第112話 コリンの魚は美味い
コリンの領主、アルフレッドの館は、街よりも高い場所に位置していた。
山というには低い、どちらかというには丘というのが適切であろう地形だ。斜面には建造物がないが、丘を下ればすぐ街だった。
こんな場所に館を建造した理由は、すぐに分かった。
ここからは、街と海を一望できる。つまり、最高の絶景を拝めるスポットだというわけだ。
古代遺跡は街の外れにあったこともあり、俺たちが着いたのは館の裏だった。
しかし、入り口を探すべく表に回り込んだ時、その景色の美しさに気がついたのだ。
辺りは暗いが、太陽は昇ろうとしていた。僅かな灯りに照らされ始まろうとする街は、美しいの一言だ。
白い街並みと、透き通った青い海。そして吹く潮風。その全てが、この美しさに一役買っていると言えた。
「すごいな」
「ええ、そうね。ここに館を建てたくなる気持ちも分かるわ」
「そうだなぁ……。────ベルゼブブ?」
ふと、先程から静かなベルゼブブに振り返る。
景色に見とれているものと思ったが、どうやら明後日の方向を向いていたようだ。
「ベルゼブブ?」
「──ん? ああ、ごめんね」
「どうかしたか?」
俺が聞くと、また考え込むように黙ってしまう。
悩み──とかではなさそうだが、意味深な態度をされると気になってしまうものだ。視線を落とすベルゼブブの顔を覗き込むように、俺は移動する。
「おーい」
「……少し用事が出来た。ちょっとの間、空けるよ」
「別に良いけど、大丈夫なのか?」
様子がおかしいベルゼブブを心配してしまう。
様々な可能性を考えるが、彼女がこうなる原因は見当たらなかった。
先程、疾黒狼と不仲だったこと──も関係ないはずだ。となると、どうしたのか? という話になる。
───もしかして……
「大丈夫。気にしないで」
「────ああ、そういうことか……。分かった。ゆっくりでいいからな」
完全に理解してしまった。
ベルゼブブは腹痛だったのだ。
確かに初対面の人間、それも、陽里がいるとなると言いにくい気持ちも理解できる。本当はトイレに行きたいが、中々素直に言い出せない──そんな本心との戦いがあるはずだ。
なんとか誤魔化して時間を作るための嘘が、「用事がある」。こう言って場を抜け出すことで、少し時間を取ってもトイレだとは思われない。そういうことだったのだ。
「ありがとう、枷月葵。君なら理解してくれると思ったよ」
「大丈夫だ。陽里には絶対に言わない。俺がなんとか誤魔化しておくよ」
「心強いね。それじゃあ、遠慮なく行かせてもらうことにする」
トイレを我慢している女性に、長く留まらせるわけにはいかない。
俺は彼女の背中を押すように言葉を紡ぐと、そのまま送り出した。
彼女も俺が意を汲み取ったことを理解したらしい。先程までの複雑な顔から一転、清々しい表情でこの場を去っていった。
「葵くん、入り口を見つけたわ。中に入りましょう。──って、あれ?」
「ベルゼブブは魚を食べに行ったよ」
「さ、魚……?」
ベルゼブブが居なくなってることに不思議そうな顔をしていた陽里は、俺の言葉で更に不思議そうな顔になる。
「もう私の役目はないから、て言って遊びに行ったぞ。なにせ、コリンの魚は美味いからな。我慢できなかったんだろう」
「えぇ……? そういうもの、かしら……?」
「俺たちと違って、ベルゼブブは食べてないんだ。流行に乗り遅れているようなものだろう」
流行の最先端というのは常に追いたいもの。
グループにいる人たちがその話題で盛り上がってるときに、自分だけ未経験。そんな疎外感が生まれるのは悲しいものだ。
だから、ベルゼブブが魚を食べに行ってもおかしくない。何も変じゃない。
「ま、まぁ、分かったわ。とりあえず、中に入り──」
「……葵」
入り口を指さす陽里。
その指の先には、ルリが居た。俺たちが来たことに気づいて、ちょうど出てきたのだろう。
「心配かけた……か?」
「ん、少し。でも、信じてたから」
そんな真っ直ぐな瞳で言われると困ってしまう。
彼女の美しい金の眼が俺を見つめ、そこで俺は違和感に気付いた。
自分でも、何が違うのかは分からない。それでも、ルリの瞳に”疲れ”が伺えたのだ。
間違い探しをしろ、と言われても難しいくらいの差だ。それでも、俺はなぜかそれに気がついた。
「ルリ」
「……ん」
俺はルリの頭に手を乗せる。
多分、無理をしたであろうことは想像できた。今でこそ冷静だが、俺が誘拐された時には焦っていたのかもしれない。
「お疲れ様」
「…………ん」
頭を撫でる手を、ルリは黙って受け入れている。こうやっていると、獣──というより猫のような印象を受けるのも不思議なものだ。
小動物のような可愛さ。桃原愛美のように作ったものではなく、天然の可愛さがそこにはあった。
「アルフレッドは?」
「……殺した。<支配>、ごめん」
「気にするな」
申し訳なさそうに言うルリの頭を撫でる。
彼女のことだから、余裕がなかったというよりは相手がルリを怒らせたのだろう。
「葵が無事で良かった」
「俺も、ルリが無事で良かったよ」
「2人の世界に入るの、やめてもらえるかしら?」
決してそんなつもりはなかったが、陽里を疎外してしまっていたらしい。
一歩引いた位置から遠慮気味に言う陽里に、俺は申し訳なさそうに、ルリは鼻で笑うように、視線を向けた。
「……葵。悪魔の匂いがする」
「ん? ああ。冠者ベルゼブブとの契約を──」
「葵。それは本当?」
「え? 本当だが」
滅多に話を遮ることのないルリが、食い気味に話に噛み付いてくる。
「……そう」
「どうかしたのか?」
「……ん。今度、魔王様もいる時に話す」
ルリの残した意味深な反応を気がかりに思いながらも、とりあえずはコリンでの目的を達成できたことに安堵する。
「分かった。とりあえず──」
「お疲れ様、ね」
「そうだな」
「……ん」
ベルゼブブ、相当お腹痛かったんだな……と思いながらも、一件落着となった。
◆ ◆ ◆
「クソっ!!! 始まりの獣めっ!!!」
下水道のような場所を走る影が、一つ。
青い髪を揺らしながら、一目散に──なにかから逃げるように移動していた。
彼こそ、竜人アルフレッドだ。
影武者とは違うが、彼の秘術のようなものでかろうじて生き延びていた。
魔力も体力も限りなく最大に近い。
それでも、始まりの獣にもう一度挑むなどという愚行に及ぶ気はなかった。
「しかし! 完全な敗北ではないっ!!!」
始まりの獣が最後に使った一撃。完全なる<聖霊福音>。
あれを見て、アルフレッドは一瞬で理解した。何が間違っていたのか、どうすれば成功するのか、そういった天使の魔法の本質を、だ。
つまり、彼にとってはプラスの結果で終わった。戦いには敗北したが、勝負には勝っているのだ。
更に研究を重ね、いつかはもっと高位の天使の魔法で殺してやれば良い。今は勝ちを譲ってやろうと、そんな言い訳を心に残す。
「そんなに急いで、どこに行くんだい?」
「なッ!? 誰だ!!」
今はひたすらに走る。
そう思っていた矢先、一寸先の暗闇から声がした。
”何か”がいる。それは理解できている。しかし、下水道が暗いこともあり、正体を把握できなかった。
パチンっ!
続いて、目の前から指を鳴らす音が聞こえた。
その瞬間、下水道に明かりが灯される。光属性魔法を使っただけだが、神経質になっていることもあって、アルフレッドの心拍数は跳ね上がっていた。
「君が竜人アルフレッドかぁ」
「な、何者だッ!!!」
灯りのおかげで、お互いの顔は見える。
濃紅のショートカットの女性。アルフレッドはその存在に見覚えがなかった。
が、その目的が自分であることは理解していた。
アルフレッドという言葉が相手から出た瞬間、戦う覚悟はできている。
「<聖霊福音>!」
始まりの獣によって完成した、完全な天使魔法を使う。
幾重にも展開された魔法陣が、奏でる天使のハーモニー。それらは容赦なく目の前の女に迫った。
女が動く気配はない。
天使の魔法を侮っているのか、未完成だと馬鹿にしたいのか。
「だが! 完全なる我が力の前では──」
「前では?」
「魔族など手も足も出な……? な、なぜ生きている?」
たしかに、魔法は正常に発動された。
目の前にいる女性はそれを避けていない。
つまり、直撃したにも関わらず無傷。そういうことになる。
「なんだ! なんなんだ、お前は!!!」
「悪魔に天使魔法が効くわけないだろう? 馬鹿なのか、君は?」
「な、なんだ……。それならば早く言え……」
次に出る疑問は、なぜ悪魔がこんな場所に、である。
そもそもこの脱出路を知るのはアルフレッドのみ。始まりの獣でさえ、ここを掴めてはいない。
そんなとき、目の前に現れたのがこの悪魔だ。
まるで自分をよく知っているかのような登場の仕方。それに加えて、反撃はしない姿勢。
アルフレッドはそれらを加味して、とある結論に辿り着いた。
「そうか……。俺と契約したいんだな?」
なりふり構わないアルフレッドは、口調も態度も全てが小物のようだ。
以前までの貫禄が演技だったことを知れて、むしろ安心したとも言えた。
悪魔としては、目の前の馬鹿魔族が更に馬鹿なことを囀っているようにしか見えない。絶句、という感じなのだが、それすらも彼は都合の良いように解釈したらしい。
「はっ。良いだろう。魔族の身でありながら天使の魔法に辿り着いた俺を選ぶとは、良い目をしている」
「いや、私は既に契約しているんだが」
無防備に近づいてくる様は滑稽だ。
何度殺されていても文句は言えない。なぜ悪魔を信頼しきっているのか、心底不明だった。
「す、既に契約……。ああ! 分かったぞ! その契約者を殺して俺と契約したいのか! その依頼に来たというわけだな?」
「な、何を言ってるんだ?」
むしろ悪魔が一歩後退るほどの気迫だった。
気迫──というより愚行なのだが。どこからその馬鹿な考えが出てくるのか、本当に理解できない。そして、理解できない存在というのがここまで怖いものだというのを、悪魔は今初めて知った。
悪魔の心の内が穏やかだからこそ、アルフレッドは話に付き合えてもらっている。
だが、それを理解していないアルフレッドは、自分に価値があるから……などと思い込んでいた。
だからだろうか。続くアルフレッドの調子に乗った発言が、悪魔の怒りに触れてしまったのだ。
「お前が契約している無能を俺が殺してやる! その代わりに俺に力を────」
「■■」
「ようやく俺にも運が回ってきた」。そんな考えを最後に、アルフレッドの意識は闇へと落ちていく。
ある意味、彼は幸せだったのかもしれない。
「葵に無能だなんて絶対に言うなよ。誰であろうと殺すぞ」
意識のないアルフレッドに向かって放つ悪魔の呟きを聞く者は、誰もいなかった。