流し流され公私混同
「なぁ、クララ」
数日の間に溜まっていた書類の山を片付けながら、コーエンがぼそりと呟く。けれど、コーエンの呼びかけはクララには聞こえていないらしい。熱心に羽ペンを走らせる音だけが執務室に響いた。
「おーーい、クララ」
あまりの反応の無さに焦れ、コーエンは徐に立ち上がる。先程よりも大きな声。けれど、それでもクララには聞こえていないらしい。
「――――最近根詰め過ぎじゃない?おまえ」
「…………ふぇっ!?」
耳元で唐突に響いたコーエンの声に、クララはビクリと身体を震わせた。
振り向けば、若干不機嫌そうな表情のコーエンが、クララをじっと見つめている。後からギュッと抱き寄せられ、椅子に身体が縫い付けられて動かない。
「根詰め過ぎって、どういう……」
「狩から戻って来てからさ、これまで以上に張り切って仕事してるように見えるけど、違った?」
「それは……その…………」
コーエンの見込みは間違っていない。
クララの働き方は、明らかにこれまでと異なっていた。
自分から積極的に城内を回って人脈を作り、出来る限り多くの情報を手にできるよう手を回した。そうしてできた人脈を基にいくつも仕事を持ち帰っては、時間外にひとり、それらを片付けている。
(バレないようにしていたつもりだったけど)
コーエンはちゃんと、クララのことを見てくれていたようだ。嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちである。
「最近は宰相のところにも頻繁に顔出ししてるんだろ?」
「あっ、それは……はい。お父様に仕事のこと、色々と教わろうと思って」
「ふぅーーん?」
そう言ってコーエンはクララを抱き締め続けている。
執務室という場所のせいだろうか。何だかものすごく悪いことをしている気がして、クララは気が気でない。
幸いフリードは会議に出席しているし、この部屋にいるのはクララとコーエンの二人だけだが、素直に嬉しいと思ってはいけない気がする。既に正規の勤務時間を少し超えた頃合いだが、執務室にいる以上は公務中だ。
「コーエン、まだ仕事中」
咎めるような声音でクララが呟く。
民からの税金で給金を貰っている以上、クララはもっと己の行動に自覚と責任を持つべきだ。コーエンを王太子にしたいと願ったあの時から、クララはそう肝に銘じたし、これまでの振る舞いを反省した。
(まぁ、コーエンにとっては、わたしを繋ぎとめるのも『公』の一部かもしれないけど)
そんな駆け引きなどなくとも、クララはもうコーエンから離れられそうにない。
コーエン自身やジェシカとの関係を聞くより、己の恋心を大事にするよりも、クララは今、コーエンを王太子にするために動いていたい。そう強く願っていた。
「だったら、俺はいつクララとこうすれば良いわけ?」
まるで甘えるかのような口調で、コーエンは腕に力を込める。
(いつって、いつって……)
熱を帯びていく身体に若干のパニックを起こしながら、クララは小さく首を横に振る。
「えっと……仕事が終わったら?」
「俺はそうしたいのに、クララは最近、私室にまで仕事持ち込んでるんだろ」
「うっ」
どうやらコーエンにはそこまでお見通しだったらしい。軽くショックを受けながら、クララは静かに項垂れた。
(だって……まずは実績を作らないと。王子よりも優秀な王家の人間がいるって、皆に気づいてもらって。それにはわたしが頑張らなきゃ――――)
「ひゃっ!?」
その時、クララの身体がビクビクっと大きく跳ねた。
うなじに感じる温かく湿った感触。静かな部屋に木霊する小さなリップ音と息遣いに、一気にクララの体温が上がった。
「コーエン!?何考えて……」
「前にも言った。俺が考えてるのはクララのことだけ」
触れるだけだった柔らかな唇が、クララの肌を鋭く吸う。そこだけ一気に血が集まる感覚がして、心臓が大きく収縮した。
(人の気も知らないで……!)
コーエンは王太子になる気なんてサラサラないのだろう。そもそも土俵にすら上がっていないのだから。
けれど、クララがフリードの内侍として送り込まれたのは、コーエンを王太子にするためだった。そう妄信できるほど、クララはコーエンの能力と、その人柄に惚れこんでしまっている。
チクッともう一度刺すような痛みとともに、コーエンの唇が離れた。クララはじんじんと震えるような熱い吐息を吐きながら、チラリとコーエンを覗き見る。
悪戯をした後のような不敵な笑みを期待していたクララは、大いに後悔した。
熱っぽい青い瞳を切なげに細め、上気した頬。普段よりも紅い唇。こういう時のコーエンはすごく心臓に悪い。
(あぁ~~~~もう、好きっ。すっごいムカつくけど!わたし、コーエンが好きなんだなぁ)
クララは眉間に皺を寄せながら俯く。
感情がちっとも制御できない。自分が自分じゃ無くなってしまったみたいで落ち着かない。
コーエンはそっとクララの顔を上向けると、触れるだけのキスをした。時間にして一瞬の、些細な触れ合い。それでも、心と身体は敏感に反応する。まるで全身が心臓になってしまったかのように、バクバクとうるさい。
コーエンはもう一度コツンと額を重ねると、小さくため息を吐いた。
「何がそんなにクララをやる気にさせたかは分からないけど。……頼むからさ、無茶はするなよ」
真摯な瞳。コーエンは本気でクララのことを心配してくれていたのだろう。そう思うだけで、嬉しくて堪らなくなる。
「………うん」
額を重ねたまま、クララは小さく頷く。
頬を温かな両手で包まれ、見つめ合う。この世にまるでクララしか存在しないかのような眼差しが、とても照れくさい。少しだけ視線を逸らして、ややしてもう一度コーエンの瞳を見て、敢え無く撃沈。一瞬落ち着いたはずの心臓が、また早鐘を打ち始める。
(バカだ……わたし)
いい加減、どうしたら己の感情が揺さぶられるか、そのぐらいは学習してほしい。
そう心の中で悪態を吐きながら、クララはギュッと目を瞑った。
「それから!クララはもっとちゃんと、俺を頼れ」
コーエンは先程よりも強めの口調でそう言った。
クララは思わず目を丸くする。
(コーエンを頼る?)
そんなこと、考えたことも無かった。
クララが忙しくしているのは、クララ自身が選んだことだ。コーエンを王太子にしたいという、完全なるクララのエゴ。だから、フリードもコーエンも付き合わせる義理はない。そう思っていたのだが。
「クララが仕事を貰ってきたなら、それは俺たちの仕事だ。一人で抱え込まないで良い。俺も一緒にやるから」
「だけど……」
「どうせ何企んでるか聞いても、教えてくれないんだろう?それに、別に目的とか理由とかどうだって良い。一緒に仕事したら早く終わるし、その分長く一緒にいられるし」
そう言ってコーエンはもう一度、唇を寄せてきた。不意にもたらされた甘さに、心も身体も蕩けそうになる。先程よりも少し長い口付け。
名残惜しそうにクララを解放したコーエンの唇は、そのままそっとクララの耳元へと寄せられた。
「――――一空いた時間で俺とデートしよ?打ち合わせとか一切抜きの、ちゃんとしたデート、行きたいんだけど」
囁くように懇願されてはどうしようもない。気づけばクララはコクコクと頷いていた。
(コーエンはズルい)
こんな風に言われて、断れるはずがない。
ポンポンと頭を撫でられながら、クララは小さくため息を吐いた。
「えぇっと…………」
半開きになった扉の向こうから聞こえる躊躇いがちな声。次いで声の主であるフリードが、恐る恐るといった様子で顔を覗かせる。クララはビクリと身体を震わせた。
「終わった?」
頬をポリポリ掻きながら苦笑いを浮かべたフリードに、クララの頬が真っ赤に染まっていく。コーエンだけが一人、平然とした表情を浮かべていた。
あまりのことに、クララはワナワナと身体を震わせる。
(金輪際、公私混同禁止!もう絶対執務室でこういうことはしない!何があっても絶対、流されないんだから!)
心にそう固く誓いながら、クララは盛大なため息を吐いたのだった。




