第173話 敬虔なる裏切り者(2)
揺れる体を、右足を一歩踏み出すことで支える──踏み留まる。
視界の暗転は一瞬のことだった。平衡感覚を失い倒れそうになったものの、大きな影響は出ていない。
しかし、たしかに”気を失っていた”。
もしも、右足を前に出すのが間に合っていなかったら。意識を取り戻したとき、地に伏していたら。
どれくらいの時間、意識を失っていたのかは分からなかったはずだ。それくらい、記憶が飛ぶレベルの失神だった。
息を整える。
そして、自身の体に意識を向ける。
大きな損傷はない。ダメージを受けているわけでもない。
ただ、意識を失っただけだ。
それが前兆だということは分かっている。
悪魔の力を過剰に使ったことへの代償。これ以上は体が耐えられない──そんなことがひしひしと伝わってくる。
「…………」
ぼやけていた視界も、段々と正常に戻っていく。
中央にはイブルを捉えた。<暴食>は当然避けられている。
まだまだ余裕そうだ。
当たり前か。彼は避け続けているだけなのだから。
それでも、イブルの失われた左腕が、<暴食>が有効であることを示している。一度だけでも<暴食>を命中させれば良いのだ。勝機は十分にある。
「お前の体は限界のように見えるぞ」
「そうか? ただの目眩だよ」
イブルから掛けられる言葉には強がって返した。
ここで限界を認めてしまえば、本当に自分の体が動かなくなる、そんな気がするのだ。
だから、無理にでも体は動かす。
問題は、イブルがまだ手を全て明かしていないことだ。
ならば、その手を使わせないのが最善手である。一撃必殺の<暴食>で、手早く仕留める。使わなければ持っていないのも同然だ。
「──なぜ強がる?」
「強がっているように見えるか?」
「実際、そうだ。人が人ならざる者の力を使うということは、相応の対価が求められる。お前の体は平凡な人間と変わらない。なぜ、身を削ってまで戦う?」
───なぜ、か。
俺たちがインテリタスに来た理由は、人工魔力器官の確保のため。それを使ってメイを救うためだ。
それ手に入れるためには、ダンジョンのボスであるイブルに勝たなければいけない。
「お前が逃げ出すのであれば、私は追うことはしない。魔王、ティフォネ、神が倒されても孤独に立ち向かうその勇気に免じて逃してやろう。こう見えて、かなりお前を評価しているんだぞ?」
「…………」
「……不満か? あぁ、魔王も逃してやる。家族なのだろう? 2人で逃げると良い」
ここで俺と雫が逃げ出せば、人工魔力器官の回収は不可能となる。
だから、そんな選択肢は取れない。
だが、イブルであれば。
交渉すれば、人工魔力器官を譲ってくれるのではないか。
彼らの文明の証を、容易に貰えるとは思っていない。それでも、交渉する余地くらいはあるのではないだろうか。
───駄目だ。
たとえそれが叶ったとしても、ルリとラルヴィアを見捨てて逃げるのか。
イブルがルリとラルヴィアを逃してくれるはずがない。彼女らを見捨て、俺は逃げるのか?
そんなことをできるはずがなかった。
「これでも不満か? ああ、そうか。ここに来たのだ。何か目的があったのか? 土産としてくれてやる。それくらい、お前の行いは勇者たるものだった」
イブルがなんと言おうとも、その選択は取れない。
それが合理的だと分かっていても、俺は逃げ出せない。
───不思議なものだな……。
異世界に召喚され、女神に蔑まれ、同郷の仲間に裏切られ、始まった復讐劇。
他人を信じることはせず、<支配>で繋がれる関係。あったとしても、利害が一致するような関係、利用するような間柄の存在ばかりだった。
仲間と共に、魔王を倒す冒険に出る。
そんな物語が待ち受ける勇者が、恨めしく思うほどに。当時の俺にとって、”仲間”という存在は遠いものだったのだ。
それが今や、命を賭してでも救いたい相手が出来ている。
ルリにラルヴィアに、メイに。雫だってそうだ。
孤独から始まった旅で、気付けば大切な仲間が出来ていた。恨めしいと思った勇者の旅のように、目的を共にできる──<支配>に頼らない仲間が出来た。
「……ごく普通の、ありふれたファンタジー物語みたい、か」
「ん? なにか言ったか?」
人工魔力器官を貰って、俺と雫で帰り、メイを助ける。なるほど、たしかにそれも正しい選択肢なのかもしれない。
しかし、そうはいかないのだ。ルリとラルヴィアを見捨てるなどという選択肢は取れない。
命を賭けてでも、ルリとラルヴィアのために戦う。
「なぜ諦めない? そこの神とティフォネに助ける価値があるのか? そもそも、ティフォネはこの世界に害ある生物だぞ?」
「まあ、俺にとってはルリだからな。ティフォネティフォネと言われてもなぁ……」
「正気か? 私には合理的とは思えない」
「合理だけが正しいわけじゃない、というのが俺の考えだから」
それにしても、なぜそこまで俺に引き下がってほしいのだろうか。
<暴食>も避け続ければ良いだけ。そこまで大きな問題があるように思えない。
合理主義ゆえに、不安要素を完全に消し去りたい、という気持ちはあるのかもしれない。<暴食>に直撃すれば、イブルであろうとも耐えられない。
あちらから攻撃を仕掛けてこないのも気になる。
まるで魔力を温存しているような──それこそ、ルリや雫に備えているようにも感じられた。
「なぁ、イブル」
「なんだ?」
「トロッコ問題って知ってるか? 俺の元いた世界では有名な話なんだが」
「聞き馴染みのない言葉だ。聞こう」
「路上に6人が括り付けられているんだ。ただ、1人と5人に分けられている。そこをトロッコが通るんだが、トロッコはどちらか片方のみを通るんだ。そして、トロッコが5人、1人、どちらを轢くかを選ぶことができるのは、問題の回答者──俺たちだな」
「ふむ? 5人を殺すか、1人を殺すか、それを問う問題か?」
「そういうことだ」
尤も、俺の今の状況はトロッコ問題とは言い難い。
ルリとラルヴィアを捨て、メイを救う。
一方、ルリとラルヴィアを救うために戦い、メイ含めて全員死ぬ、という状況なのだから。
ただ、トロッコ問題の主題は、”小を切り捨てて大を救うのは正しいか”にある。そういう意味では、ルリとラルヴィアを捨てるかどうか、似通っていると言えなくもないのだ。
イブルの答えなど、予想できている。
「愚問だ。5人を救う方が正しいだろう?」
個人に差を付けないのならば、合理的には5人を救う方が正しい。
イブルにとって、トロッコ問題は出題の意図の取れない愚問なのだろう。そこに倫理的な問題の介在する余地さえない。
「それも正しい答えかもな」
所詮、机上の空論だ。
ならば、イブルの答えは正しい。倫理・道徳ではなく、多くの人を救う。1を切り捨てる無情な考えは、合理的で正しいと言える。
しかし、トロッコ問題を現実的に考えた時、「5人を救う」という回答は正しくないのではなかろうか。
「お前は違う答えを持つのか?」
「これを違う答え、と言うとズルいかもしれないが……6人を救う手段を模索すること──それが正しいことだと思う」
「──それが存在しないとしてもか?」
「ああ。だから、俺は抗う」
誰かの犠牲の上に成り立つ幸せを許容できない、そんな言い方をすれば綺麗事にしかならない。
あくまで、ルリだから、ラルヴィアだから。俺にとって2人が救いたいと思える相手であるからこそ、最後まで抗うことに正しさを見い出せる。
───大切な仲間、だしな。
右手を前に突き出し、掌で視界の中央に映るイブルを覆う。
使える<暴食>の回数は、多く見積もって3回。いや、3回は必ず持ちこたえてみせる。
1回目の<暴食>で誘導、2回目で決めるつもりで<暴食>。最後の1回は保険だ。
「……分からないな。非合理だ」
「───<暴食>」
───脳が揺れる……ッ!
<暴食>の発動と共に、脳に伝わる衝撃。
少し遅れて魔力の回復も伝わってくるが、そんなことが気にならないほどに脳へのダメージが大きい。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。
イブルは避けるように、跳んだ。
重心が右にズレている。つまり、右に跳ぶつもりだ。
凄まじい速度で迫る<暴食>を避けるために跳んだイブルの先回りをするように、俺も左に向かって駆け出す。
地面を思い切り蹴って、イブルが着地する地点まで一気に距離を詰める。
「<暴食>ッ!!」
彼我の距離は3メートルほどだった。
着地の瞬間を狙い、またもやイブルを中心に捉えるように<暴食>を使う。
全身にありえないほどの痛みが走るが、我慢だ。
放たれた空間の魔力をごっそり喰らいながら、暴食の権能はイブルに迫った。
だが───
俺が先回りしてスキルを使うことは予想出来ていたのだろう。
着地とほぼ同時にもう一度地を蹴り、今度は俺のすぐ右側まで移動してきていた。
俺のすぐ側というのは、最も<暴食>が撃ちにくい場所でもある。先程のことだけでなく、俺がずっと直線状に<暴食>を放っていることからも明らかだろう。
左腕を失っているイブルは、俺と接近する際に右側を選ぶ。当然だ。俺の右腕を押さえたいということもあるだろうし、そもそも彼の腕を使うには左側は不利すぎる。
だから、イブルが接近してくることも予想できていた。
迫るイブルに対し、俺は右腕を向ける。
予測していたこともあり、彼が来るよりも早く準備出来ていた。
「ベル───」
最後の一回になるだろう。
決して外してはならない、一撃。
だからこそ、イブルが俺の右側に現れたのを待ってから、スキルを使おうとする。
それでも、間に合わないのだ。
イブルの反射速度は人智を超えたものであり、スキルを発動しようとしてからでも対応が間に合ってしまう。この距離であれば妨害も容易だ。
イブルの右腕が俺の右腕に添えられる。
標準はイブルではなく、虚空に向けられてしまった。
───いける。
なんてのも、全て想像していた通り。
イブルが咄嗟に俺の右腕を掴むことまで、それに右腕を使ってくれることまで、考えていた通りだった。
「なに──?」
「終わりだ」
準備していた左手を、イブルに向ける。
彼の右腕は塞がっている。左腕は既に無い。
つまり、この一撃を防ぐ手段はない。
先程のはフェイク。罠だった。
そちらに気を割かせ、本命の左手を確実なものとするための。
「<暴食────ぐッ!!!」
直撃してもなんとかできる自信があったのか、準備があったのか。それとも本当に俺を評価していてくれたのか。
最後まで攻撃手段をロクに見せなかったイブルへの、必殺の一撃。
その命中を──俺もイブルも確信したその時。
俺の体は限界を迎えた。
「けふッ……!?」
大量の血を吐き出す、枷月葵。
全身が熱い。意識が遠のく。
「あ────がァッ!?」
更に伝わる、右からの衝撃。
イブルに殴られたのが事実だが、それを理解するための頭も使い物にならない。
「────ぁ……」
使えると踏んでいた最後の<暴食>。
それを使うよりも早く、俺の限界が先に来た。
右からの衝撃のすぐあと、壁にぶつかり、左からの凄まじい衝撃も襲いかかる。
それが最後だった。




