不器用な口づけと
それからすぐに、クララはフリードと共に、コーエン達の元へと向かった。
先程まであんなにも獰猛に、その生命力の強さを見せつけていた熊が、今はもうハリボテのように見える。
とはいえ、切りつけられた傷口から流れた血はまだ湿っているし、体毛や身体は固まっていない。つい先程まで魂がそこにあったことを窺わせた。
「人への被害は今のところ確認されていないけど」
「ん、念のため胃の中身は確認すべきだろうな」
真面目な顔をしてそんなことを話すフリードとコーエンに、クララはぞぞっと身の毛がよだつ。
「カール、この辺で目撃されてた熊はこの一頭?」
「俺の部下の調べではそうだ。だが、部下たちには引き続き森の中の調査を継続させている」
口を真一文字に引き結び、カールはそう答える。見た目はいつもの威厳たっぷりなカールだ。けれど、その顔はどこか元気がない。
会話を続けながらもコーエン達は剣を手に、今にも解体ショーを始めそうな様子だった。さすがにクララはそんな場面を直視できそうにない。夜、夢にうなされる様が目に見えるようだ。
「あの、わたしはイゾーレの様子を見てきても良いでしょうか?そろそろ意識が戻っているかもしれませんし」
作業の邪魔にならぬよう、そっと手を上げクララが提案する。
イゾーレはつい先ほど、フリードの付き人たちが安全な場所へ運んでくれた。命に別条はないと確認しているものの、運ばれたときには意識を失っていたし、怪我の状態も分からないため心配していたのだ。
「うん、それが良いよ。行っておいで、クララ」
フリードはそう言って快くクララを送り出してくれる。
けれど踵を返して、しばし。クララは顔だけをクルリとコーエン達の方に向けた。
「カール殿下……宜しければ殿下も一緒に行きませんか?イゾーレもきっと、その方が喜びますし」
自分で提案しておきながら、クララの身体に緊張が走る。この場にはカールの部下も数人いるし、怒鳴られるかもしれない。そんな覚悟もしていた。
「うむ……そうだな。そうしよう」
けれど意外なことに、カールはすんなりとクララの提案を受け入れた。
カールは徐に腰を上げると、何も言わず、クララよりも先にイゾーレの元へと向かう。クララも慌てて彼の後を追った。少し走ったところで、悠然と歩みを進めるカールに追い付く。
「――――あの熊も、里に下りなければ、命を落とすことは無かっただろうに」
ポツリと、まるでひとりごとかのようにカールが呟く。
それはきっと、先程からカールが己の中でずっと呑み込み続けていた言葉だろうとクララには分かった。
(きっと、部下たちには聞かせたくなかったのね)
騎士たちはいざという時、人の命をも奪うことを想定して訓練に励んでいる。
熊の命をひとつ奪ったことをこんな風に悔やんでいては、とてもじゃないが仕事にならない。そうと分かっていて、けれどそうと受け入れられなくて、カールは人知れず葛藤していたのだろう。
「そうですね。仕方がないこととはいえ、気の毒に思います」
クララは胸にそっと手を当てながら、そう口にした。
カールは好戦的で、力こそ全てだという人間だ。初めに抱いたその認識は、クララの中で今も変わっていない。
けれど彼は、生き物を慈しむ心を持った、温かい人間だった。
決して悪戯に武をひけらかしたいわけでもないし、海の向こうのどこかの国へ戦を仕掛けようというわけでもない。
ただ、大切なものを守るために必要な力を持ちたい。それこそがカールの願いなのだろう。
(やり方次第では、カール殿下も素晴らしい国王になれるかもしれない)
今のままでは人に余計な誤解を与えるばかりだし、考え方が少々行き過ぎたり、融通が利かなかったりするため難しい。
けれど今後、彼の考えを理解し、他者へ代弁してくれる者や、彼が行き過ぎたときに止めてくれる人が出てくれば、或いは道があるかもしれないとクララは思う。
(前にコーエンが『何事もバランスが大事』って言ってたけど)
本当にその通りだなぁ、とクララは思う。
それからカールは、イゾーレの元に着くまで、一切口を開かなかった。
イゾーレは騎士たちが張ったテントの中で眠っていた。
(遠目からじゃよく分からなかったけれど)
クララ達を逃がすその間に、イゾーレは怪我を負ってしまっていた。
頭から左目を覆うようにして巻かれた包帯がとても痛々しい。クララは思わず顔を顰めた。
「イゾーレ」
カールがそう呼びかける。思いのほか優しい声音だ。
イゾーレの瞼がピクリと動き、やがてゆっくりと開いた。
「殿下……クララ様も」
「良かった!イゾーレ………本当に良かった」
淡々と響く弱々しい声。それでも、イゾーレが生きていることを実感するには十分で。クララの瞳から涙が零れた。
「殿下、私は……殿下のお役に立てましたか?皆さまにご迷惑をお掛けしたのでは……」
「なにを言う!おまえは立派だった!男でも身が竦むほどの相手に、逃げることなく対峙し、俺の命令以上の働きをした!迷惑などと思うものがいれば、俺が切り捨てる」
カールはそう言って、イゾーレの手を握った。所々擦り傷を負った手のひらに、まるで吸い寄せられるかのように、カールが唇を寄せる。
(えぇっ!えぇぇええぇ!?)
何とも良いムードを邪魔するわけにはいかないので、クララは必死に己の口を抑える。けれど内心、驚きと興奮で溢れかえっていて、今にも叫びだしそうな心持だ。
(あの堅物カール殿下が!まさか!信じられない!)
彼の仔猫に対する反応を見た時だって驚いたが、クララが今受けている衝撃とは比べ物にならない。
イゾーレ自身も、まるでこの世に存在しない珍獣でも見たかの如く、目を見開いて驚いている。
「で、殿下……あの」
「何より一番重要なのはイゾーレ。お前が今、生きて俺の前にいることだ」
「え……?」
カールは珍しく穏やかな笑みを浮かべると、イゾーレの手を強く握りなおした。
まるで自分のことのように、クララの心臓がドキドキと早くなる。この場を離れた方が良いものか逡巡する。
(無理無理!離れた所で気になって覗き見ちゃう!)
理想的な令嬢の対応ではないことを自覚しつつも、クララは堂々とこの場に居座り続けることを決めた。
「イゾーレは俺の妃になるんだ。本当に無事で良かった」
命令口調でも威圧的でもない。けれど真剣なカールの声。
信じられない、といった表情でイゾーレがカールを見つめている。目には薄っすらと涙が溜まっているが、何とか流さずに踏みとどまっているらしい。あまりの意地らしさに、クララの方が泣けてきた。
「けれど殿下!宜しいのですか?本当に私があなたの妃で」
そう言ってイゾーレは気づかわし気にクララを見る。
『クララを守る』というカールの指示が、皆が生き残るためのものだと理解していても、どうにもイゾーレは不安が拭えないらしい。
けれどカールは豪快な笑みを浮かべると、ずいと身を乗り出した。
「当然だ!お前以外の人間に、俺の妃が務まるわけがないだろう?それとも、イゾーレは俺では不足か?」
カールは首を傾げながら、ほんの少し不安げな表情を見せる。
これまで隠されたカールの表情を見てきたクララでも初めて見る、何やら胸を打つ表情だ。
「そんな……とんでもございません!殿下の妃候補に選ばれたことは、身に余る幸福だと思っております」
イゾーレは身を起こし、カールに向かって深々と頭を下げる。
それが彼女の本心であることは、誰の目にも明らかだ。
けれどイゾーレは、再び口を開いた。
「ですが私はクララ様のような社交性がありません。おまけに今回の件で、頬に大きな傷まで負ってしまいました。傷物の私が妃では、完璧な殿下に傷を付けるかのようで――――」
しかし、イゾーレの言葉はそれ以上続かなかった。
ただ唇を重ねるだけの不器用なキス。けれど、イゾーレにもカールにも、それがあまりにもしっくり来る。
感情を見せるのが下手くそな二人だからこそ、こんな不器用な触れ合いの中に、確かな何かを見つけられるのかもしれない。そんなことをクララは思った。
「……その傷は、お前の武勇の証だ。勇敢で誰よりも強く美しい女性――――お前以外にそんな女は存在しない。だから絶対にイゾーレ以外に俺の妃になれる者はいない!……そうだろう?」
頬を真っ赤に染めたイゾーレの身体を軋むほどに抱き締めながら、カールはニカッと笑う。
イゾーレはまるで時が止まったかのように固まっていたが、ややしてそっと、カールの背中に己の腕を回した。
「はい……!はい、殿下!私があなたの妃です!絶対にカール様に相応しい妃になります!」
ポロポロと涙を流し、満面の笑みを浮かべたイゾーレが声を張り上げる。
かくしてクララの見守る中、この国の第1王子、カールの婚約が正式に決まったのだった。




