第1話『最初の始まり』
1章分は書き上げているので順次投稿していきます。
「しおくん、一緒に帰ろう」
放課後。
帰りのホームルームを終え、帰り支度をしていると、幼馴染の雛芥子つむぎが話しかけてきた。
オレンジ色の夕日を反射してきらめく、ショートの黒髪。
つんと尖った形のいい鼻。
少し目尻が垂れ気味のくりっとした瞳は、まるで大型犬のように優しげだ。
しかし、両腕にすっぽりと収まりそうな小柄な体格と、おっとりした話し方が、なんとも庇護欲を誘う小動物感を醸し出している。
校内の『付き合いたい女子ランキング』でも作ってみたら、確実につむぎが上位に食い込むことは間違いないだろう。
「ああ。帰り、イレブン寄ってこうぜ。バリバリくん食いたくなった。つむぎも来るだろ?」
「うん。しおくんが行きたいなら、わたしも行く」
そう言って、つむぎは赤子を見守る母親のように、柔らかく微笑んだ。
ちなみに、しおくんというのは、俺のあだ名のことだ。
子どもっぽい響きなので、正直人前で呼ばれるのは少し恥ずかしい。
だが、今さら幼馴染のつむぎに、呼び方を変えろと要求するのも、これまた子どもっぽい気がして、俺は未だに言い出せずにいた。
「お、今日もアツアツだな、お二人さん」
「これから式場の下見ですか、片山士遠氏?」
二人で並んで教室から出ようとすると、クラスメイトたちから冷やかしの声が飛んでくる。
俺はそれを、苦笑して受け流した。
「ったく、西本と倉田の奴、しょうがねえよな本当。あいつら、俺が一人だと毎回『もう離婚したのか?』って言ってくるんだよ」
「あはは……まだ付き合ってるわけじゃないのにね」
まだ《﹅﹅》。
俺はその二文字に反応し、思わずドキッとした。
単なる言葉のあやだと分かってはいるが、それでもだ。
「あ! ううん、違うの! 今のは別に、そういうのじゃなくて……!」
「あ、ああ、分かってる分かってる」
つむぎも、俺と同じことを考えていたのか、顔を真っ赤にして手をブンブンと顔の前で振っている。
――じゃあ、これから付き合ってみるか?
なんて、キザなセリフを平然と吐けたら苦労しないのに。
俺は心の中でため息をついた。
いつからか、片山士遠は、雛芥子つむぎに惚れていた。
最初はただの幼馴染だった彼女は、次第に気の置けない女友達に変わり――そう間を置かずに、気になる女の子になっていた。
けれど、つむぎの中では、まだ俺は小学生の頃と同じ、恋愛のれの字も分かっちゃいないガキのままなのかもしれない。
だから、今のこの友達以上恋人未満な関係を壊すのが怖くて、ずっと一歩踏み出すことができずにいた。
もし、つむぎの方から告白してきてくれたら。
彼女も俺と、同じ気持ちだと確信することができたら。
俺は迷わず、彼女への思いの丈を打ち明けることができるのに。
そんな情けない考えまで頭をよぎる始末だ。
まったく、自分のヘタレっぷりには、ほとほと頭にくる。
俺がもっとしっかりした、頼れる男だったら。
何度そう思ったことが分からない。
運動場の外周を横切って、校門から校外に出た。
真っ赤な夕日が、西の空に煌々《こうこう》と燃えている。
茜色に染まった家々が、東の地平線に向かって、長い長い群青の影を落としていた。
「しおくん。私、今日告白されちゃった」
「え?」
唐突につぶやかれたつむぎの声は、青天の霹靂のような衝撃を俺に与えた。
「だ、誰に?」
「二組の青山君。前からわたしのことが好きだったみたい」
「青山って、軽音部の奴か」
「うん。罰ゲームって感じじゃなかったし、多分本気だと思う」
二組の青山といえば、それなりの有名人だ。
去年の文化祭のステージで、体育館を大入り満員にした逸話は、青山のスター性をまざまざと象徴している。
背が高く、イケメンで、歌が上手い。
おまけにいい奴だ。
マラソン大会のとき、すっ転んだ俺に手を差し伸べ、「大丈夫か?」と心配してくれたのを、未だに覚えている。
俺なんかが、とうてい太刀打ちできる相手ではない。
不安で、腹がキリキリと痛みだす。
もしかして、つむぎはオーケーしたんじゃないだろうか?
居ても立っても居られなくなり、なるべく平静を装いながら、尋ねてみた。
「なんて答えたんだ?」
「断ったよ」
その一言を聞いた瞬間、俺は思わずほっとため息をついた。
腹を締めつけていた痛みが、嘘のように消え去るのを感じる。
しかし、次に湧いてきたのは疑問だった。
「何で断ったんだ? あいつ、イケメンだし、いい奴だろ?」
「うん、知ってる。男の子の友達も多いみたいだし」
異性にだけいい顔をする奴というのは、だいたい同性からの評判が悪い。
逆に言えば、同性の友人が多い人間なら、信用が置けるというわけだ。
だが、なおさら不可解でもある。
「じゃあ何で断ったんだよ」
胸の鼓動が高まっていくのを感じる。
もしかして、つむぎは俺のことが好きだから、青山を振ったんじゃないか。
そんなはずはないという理性と、そうであってほしいという感情が、俺の中で熾烈なせめぎあいを演じている。
すると、つむぎはその場で立ち止まり、うつむいた。
つられて、俺も彼女の隣で足を止める。
時間が停止してしまったように、俺たちは黙ってその場に立ち尽くしていた。
だが、やがてつむぎは、ちらっとこちらに流し目を送ってきた。
「――何でだと思う?」
「――え?」
予想外の言葉に、俺は思わず間抜けな声を上げた。
つむぎの顔は、耳まで赤く染まっていて。
恥じらうように唇を噛みながら、潤んだ瞳で俺を上目遣いに見上げてくる。
「何でわたしが青山君を振ったのか、予想してみて」
「何でって……」
「多分、しおくんなら、当てられると思うから」
心臓の鼓動が、一気に最高潮に達する。
これは――ひょっとすると、ひょっとする奴なのでは。
腹の底から、熱いものがじんとこみ上げてきて、全身を満たしていくようだ。
あの引っ込み思案なつむぎが、ここまで思い切ったことを言うなんて。
きっと、途方もないほどの勇気を振り絞ったに違いない。
なら、俺も男として、彼女の思いに答える義務がある。
「それってもしかして、つむぎが俺のこと――」
たどたどしく紡がれる俺のセリフを、つむぎはただ黙って待っていた。
この黄昏の空の下。
俺とつむぎは、誰よりも幸せな人間に違いないと、掛け値なしにそう思った。
時間が止まればいいと思った。
こんな幸福なひとときが、永遠に続けばいいと――。
◆
「――え?」
気がつくと、そこは俺の知らない世界だった。
夕焼けの住宅地はどこへやら。
抜けるような青空のもと、俺とつむぎは、雑踏の中に立ち尽くしていた。
周りには、ヨーロッパ風のレンガ造りの建物が立ち並び、その間を何台もの馬車が行き来している。
道行く人々は、どう見ても日本人ではない人たちばかりだった。
「しおくん! ここ、どこなの!?」
「俺に分かるわけないだろ! 何が起きたのか、さっぱりだ!」
ここにいるのが俺一人なら、妙な夢でも見ているものと思っただろう。
だが、俺の隣には、パニック気味に眉をハの字にしているつむぎがいる。
だから、これは、紛れもなく現実だ。
先ほどまでの、甘酸っぱい雰囲気など、とっくにどこかに消え失せてしまっていた。
服装は、下校していたときと同じ、学ランに制服のズボン。
スクールバッグまで持ったままだ。
一瞬のうちに眠らされ、海外の街中に放置されるという、斬新極まりない手法の誘拐に遭ったのだとしても、明らかに異常な状況だ。
となると、非現実的この上なくとも、こう考えるしかない。
「異世界転移……って奴か?」
口にしてみて、そのありえなさに、つい自分で笑ってしまった。
昨今、アニメや漫画ではありふれた現象ではある。
だが、それが自分の身に、実際に起こるなんて想像するはずもない。
チートな能力を手に入れたり、絶世の美少女とお近づきになる妄想くらいなら、したことがないとは言わないが。
「イセカイテンイ? って何?」
「現実とは違う世界ってことだよ。なんだか知らんが、いきなりこの世界に俺たちは転移しちまったんだ」
「何で? 何でそんなことになったの、わたしたち? 早く帰らないと、お父さん心配しちゃうよ」
「ああ、そうだな。早く帰らないとな……」
そう言いつつも、俺はそれがいかに困難なことであるか、おぼろげながらに察していた。
まず、この転移が人為的なものだと仮定しよう。
何者かが、何らかの目的を持って俺たちをこの世界に召喚した。
ならば、当然そいつには、俺たちにやってほしいことがあるはずだ。
だが、辺りを見渡す限り、それらしき人物はどこにもいない。
何かミスがあって、召喚者とは遠く離れたところに召喚されてしまったのか。
それとも、他に理由があるのか。
どちらにせよ、俺たちをここに喚んだ奴を探さないことには、何も始まらない。
そして、そいつを探すにしても、生活基盤を築くのは必須条件だ。
自分の家で、失くしたスマホを探すのとは訳が違う。
何の手がかりもなしに、この世界のどこかにいるたった一人――あるいは何人か――の召喚者を探し当てるなんて、砂漠に落とした一粒の砂を見つけるようなものだ。
確実に、一日や二日で成し遂げられるようなことではない。
地球でも、日本から一歩外に出れば、夜道を歩くことさえ危険が伴い、水道水など飲めもしないのが当たり前な国ばかり。
それが異世界ともなれば、治安レベルはさらに悪化するだろう。
最優先にすべきは、食料と安全の確保。
召喚者探しなど二の次だ。
最悪なのが、この転移が、日食のような自然現象であること。
しかも、日食と違って発生の予測が不可能というパターン。
こうなると、もうお手上げだ。
つむぎと二人で、この世界に骨を埋める覚悟を固めなければならない。
まあ、仮にそうだとしたら、早めに発覚してもらいたいものだ。
召喚者探しに割く無益な時間が省けるわけだし。
「しおくん、しおくん?」
「あ、え? な、何だ?」
「急に黙っちゃったから、どうしたのかなって」
「いや、何でもない。それより、腹減らないか? 何か食べるものでも――」
思いつきを口にしながら、俺は嫌な視線に気づいた。
視線は一つではない。
周りにいる人たちが、揃って俺たちに怪訝な目を向けているのだ。
まるで、サングラスにマスクをかけた、不審者丸出しな人間を見るような目を。
俺たちの服装は、他の人たちとは全く違う。
一見しただけで、よそ者なのが丸分かりだ。
しかも、こんな大勢の人間がいる中で、大声で騒いでいた。
悪い意味で、俺たちはひどく目立っていたのだ。
「……ひとまず、ここを離れよう。人目につかないところで、気持ちを落ち着けるんだ」
「う、うん……」
迷子の子どものように、あちこちを見渡しているつむぎの手を引いて、俺はその場を立ち去ろうとした。
だが、少し遅かったようだ。
「おい、そこのアカシア人! 何をしている!」
誰かが通報したのだろう。
人混みをかき分け、憲兵と思しき男たちがこちらにやってくる。
アカシア人とかいうのは、俺たちのことだろう。
この世界では、東洋人はアカシア人と呼ばれているらしい。
そして、幸いにも言葉は通じるということも分かった。
「士遠……!」
「大丈夫だ。俺たちは何もしてない。冷静に受け答えすればいい」
服の袖を掴んでくるつむぎをなだめ、俺は憲兵たちと向き合った。
敵意がないことを証明するため、両手を軽く掲げる。
「俺たちはここで話していただけだ。やましいことはない」
「怪しいアカシア人たちがいると報せがあったんだ。何を企んでいたのか知らんが、とにかく来てもらおうか」
「来てもらうって、何もしてないって言ってるだろ!」
「黙れ! 妙な格好をしやがって。胡散臭い連中め」
まるで取り付く島もない。
最初から、こちらの話など聞くつもりがないようだ。
「またアカシア人か。今度は何だ?」
「気味の悪い連中だ。早くこの国から出て行っちまえばいいのに」
周囲から、悪意のこもった陰口が聞こえてくる。
どうやら、アカシア人は相当この国では嫌われているらしい。
「いいから、とっとと来い!」
乱暴に腕を掴まれ、俺はとっさに合気道の要領で振り払う。
だが、逆効果だったようだ。
憲兵たちはにわかに警戒を強めた。
「抵抗するな! おとなしくついてこい!」
「しおくん、大丈夫!?」
「ああ、心配ない。……でも、こいつらには逆らわない方がよさそうだ」
敵意むき出しでこちらをにらみつける憲兵たちに、俺は諦めて白旗を揚げた。