきれない。
とはいえ、現状では憶測に過ぎないのも事実。
考え得る方法を一通り試してみないことには分からない。
「とりあえずは──<支配>の方か」
木のドームの中には光が差し込んでいる。
上に穴を開けさせ、光が入る状況を作ったのだ。
「花もいける……よな?」
ドームの中には色とりどりの花が咲いていた。
それはこの奇妙な森には似合わないほどに苔の生えた緑の地面を彩っている。
特段花には詳しくないから、目下の花を見ても種類は分からない。そもそも、かつての世界にあった花と同じものなのかどうか、それも分からない。
俺はその花たちを<支配>し、そして開放していていく。
<支配>、<支配>、<支配>、<支配>──────
繰り返すこと30回ほどだろうか。
>固有スキル<生殺与奪>のスキルレベルをLv1からLv2に変更
予想通り、その瞬間は来た。
使用に伴う経験値のような概念の蓄積、あるいは何らかの条件によるレベルアップが起こるのだろう。
「そうしたら……ステータス」
俺はレベルアップした<生殺与奪>の効果を見ていく。
何か、あの獣に対抗する術があるのか。
生き残る術があるのか。
それを漏らさぬよう、丁寧に上から読んでいった。
「…………」
俺の固有スキル<生殺与奪>は、スキルレベルが2に上がったことにより、<支配>の強化が施された。
その内容は、触れるだけで<支配>が使えるというもの。
つまり、今まで短い時間であったが制約されていた<支配>発動までの時間が不要になる。
<支配>の発動に10秒と要らないのであれば───あの獣でさえ、<支配>できるかもしれない。
「あの獣だけは……確実に殺す」
生への執着と、死への恐怖。俺の心を支配していたのはこの2つの感情と、そして強者への嫉妬だった。
ただ、その為には確かめる必要があることは山積みだ。
例えば、女神の言っていたように、格下しか<支配>できないのか、ということだ。
そもそも”格下”とは何か?
きっと天職やレベルのことではない。
存在としての格の違い、個としての強さの違いを表しているように思える。
木や花が格下か格上か、それはハッキリしない。だが、あの獣が格上なことは確実だ。実験するとしてもリスクなしとは言えない。
「アイツより弱く、俺より強いヤツを探すか?」
あの獣で実験をするかどうかは重要な判断となる。獣から逃げながら、別の対象を見つけるのも一つの手だろう。
だが、どこにいるかも分からない格上より、あの獣の方が相手にしやすい。一度動きも姿も見ているし、木でしばらく拘束できることは確認済みだからだ。
それに、別の格上を相手にしている時にあの獣に追いつかれでもしたら、それこそどうしようもない状況だ。
上手くその2体が喧嘩になれば良いのだが、女神の説明を聞く限りあの獣は魔獣。別の格上も魔獣だった場合、敵対する保証はない。
「次にアイツがここに来た時、確実に殺す」
だから、俺はこの実験をあの獣ですることに決めた。
それでも、こちらから打って出ることはしない。
支配している木が多くあるこの地帯に誘い込まなければ、俺の勝機はないと言って良いからだ。
逆に、数本の木を支配しているここならば、十分に勝機はある。5メートルもある獣に対し、10メートル級の木が6本もあるのだから。
「これからの為に武器もほしいところだな……レベルも上げておく必要がありそうだ」
殺生したくないという気持ちには不思議とならない。
「女神のおかげ……か」
皮肉なことに、女神の精神平衡の魔法のおかげでパニックにならず、生き残ることができた。
生物を<支配>することも、傷つけることも、殺すことも、少しも抵抗はない。
ガサッ
「来たか……」
そんなことを考えていると、またあの時と同じ音がした。
獣だから、匂いに敏感なのだろう。俺の匂いを辿り、もうここまで来たということだ。
足音もなく、木の葉にぶつかった音だけが響いた。やはり、音もなく走ることができるのだ。
「盾になれ」
俺はドームから出て、木を守るような形に変形する。6本の木は枝を巧みに使い、俺を獣から守るよう、四方からの攻撃にも対応できる形を取る。
ステータスも低く、レベルも1のままだ。
しかし、恐怖で足が竦んで、逃げるしかなかったあの時とは違う。
今ならば、コイツを殺せる。
そんな根拠のない自信が、心の奥底から湯水のように湧き上がる。
「さぁ」
リベンジマッチの始まりだ。