女心と藁と猫
「ねぇ、コーエン」
そう尋ねたのはフリードだった。ぼんやりと窓の外を見つめながら、微笑みを浮かべている。
「なに?二人きりなのにそっちの呼び方?」
「だっていちいち変えてたらややこしいし、こっちの方がしっくりくるから」
「確かに」
答えながらコーエンはニヤリと口角を上げて笑う。
クララは今、礼部から報告書を受け取るため留守にしている。まだ出掛けて数分程度だというのに、随分と執務室がもの寂しく感じられるから不思議だ。
「そんで?どしたの?」
「いや……よくクララを一人で礼部に行かせたなぁって思って」
フリードは穏やかに目を細め、コーエンを見つめる。言われている意味が分からず、コーエンは小さく首を傾げた。
「そんなの、これまでだって普通に行かせてただろう?」
「うん。でも、聞けば最近、礼部の連中の目つきが変わってるらしいよ。……皆、マジでクララのこと狙ってるんだって。どうする?コーエン」
「は!?」
思わぬことに、コーエンは身を乗り出していた。
(クララってあのクララだよな!?狙われてるって……!?)
心臓がバクバクと鳴り響き、自然と眉間に皺が寄る。頭の整理ができず、呆然と立ち尽くしていると、フリードがクスクスと笑い声を上げた。
「ボク達の代わりに、随分皆とやり取りしてくれたからね。『可愛くて優しい』とか『癒される』とか『めちゃくちゃ良い子』だって、いつの間にか大人気になってたらしいよ」
「…………へーー、そう。じゃぁクララの希望通りになったわけだ。良かったじゃん」
そう言ってコーエンは引き攣った笑みを浮かべた。
今さら気にしていない振りをするには無理がある。けれど、そうと分かっていても、コーエンは虚勢を張る。それが幼い頃からの彼の癖だった。
「そうだね。クララはすごく良い子だから、とびきり良い男に見初められて、幸せな結婚をするよ、きっと」
(良い子、ねぇ)
心の中で呟きながら、言い知れない違和感がコーエンを襲う。
『可愛い』とか『癒される』とか『良い子』だとか――――そんなありきたりな言葉では、クララを表すことなどできない。そう、言ってやりたくなった。
(リアリストな癖に夢見がちだし、負けん気は強いし、努力家でその辺の男よりずっと有能で)
クララを幸せにできるのは、フリードの言う通り、『とびきり良い男』だけだろう。自分で何でもできる彼女を甘えさせてあげられる度量がなければ、恋人役など務まらない。あの意地っ張りな少女を笑顔にすることなど、到底できないのだ。
「まぁまぁ、ボクの前でまで意地張るなよ。『クララはフリード殿下の婚約者候補』だって……そう噂を広めたら、下手に手を出せる男はいなくなるんじゃないの?」
困ったように笑いながら、フリードは首を傾げた。
ベテラン勢はさておき、若手で内侍の役職に隠された意味を知る者はいない。だからこそ彼等は今、気軽にクララに近づくことができるし、彼女との未来を夢見ることができる。
けれどクララが『王子の婚約者』と知れれば話は別だ。
その状態で彼女に近づこうとできるのは、余程身分が高く気骨のある者か、クララへの想いが強い者だけだろう。
「……おまえ、面白がってるだろう?」
「少しだけ、ね。長い付き合いだけど、こんな君を見るのは初めてだから」
フリードがクスクスと笑い声を上げる。
コーエンはしばらく恥ずかし気に唇を尖らせていたが、ややして神妙な顔つきをすると、そっぽを向いた。
「…………噂は広めない」
「え?」
テッキリ提案に乗ってくるものと思っていたフリードは、予想外の反応に首を傾げる。
コーエンは外堀という外堀をこれでもか、と埋め尽くしていくタイプの人間だ。手中の切り札をそのままにしておく筈がない。フリードはそう踏んでいたのだが。
「どうして?クララの気持ちがコーエンに向いているから?」
出会った頃はさておき、最近のクララを見れば、彼女の気持ちは一目瞭然だった。普段は実年齢より落ち着いた印象のクララが、コーエンの言動に一喜一憂している様子を見るのは、傍から見ていて微笑ましい。
「そうだったらどんなに良いか」
「……んん?」
コーエンは盛大なため息を吐きながら、切なげに瞳を細める。またもや想像外の反応だ。フリードは目を丸くした。
「わっかんねぇんだよな、あいつ。近づけたと思ったら離れていくし。俺見て嬉しそうに笑ってると思ってたのに、いつの間にか泣きそうな顔になってるし。この間も、俺のイヤリングは着けない癖にヨハネスの髪飾りは着けてたりとかさ……」
話している内に興奮したのか、コーエンは己の髪の毛をガシガシとかき乱す。
(まさか、こんなにもコーエンを振り回す存在が現れるとはねぇ)
そんなことを考えながら、フリードはこっそり舌を巻いた。
「なぁ、女って皆こうなの?」
至極真剣な表情でフリードを見つめながら、コーエンが尋ねる。
フリードはしばらく何も言わず黙っていたが、ややして小さく笑いながら大きく伸びをした。
「……まさか、お前にそんなことを尋ねられる日が来るとはね」
「いや、俺は必要ならば藁にだって平気で縋る男だぞ」
「人を藁扱いするなよ」
ケラケラと笑いながら、軽口を叩き合う。こんな日々を今後も続けられるかは、クララの存在に掛かっているといっても過言ではない。
(できたら、ボクだけじゃなくて皆が幸せになれると良いのだけど)
そんなことを考えながら、フリードはそっと微笑んだ。
(いけない、すっかり遅くなっちゃった)
クララは誰もいない中庭を駆け抜けながら、息を切らしていた。
少し礼部にお遣いに出掛けたはずなのに、頂上で輝いていたはずの太陽が、今は西の空に沈みかけている。
クララ自身の用事は早々に終わったのだが、その後何やかやと文官たちに呼びかけられて、気づけば小一時間が経過していた。
手には文官たちから貰った抱えきれないほどのお土産。日持ちする茶菓子や部屋で飾るのに丁度いい花束、王都で流行っている本、といった品々だ。
(やっぱり皆、王子には媚びを売っておきたいものなのね)
内侍であるクララが良い印象を持てば、それは王子であるフリードに伝わる。
おいそれと近づけない王子ではなく、手頃な存在であるクララを使って点数稼ぎをすることは、とても合理的なように思えた。
(だけど、こうも多いとちょっと大変)
抱えきれないからと断ることもできない辺り、クララの処世術はまだまだ未熟だ。
スカートの裾を持ち上げて受け皿にして走っているため、こうして中庭を隠れるように移動せねばならないし、落とさないように気を張るので、結構疲れる。
(ちょっと休憩……)
今から執務室に戻った所で大した仕事はできそうにない。少し息を整えるぐらいの時間は許されるだろう。クララは身体を休められそうな木陰を探し、そこにそっと腰掛ける。先程貰った茶菓子の封を一つ開け、息を吐く。
「ミィ」
けれどその時、すぐ近くから高く可愛らしい、小さな声が聞こえた。
何だろう、とクララは視線を彷徨わせる。
「みぃみぃ」
次いで聞こえるのは、先程の愛らしい声――――――ではなく、野太い男の声だ。クララはビクリと身体を震わせた。
「よしよし、こっちにおいで」
威圧感の強いバリトンボイスが奇妙に和らぎ、クララの耳に届く。この声の主をクララは知っていた。
(まさか……)
声のする方へ歩を進め、気づかれぬよう覗き込む。
するとそこには、クララの想像通りの人物――――愛らしい仔猫を抱いてだらしなく笑うこの国の第1王子――――カールがいた。




