第174話 無謀
「やあ、葵」
「ベルゼブブ……か。俺の体は耐えられなかったみたいだな」
「流石に無理をしすぎたね」
自分の体に何が起きたのかは理解している。
悪魔の力の代償。人の身には余る力を使ったことによる、肉体への多大なダメージだ。
<暴食>の力の性質は、物体を魔力に変換すること。
物体自体を消滅させ、エネルギーとして蓄える。本来は魔力の回復の手段なのかもしれないが、視点を変えて”物体の消滅”に重きを置いた使い方をしていた。
当然、物理・魔法法則に背く能力だ。
物をエネルギーに変換するといえば、まず思いつくのは熱による発電だろうか。しかし、それも”物体を燃やす”という過程を踏む。あくまで”燃やす”ことによってエネルギーを抽出しているのであって、物体から直接的にエネルギーに変換するような仕組みではない。
もちろん、不可能というわけではない。
創造魔法が魔力で物体を一時的に生成するように、原理上は逆のプロセスを踏む<暴食>は有り得るのだ。
それでも、魂まで魔力に変換することが出来る<暴食>は、クローン技術同様、禁忌の一種と言えた。
世界の禁忌に触れる力なのだから、悪魔の力という部分を除いても、体への負担は大きい。
無謀にも<暴食>に頼った戦い方をした俺は、いつも通りの暗黒な空間に来ていた。
「まあ、座りなよ」
いつもと違うのは、この暗黒の空間に机と椅子が置かれていることだ。
漆黒の空間に黒を基調としたテーブル。一見見にくい組み合わせだが、精神世界だからということもあるのか、よく視認することができた。
ベルゼブブに言われた通り、俺はテーブルまで歩いていく。可愛らしいサイズのテーブルの上にはクロスが敷かれており、小柄なカップも置かれていた。
「何が飲みたいかな? 何でも用意できるよ。なんせ、”暴食”だからね」
「じゃあオレンジジュースで」
食のことなら任せておけ! と、対面に座り胸を張ったベルゼブブが、俺の要求に一瞬固まる。
文字通り”何でも”用意するつもりだった彼女だ。オレンジジュースという要求に面食らったのだろう。
「……まぁ、いいけどさ……?」
そうは言いながらも、希望通りにオレンジジュースをカップに注いでくれるベルゼブブ。
細かい綺麗な装飾のついたティーカップに注がれるオレンジジュースは、いつも以上に美味に見えた。
「ありがとう。ベルゼブブは何を?」
「私はコーヒーでも飲むよ。こっちの世界にもコーヒーはあるんだけど、そんなに美味しくなくてね。葵の世界の食べ物は色々美味しくて嬉しいよ」
「俺らの世界のことを?」
「直接見たことはないよ。君の記憶から色々とね。勝手に記憶を覗いたことは謝るけど」
「いや、いいよ」
どこからか取り出したオレンジジュースを戻し下さい代わりにコーヒーを自分のカップに注ぐ。
それも終えると今度はチョコレートと焼き菓子まで机の上に並べ、もはやお茶会のような雰囲気だ。
「食べ物を美味しくいただくためには、色々な条件がある。食材の質や料理の腕だけでなく、食器、部屋、机や椅子、食べる相手、時間まで。様々な環境を整えてこそ、美味しく食べれるんだ」
「──たしかに」
「暴食とはいえ、美食にも通ずるところはある。ただ多く食べればいいっていうわけじゃないんだよ」
好きな人と食べるご飯は美味しく感じる、とか。
落ち着いた場所で好きに食べるご飯が何よりも美味しい、みたいなところに通じるものがあるのかもしれない。
”暴”食とはいっても、やはり食への拘りは存在する。彼女にとって大切な部分だというわけだ。
ベルゼブブはチョコを摘みながら話を続ける。
喉が渇いたわけではないが、俺もオレンジジュースを一口飲んだ。
「───どうでも良さそうな反応するね」
「ん? あぁ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「分かってるよ。気掛かりなことでもあるんだろう?」
パチンッ!
ベルゼブブが指を鳴らすと、テーブルの近くにスクリーンのようなものが映し出される。
やけに近代的な技術だな……と思うも、およそ俺の記憶から読み取った日本のものに違いない。
そんなことよりも、映っている景色が気になった。
先程まで俺がいた空間。
視点が少し下なのは、俺の視界を映しているからだろうか。
イブルがルリと何かを話している。
その内容までは聞こえないが、やけに良質な画質のおかげで口の動きまでハッキリと見えていた。
「……これは?」
「葵の得れる情報を映したものだよ。残念ながら、聴覚がイカれているせいで音は聞こえないけどね」
限界が来た時、俺の体の中で何が壊れたのだろうか。
見る限り、視覚は無事だ。聴覚は駄目らしい。
手足は動くのだろうか? 声は出るのか? あらゆる疑問が浮かぶが、それよりも───
「ルリ……」
ルリの安否が気になった。
地に伏すルリに、動く元気はないように見える。イブルが何を話しているのか分からないが、どうせルリを更に追い込むような言葉を掛けているに違いない。
「何度も言うけど、無茶し過ぎだよ。本当に死ぬよ、君」
「それは悪いと思ってる……。だが、これ以外に戦う手段がなかったんだ」
「それもそうだけどね。魔法では彼の方が上、近接戦闘でも勝ち目はない。となれば頼れるのはスキルだけさ」
頼みの綱である<暴食>で仕留めようとしたが、それ以前に俺に限界が来た。
もう一度使えていれば、イブルを殺すことは出来ていただろう。
それだけに、悔やまれる。
「俺の体は?」
「随分とボロボロだね。内臓が何個か死んでる。治癒魔法が使えないのも痛手だよ」
「──そうか」
そう言われても、これ以外にイブルへの対策は思いつかなかった。
俺の使える能力はすべて、彼に及ばないのだ。
それに、この世界で一般的に普及しているような能力は、すべて対策されている。魔法も駄目だ。
ユニークで強力、それこそ<暴食>のような力でないと対抗さえ許してくれない。
「まあ、私のスキルも対策されてるみたいだけどね。<暴食>の使用に制限が掛けられていて、そのせいで君の体への負担も大きかった」
神、始まりの獣の対策を考えている男が、天使と悪魔を放っておくはずもない。
ある程度は<暴食>の対策もされていたし、それが功を奏して俺の限界が先に来た。
完全なイブルの勝利である。
「あ」
「ん?」
ベルゼブブが急に、スクリーンを見て声を上げた。
釣られて俺もスクリーンを見る。そこでは動きがあった。
イブルが歩き始めている。俺のことは無視──もはや再起不能の状態なのだからそれは当たり前だ。
ルリに向かって、ゆっくりと歩き始めていた。
対するルリは、動かない。動けない。
心を折られてしまっているのか、イブルの能力によって行動不能になっているのか。
いずれにせよ、ルリに近付くイブルの目的など、おおよそ予想できる。
「ベルゼブブ……」
「何? 助けたい、って? 今の君の体で? 全部壊れた、ほとんど使い物にならないその体で?」
「どうにか、ならないのか?」
俺の質問に、ベルゼブブの表情は歪んだ。
言わんとすることは分かる。
自分を犠牲にしてまで救う意味があるのか。イブルの言っていたことと同じだ。
そこまで自分を痛めつけておいて、なぜこれ以上戦おうとするのか。もう十分戦ったではないか。
言葉にされずとも、ベルゼブブの表情からその意図は伝わってきた。
そして、その気持ちは理解できた。
俺が彼女の立場でも、同じことを言うかもしれない。
しかし、考えてみればルリには救われてばかりだ。
ルリが居なければ命を落としていたこともあるだろう。
それなのに、ルリのピンチに駆けつけないことが許されるのか。それで良いのか。
「どうにかならないか、と聞かれれば出来るよ。糸で操るように、君の体を無理やり動かすことは出来る。それでも<暴食>は使えて3回。君の体は確実に壊れる」
「それでも良い。お願いだ」
入れてもらったオレンジジュースのことなど忘れて、俺は席を立って頭を下げた。
ベルゼブブには頼ってばかりだ。またどうにかしてもらうしかない。
そのたびに俺の体は摩耗され、ベルゼブブに心配をかける。
「───はぁ……。分かったよ」
「……良いのか!?」
「なんで自分で言っておいて驚くのさ。いいよ、別に。その代わり、条件がある」
「条件?」
意味深げに言い出したベルゼブブを訝しむような表情で見返す。
どうやらそれは俺の勘違いだったようで、次に発せられた言葉に俺は呆気に取られた。
「今度、茶会にでも付き合ってよ」
「そんなことで良いなら、喜んで」
「────そう。死んでも知らないよ」
「分かってる」
俺の覚悟が変わらないことは、今までで十分に分かっていることだろう。
それでも最終確認と言わんばかりに、ベルゼブブは念押しする。
「葵、君は君を大切に思う存在がいることを自覚した方が良い」
「……それは、ごめん」
命を賭けると決めて戦いに挑んだ。
今更、命を落とすことを恐れはしない。
「ま、謝らなくていいよ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」、そんな言葉を発するよりも早く、俺の意識は闇へと沈んでいく。
いつも迷惑をかけるベルゼブブに、心の奥で謝罪をしながら。
ルリを助けるべく、俺は場に舞い戻った。