第108話 ベルゼブブ
思い切り殴り飛ばしたあとで、多少の申し訳なさが襲ってくる。
想像していたよりも華奢な体型をしていたせいで、思ったよりも飛ばしてしまったのだ。
目の前で倒れている女を見る。
うつ伏せで倒れているので、濃紅色の短髪がよく見える。見たことがないほど綺麗で、鮮やかな色をしていた。
……。
中々起き上がらない。
まさか、俺の殴りで気絶──なんてことはないはずだ。
…………。
しばらく待っても、起き上がらない。
かつて戦った魔将は俺の拳など意に介してもいなかった。冠者である彼女が、俺の殴り程度で傷つくはずがないのだ。
ないのだが、ここまで起き上がらないと不安になってくる。
見た目は華奢な女性ということもあり、もしかしたら……という気持ちが浮かんできた。
「……起きてるか……?」
堪らず、声を掛ける。
それが間違いだった。
ニョキッと、そんな異様な効果音がよく似合う飛び起き方で、横たわっていたベルゼブブは起き上がる。
「おわっ!?」
つい驚いて、後ろに仰け反る。
倒れそうになるが、足でしっかりと地面を踏みしめることで留まった。
「驚いた?」
大変愉快そうに笑いながら、俺の顔を覗き込むベルゼブブ。
苛立ちを覚えるが、ここは大人の対応。彼女のペースに呑まれてはいけない。
「……なんか反応悪いなぁ。私だって君に喜んでもらいたくてやったのに」
「どういうつもりだ?」
この際、驚かせようとしたことはどうでもいい。
こんなくだらないことに時間を使うくらいならば、俺の身を怪物にしようとした理由でも話して欲しいわけだ。
「いやぁ、君の驚く顔が──」
「そのことじゃない」
ヘラヘラと語り続けるベルゼブブに、あからさまな怒りの感情を向ける。
さすがの彼女でもこれ以上はまずいと思ったか、表情を神妙なものに変えた。
「結局、<暴食>の力を使う選択をしたのは君だ。私に色々言われても困るよ」
「なぜ説明しなかった? 使うように促したのもお前だろ?」
「だからなんだ? 確かに促したが、最終的に決めたのは君自身だ。説明を受けたかったのならば、聞けば良かったじゃないか」
「あの時はそんな余裕──」
「それは君の都合だろう?」
すれ違いだった。
契約したのだから説明するべき──そんな基準に基づいている俺の考えは、彼女には理解されない。
彼女にとっては、俺が怪物になろうとどうでも良かったということだ。
結果として、彼女の力で状況を打破できた。
その末に怪物になろうと、ベルゼブブにとってはどうでも良い。それならば、彼女の行動にも納得がいった。
「でも、君を怪物にしたかったわけじゃない。私にはアレを治す手段があったよ。とはいえ、それは後付に過ぎない。ごめんね、枷月葵」
素直に頭を下げるベルゼブブ。
嫌々謝っているというより、心の底から謝罪しているように見えた。
しかし、そう見えるだけで彼女の心の内は分からない。
「…………」
なにせ、彼女は悪魔。悪魔なのだ。
どんな残虐非道なことを考えているかなど、俺の想像の及ぶところではない。
「…………はぁ…………」
ただ、今は真摯に謝ってるんだし、契約もしちゃったし。
これをズルズル引きずるのもカッコ悪い上に、面倒な気がする。
「分かったから、説明してくれ……」
ベルゼブブと対立したいわけでもないし、仕方なく許すことにする。
どうせ俺が許すまで同じくだりが続くだけだ。話を早く進展させる方が重要に思えた。
「ありがとう、枷月葵。説明は──<暴食>について、だよね?」
「ああ。あと、葵でいい」
俺が許したと見てか、ベルゼブブは頭を上げていた。
いざ顔を見てみると、美しい造形だと思う。悪魔──邪悪な存在は得てして美形と聞いたことがあるが、たしかにその通りなのかもしれない。
「説明することはあまりないけどね。<暴食>は魔力を喰らうスキル。あと、持ってると私を召喚できる。体を魔力で作ってくれないとだけどね」
召喚──は今しているのと同じか。
力が強大だからか、形作るための魔力量はかなり多い。俺の全魔力相当だ。
<魔力超過>がなければ召喚できるかも怪しい。
「召喚は私が死ぬか、私の魔力が尽きると解除されるから気をつけて」
召喚中は継続的に魔力を消費する、なんてこともないようだ。
ただ、死んだら再召喚が必要。その時はもう一度膨大な魔力を持っていかれるらしい。
「で、次は<暴食>ね。魔力を喰らうって言ったけど、正確には魔力として喰らうスキルだよ。なんでも、本当になんでも喰らってしまえる。そして、喰らったものは魔力に変換されて、君に備蓄されるんだ」
それは使っていて気付いた。
檻を喰らった時から、檻が消滅して魔力が増えていることに違和感を覚えたのだ。
「あと、魔法を喰らうことで防御面にも使える。喰らった魔法はコピーして使うことが出来るよ。これも<暴食>の効果だね」
<火愚鎚炎>、<妖護界決>がその例か。
喰らった覚えはなかったが、これはベルゼブブの力の一部。かつてベルゼブブが喰らった魔法たちなのかもしれない。
それよりも、俺が気になるのは怪物になったことだ。
体を侵食していたアレはなんなのか、が気になる。
「悪魔の力は強力だけど、人体に影響がないわけじゃない。力を使い過ぎれば、悪魔に体が侵食される。それがさっき君に起きた現象だよ。
ただ、<暴食>というスキルの性質上、悪魔に侵食されやすいんだ。なんでか分かるかい?」
「いや……心当たりがないな」
「クローン技術。知ってる? 魔力から生物とその魂を作り出す技術のこと」
存在はするだろう、と思っていた程度で、実物を見た覚えはない。
オーバーテクノロジーというか、ぶっちゃけ倫理的にもNGな技術ではないだろうか。それこそ、神が介入してきてもおかしくないような。
「それは……」
「そう。ダメなんだよ。でもさ、<暴食>について考えてみて。生物を魔力に変換して喰らう────クローン技術の反対の行為だよ」
なるほど。
倫理的にNGなだけでなく、力として強過ぎる、と。だから力の代償も大きくなってしまい、悪魔に侵食されるのだ。
先程、生物を<暴食>で処理しまくっていた。あれが原因だったわけだ。
「つまり、魔力を喰らう分には良いってことか? 物質を喰らうのも、創造魔法の逆って考えれば平気なのか?」
「鋭いね。生物、もとい魂を喰らうのがダメなんだよ。代償が大きすぎる。これからは気をつけて」
納得だ。
これさえ気を付ければ、力もある程度は使って良いと。強力なスキルであるゆえに、切り札が1つ増えた気持ちだった。
生物に直接使わないように意識だけはしておこう。
「クローン技術って存在するのか? 神が介入してきてもおかしくなさそうだがな」
「葵。君はこの世界がどうやって管理されているか知ってる?」
ベルゼブブの質問に、俺は首を横に振る。
「神だよ。天気は天気を司る神によって管理され、食事は食を司る神に管理されている。普通はシステムに基づいて動いてるから介入することはないけど、異常が起きたときは神が動くんだ」
妙に詳しいベルゼブブの説明を聞きながら、俺は相槌を打つ。
クローン技術も管理する神が存在する、ということになるが──。
「創造を司る神……? 創造神か?」
「その通り。その創造神が管理を怠っているんだよ」
「怠っている……?」
創造神とはなんだ?
普通に考えれば、この世界を創造した神。
つまり、システムを作ったのも創造神ではないか?
その創造神が管理を怠っている──要するに、世界が放棄されている?
「そうだよ。だからこの世界は歪なんだ」
そういう彼女の目には信念が宿っていた。
何が彼女をそうさせるのか、俺には分からない。
だが、それは俺が今考えるべきことじゃない。俺が進む理由は復讐だし、彼女には彼女の進む理由があっても良い──そう思う。
「まぁ、理解したよ。これからは気をつけて使うようにする。もしもの時は止めてくれよ」
「次からはそうするよ。君がどれだけ耐えられるのかを見たかった、てのもあるしね」
人の身で実験しやがって……とは思う。
治験には本人の同意が必要なのだ、が。この悪魔にそんな道理が通じない。俺は短時間でそれを理解していた。
だからもう触れない。ツッコまない。結果、無事なのだから良いだろうと、己に言い聞かせる。
「これからはどうするんだい?」
「とりあえずルリ──分かるか?」
「うん。君のことを見てたからね」
あざとく言うベルゼブブだが、俺は騙されない。
こいつは人の体を実験台に使った悪魔だ。悪魔なのだから。
「ルリの元を目指す。行き方を知ってたりは?」
あまり期待はしていないが、聞くだけ聞いてみる。
転移のせいでここがどこか、皆目見当もつかないのが少し面倒だ。地道にルリの元を目指す必要がありそうだ。
それに、ルリたちも移動しているだろう。
宿に戻るだけでは会えない可能性が高かった。
「もちろん。私は何でも知ってるからね」
しかし、俺の予想とは裏腹に。
彼女は自信満々に、ない胸を張って答えた。




