決意180日前 主張
建設業界は、医療や福祉とは別の方向で死と隣り合わせの世界である。感電、爆発、落下、崩壊と様々な事故によって、怪我人あるいは死者が出てしまう。
ヒヤリハットの法則という言葉がある。これは『1件の重大事故の後ろには、重大事故に至らなかった29件の軽微な事故が隠れており、さらにその後ろには事故寸前だった300件の異常、いわゆるヒヤリとしたりハッとしたりする危険な状態が隠れている』というもの。
重大事故は、不運が重なって起こるのが常。であれば、その小さい不運であるヒヤリハットをいかに防いでいくか、これはどの建設現場もお題目として掲げている。足場の強度に問題は無いかを確認したり、トラックや作業車を動かす時は周りの人をどかしたり、落下物の危険がある場所に注意喚起したり。これはどの現場でも、現場監督も下請工事管理者も作業者も全員で注意する。
だからこそウチの会社では、営業の段階で『工事が始まる前に安全に関する設備をこれだけ用意してもらわないと作業できません』と頑として主張するし、現場でもその設備がきちんと整っているかの確認も怠らない。上席も先輩も、現場が協力してくれないなら工事を中断しても良いと話していた。
屋上のシート防水工事は終わった。今日からは離れの駐車場屋根の新設。昨日も当然、安全設備の確認を行なった。屋根の工事は、高所での作業が基本だ。鉄骨の上を歩くのが日常であり、落下の危険は常に伴う。となれば、落下させない設備と、落下した後の設備が必要だ。落下させない設備としては足場に加えて、鉄骨上に手すり代わりのロープを渡しそれに安全帯のフックを引っ掛けて、そもそもの事故を防ぐ。落下した後の設備としては、鉄骨の下一面にネットを張り地面まで落ちないようにする。この二つが用意されているのは大前提だ。
昨日の段階では、駐車場の鉄骨にはそのネットは張られていなかった。前回は屋内側の天井板が既に貼られていたので、足場さえしっかりしてれば問題はなかったが今回は違う。今回は、必須の準備だ。
現場監督に確認すると「そこは今日この後設置するよ」と言っていた。
この仕事で一番恐ろしいと思うのは、多くの人が自分の発言を覚えていないという事。数秒前の自分の発言とその瞬間の発言の矛盾に気が付かない人ばかりだ。自分で考えろと言うわりに一々人に聞くな、だとか理由を聞かれると言い訳するなと言われたり、他でいえば既に決まっている事を簡単に覆したり。
もしかしたら世の中には、言っても仕方ない人や話し合っても意味がない人が思ったより多いのかもしれない。
現場に着いて見てみると、ロープは渡してあったがネットは張られていなかった。
現場にいた足場業者さんに直接声を掛けたが、監督から何も言われていなかったらしい。
玄田さんは既に到着していて、準備を始めていた。
私は監督を呼び出した。
「あの、ネットが無いんですけど」
「ああ、思ったんだけど、それいる? そんなに高く無いし要らないと思ったんだけど」
「…やっぱり高さ2メートルは超えますし、つけて欲しいのですが」
「いやいや、これは大丈夫でしょ」
「すみません、お願いします」
「そんの急に言われても困るよ」
現場監督は笑いながらそう言い残して、事務所に帰っていった。
玄田さんは私たちのすぐ後ろで準備を進めていたので、こちらの会話は確実に聞いていたと思う。それでも、何も言ってこなかった。正直「なんでちゃんと前もって確認してねーんだ」とかそういうふうに怒られるかと心の準備をしていたのだが。
「玄田さん、すみません。今日は工事やめましょう」
「そうか。でも今日は入ってくる屋根板どうするよ」
「…そうでした」
「しゃーねーな、ユニック車で鉄骨上まで揚げるのだけやるぞ。足場のすぐ近くに置いといて、それだけだな」
※ユニック車とは、トラックに小さいクレーンがついている車のこと。手で持ち運べはしないが、ラフタークレーンを使うほどでもない資材を搬入しそのまま高所に運ぶ場合に使用する事が多い。
屋根材の載ったユニック車が来ると、玄田さんの言った通り鉄骨の上にモノを置いて、すぐに休憩に入ってしまった。
その後玄田さんは、詰所でずっとスマホゲームをしていた。
そこに足場業者さんが入ってきた。
「監督さんから聞いたんだけど、あの鉄骨のとこにネット張れば良いんよね?」
私はその言葉に色々と戸惑いもしたが、
「はい、お願いします」
頑として主張した。
結局その日は予定していた作業の半分も進まなかった。
支店に戻り、いつものように次現場の準備をしていると、安斎課長が声をかけてくれた。
「玄田さんから聞いたよ。工事止めたんだって」
「はい」
進藤さんも安斎課長もよく言っていた。職人さんがスムーズに工事できるように準備しろ、仕事に空きを作って損させるような事はするな、と。そういう意味では、今回はそれが出来ていなかった。私は職人さんに、損をさせたのだ。覚悟は出来ていた。
「あんま言えないよ、そういうの。まだ入りたてなのにやるなぁ。その気持ち、忘れんなよ」
「…はい、ありがとうございます」
安斎課長は、優しい顔をしていた。