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ある晴れた日に

 クララはとても生きた心地がしなかった。


 熊は目を爛爛と光らせ、クララたちを真っ直ぐに見つめている。閉じているはずの口からは涎が流れ落ち、生臭い獣の臭いが漂う。グルルルと凶悪な音を立てて鳴る喉。チラリと見え隠れする黒々とした尖った爪。



(無理、無理、無理!)



 熊との距離はほんの数十メートル。

 声を上げることもできず、かといって逃げ出すこともできない。腰が抜けていて、立ち上がることすらできないのだ。



(熊に出会ったらどうするのが正解なんだっけ?)



 都会暮らしのクララには、正直言ってそんな知識、必要なかった。だから、過去に目を通した書物の内容を思い返したところで、全く意味をなさない。


 頭の中は虚無。身体中の血がざわざわと駆け巡るのを感じることしかできない。


 その時、クララの隣でイゾーレが静かに立ち上がった。慌てるでもなく、恐怖におののくでもない。凛とした強い眼差しだ。



「クララ様」



 熊から目を逸らさぬまま、イゾーレがクララに呼びかける。



「ここは私が引き受けます。クララ様は何とかして私たち以外の皆に危険を知らせてください」



 剣を手にイゾーレは熊へとにじり寄る。



「だけど」


「正直、上手くいく保障はありません。クララ様を逃がす間すらないかもしれない。でも、カール様が私にあなたを守るよう言いつけたのはきっと――――クララ様さえ生きていれば、他の皆も守ることができると思ったから。今、そう気づきました」



 その瞬間、熊が物凄い勢いでこちらに向かって駆けてくる。イゾーレは身を低くし、熊目掛けて身体を滑り込ませた。



(無茶よ)



 細身の女性が、一人で熊を相手に勝てるはずがない。けれど、クララがイゾーレの元へ行けば、足手まといになるどころでは済まない。二人に待ち受けるのは死のみ。そして、事態に気づかなかった他の人間にも被害が及ぶ。



「逃げて」



 蚊の鳴くような声で叫びながら、クララはふらふらと立ち上がる。



「お願い、逃げて!熊よ!」



 足がもつれる。ドレスの裾が邪魔をする。けれどクララは走った。



「熊が来たわ!お願い、逃げて!」



 やっとのことで人のいる場所に声が届く。クララの必死の訴えに、侍女たちが数人、クララの元へ駆けつける。



「お願い、皆に伝えて。皆を逃がして」


「クララ様は如何なさるのです?」


「イゾーレが熊の側にいるの。彼女の所に戻るわ」



 侍女たちが止める間もなく、クララは再び走り出した。事態はとにかく一刻を争うのだ。

 走りながらクララは、何とかして皆で生き抜く方法を考える。



(カール殿下はきっと森の奥の方で狩猟をしているはず。コーエン達も。この近くで狩をしているとしたらヨハネス殿下だと思うけど)



 恐らくは彼等を呼びに行くだけの時間はない。

 けれど、イゾーレを見殺しにすることもできない。



「コーエン」



 届かないと分かっていて、クララは必死に名前を呼ぶ。



「コーエン、助けて」



 目の前にはイゾーレと、彼女に覆いかぶさるようにしながら咆哮を上げる熊の姿。周囲一帯を震わせるようなその音に、鳥たちが一斉に飛び立っていく。


 見ればイゾーレの剣は彼女の手を離れ、クララの側に転がっていた。決死の思いで剣を手に取り、クララは熊へと向かっていく。予想以上に重量のあるその剣は、クララの腕ではとても、満足に振れそうにはない。



(それでも)



 静かに熊と向き合い、息を潜めているイゾーレ。クララが何もしないわけにはいかなかった。



(コーエン)



 思えばクララは、一度だって彼に自分の正直な気持ちを伝えられていない。

 彼の生い立ちも。家族も。ジェシカのことだって。聞きたいことは山ほどあるのに、尋ねたことは無かった。



(もしも、もう一度生きて会えたら)



 今度こそ言えるだろうか。

 ちゃんと、尋ねることができるだろうか。



「コーエン!」


「クララ――――もう大丈夫だから」



 頭をポンと叩かれたかと思えば、クララの目の前を通り過ぎていく複数の人影。


 金色に靡く髪の毛に、青い瞳。

 コーエンやフリードの付き人たちが、熊の周りを取り囲んでいた。



「良かった、間に合ったね」



 そう口にしたのはフリードだった。

 馬から滑るようにして降りながら、呆然と立ち尽くすクララの隣に立つ。



「殿下……」


「遅くなってごめんね。足跡や糞を辿って、熊がこの辺をうろついていることは分かってたんだけど、中々場所が掴めなくて」



 まさかこちらに現れるとは、とため息を吐きながら、フリードは汗を拭う。



「物凄い咆哮が聞こえて、『もしかしたら』と思って急いで駆けつけたんだ。良かったよ、クララが無事で」


「でも、まだ熊はそこに!イゾーレが……コーエンが戦っていて」


「それも大丈夫。すぐに片が付くよ」



 そう言ってフリードはゆっくりと前を向いた。


 コーエン達は熊の注意をイゾーレから逸らすように動きながら、ゆっくりと熊へにじり寄っていく。熊はイゾーレから離れ、コーエン達を睨みつけながら喉を鳴らす。


 そしてコーエンが剣を構え、熊へと向かっていったその時――――熊の頭上に何かが勢いよく堕ちてきた。


 ドシンという大きな音。熊の背中で何かがキラリと光る。

 次いで、コーエン達の剣が、熊を切りつけていった。



「的確に急所を狙え、バカ者!」



 ドスの効いた怒号が響き渡り、クララは目を見張る。見れば、熊のすぐ至近距離にカールがいた。



「ん~~~~さすがカール。あの高さから飛び降りて、的確に急所を刺してくんだもんなぁ」


「えっ、飛び降りた!?」


「そう。コーエンがイゾーレ嬢を逃がしたのを合図に、カールが熊を攻撃したってわけ。中々に鮮やかな連携プレイだったでしょ?」


「そう、ですね……」



 確かに素晴らしい連携だったのかもしれないが、一瞬を争う状況だったイゾーレを思えば、もっと早く駆けつけてほしかったとクララは思ってしまう。


 クララの意図に気づいたのだろう、フリードはクスクス笑い声を上げた。



「しかもあの二人、あれで打ち合わせとか何もしてないんだよ?」


「えぇ!?」



 すごいでしょう?と尋ねながら、フリードは首を傾けた。



「そんなことが可能なんでしょうか?どちらかというと、二人は仲が良くないように見えていましたが」


「うん。でも幼い頃から共に剣を習った仲だしね。相手の考えてることが分かるんだと思うよ、きっと」



 そうこうしているうちに、何か大きな物体が地面に倒れ込むような音が響く。

 コーエン達に取り囲まれた大きな熊だったものは、もうピクリとも動かない。


 先程までちっとも動かなかった指先に、血が通い始めたのだろうか。クララは構えたままになっていた剣をようやくゆっくりと下ろした。



(嘘みたい……生きてる!助かったんだ…………!)



 まるで、恐怖で止まっていたクララの時間を巻き戻すかのように、膝がガクガクと震えだし、身体中に嫌な汗が流れる。真っ白になった手のひらを見つめながら、クララは己の身体をギュッと抱き締めた。



「クララ、ほら」



 フリードがそう言って、コーエンの方をチラリと見る。クララもつられて視線を遣れば、コーエンがクララに向かって大きく手を振っていた。


 屈託のない太陽のような笑顔。底知れない安心感に、クララは笑顔を浮かべる。



(やっぱり、コーエンには敵わないなぁ)



 ふふ、と小さく笑いながら、クララは熱を帯びていく頬で、両手を温めたのだった。

 熊に背を向けてはいけないそうです。声を上げてもいけないそうです。攻撃しなかったら逃げてくれるものなのか(は運による?)。取り敢えず、クララたちの対応は誤っていることになります(が、触れる機会が無いので後書きにて…)。

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― 新着の感想 ―
[一言] イゾーレよかった助かって…! 熊の一撃、ちょっとかすっただけでも結構な怪我になるので…今は抗生剤あるから発熱も消耗も最小限ですみますが、昔はそれで体が不自由になった人も多かったと聞きますので…
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