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郡上八幡 少し昔の話 ~りょうさの話~

作者: こにゃんこ

このお話は、少し昔の郡上八幡のお話です。少し昔というのは、テレビや、お家の電話はあるけれど、まだまだ携帯電話なんて影も形も無かった頃のお話です。

郡上八幡は、郡上踊りといわれる盆踊りで有名な地域です。中でも、通称徹夜踊りといわれる八月の盂蘭盆会は、大勢の踊り手が空の白み始める頃まで踊り明かすことで有名です。

踊りの時はいつも、保存会によるお囃子の生演奏です。お囃子のメンバーは、子供の頃からお囃子を続けている人もあり、玄人はだしな人もいて、それぞれにファンが付いていたりもします。なので、保存会の中でもレギュラークラスになると、それなりに地元の有名人でもあるのでした。

ただでさえ、屋形に上がって演奏しているお囃子さんたちは格好良く見えるのですが、その中でも、やはり花形は音頭取りといわれる歌い手さんです。

当時、人気の歌い手さんで、りょうさと呼ばれている男の人がおりました。りょうさは歌が上手なのは言うまでもなく、その歌い方は、どこか人を惹き付ける、つい踊りたくなるような力がありました。

盂蘭盆会の時は、明け方まで演奏があるので、当然途中でお囃子も交代します。たった十曲を繰り返し演奏するのですから、途中で中だるみのような状態にもなります。それが、りょうさが歌い始めると、それまでのお囃子さんの時には、どこかの店先でビールを飲みながら休んでいた男の人も、屋台のカキ氷を食べていた女の人も、踊り疲れて下駄を脱いでしゃがみ込んでいた若者も、自然と屋形の周りに集まり、いつの間にか大きな踊りの輪になるのでした。

そういうことなので、当然、りょうさのモテ度は、他のメンバーと比較しても群を抜いていて、それはそれで仕方ないことでもあり、また、困ったことにもなるのでした。


踊りの発祥祭(踊りの初日)も近付いた、ある夏の日。

八幡町在住のおじさん、たけマときすけさは、二人とも保存会のメンバーです。メンバーといっても、お囃子はしておらず、踊り部に在籍しているだけの、根っからの踊り馬鹿なのでした。この二人、妙に気の合うところもあり、休日にはなぜか、おじさん二人してコーヒーを飲みに行き、話に花を咲かせることが多いのでした。

「きすけさ、おまん、職人町の、出戻りのみっちゃんって子の話聞いたか?」

「聞いた。りょうさの新しいのやって話」

「りょうさ、しげちゃんとは今はどうなんよ。別れたんか」

「どうにもならん。まんだ続いとるろ。おまん、りょうさは新しいのが出来たでって、しげちゃんと切れるようなもんでもないがな。そもそも、おまん、しげちゃんの前も、何人も女がおったがな。前のと切れて次のを作るわけでないでンな。新しいのができて、前からの女が愛想尽かして離れてくだけやで」

「やけどよぉ、しげちゃんのやら、他の女の事やら、みっちゃんって子も聞いとらんのンか。あんだけ噂の絶えん男やに、ようりょうさとそんな関係になれるな」

「そんなこと言ったら、しげちゃんの方も、もともとりょうさに嫁も子供もあること知っとるがな。それまでの女もみいんな、嫁もあって、自分のほかに女もおること分かっとって、りょうさとできてまうんやで、りょうさも大したもんやで」

「まぁ、それ言ったら、誰も彼もだちかんなぁ。俺ら、どえらな善人に思えるんなあ」

「こんな田舎であんだけモテるんやで、都会ならどうしようもない女たらしになるンないか?」

「いや、お囃子しとるであんだけモテるんないか?ここでないとこでは、ただの助平やろも」

「やけど、まぁ、お囃子しとっても、全員があんにモテるわけでも無いでンなぁ。やっぱ、りょうさにはモテる要素があるンないか」

「まぁなぁ。りょうさは愛想もええし、そう、やかましいほどのしゃべり好きでもないけンど、しゃべると面白いしな。面倒見もええし」

「歌も上手いけど、三味線も上手やしな。手取り足取り教えるうちに、知らん間に腰まで取って教えるようになるンないか」

「おまん、上手いこと言うし。しげちゃんは確かにそうやろな」

「保存会で三味線やっとるうちにどうやらなったんやで」

「しげちゃんも若いうちから男の噂絶えんが、りょうさもあちこちに女作って、似た者同士でウマがあったんか、どっちもどっちの組み合わせやンなあ」

「やけどよ、他のやつらもやけど、保存会の男衆は女好きやな」

「モテやもちたいのが男やで、そこらは仕方なかろ」

「ちいたぁ理性の力で抑制せな。保存会におっても、いっせつモテん俺らがしゃべっても、負け惜しみにしか聞こえんけどな」

「真面目なやつもおるがな。じろさは、歌も太鼓もするけンど、そういう噂は一つも無いでンな」

「ま、はげとるしな」

「おまんの言い方では、はげはモテんと決めとるな。はげとるで浮気出来んわけでもなかろ」

「じろさは愛妻家やでな。なんでもない地味な奥さんやけどな。俺ははげとらんし、愛妻家でもないけんど、浮気もようせん」

「あったり前や。おまんが愛人持てるはずが無いがな。おまんみたいな、やくたいもないおじい、おまんの嫁も仕方無う、おってくれるんやで」

「なんよ、俺やったって、あんな不細工、仕方のう置いてやっとるんや」

「おまんの嫁、不細工でもないがな。よう笑う明るい嫁やがな。気さくな」

「やけんど、俺にはよう怒るんやで。俺、家では叱られてばっかおるんやで」

「おまんがやくたいもないおじいやでや。さっきも言ったろ。

それにしても、この八幡ってとこは、こんな小さな田舎町やが、どしてこうもおかしなやつが多いんや?ええ年したよなおじいやおばあの恋愛沙汰が絶えんってのは、どうなんよ?人口密度から考えたら、都会より多いンないか?」

「この前も六十過ぎの同窓会で会って、駆け落ちしたじじばばの話もあったな」

「そう金持ちと思えんやつでも女がおったり、不ッ細工なおばさんが男作ったり。りょうさにしたって、金持ちなわけでは無いでんなぁ」

「りょうさの彼女はみっちゃんやしげちゃんに始まったことでないでぇ」

「りょうさも、こんな狭い町に、何人も女作ったらだちかんわ。ただでさえ誰がどこの人かみんなが知っとるような町やでな」

「嫁のたまちゃんも苦労はあるやろな。子供二人おって、出てくに出てけなんだンないか」

「まぁ、子供がおるとな。

けども、りょうさは、たまちゃんと別れようなんてことは少しも考えとらんでな。あんだけ余所に女おっても」

「そうなんか。やけど、子供育ち切ったでな。上の子はもう働いとるろ」

「下の子も今年から働いとる。二人とも岐阜の方で生活しとるはずや」

「なら、もう子供のことは心配いらんな。たまちゃんが愛想つかして出て行ったら、りょうさ迎えに行くやろか」

「りょうさな、あんで、うちにおってもらうのは、たまちゃんなんや。話の中に結構たまちゃんの名前出てきて、自慢の嫁なんやで。やっぱ、嫁は他のモンとは違うろ」

「そういうもんかや」

「俺ら、愛人持ったことないで、りょうさの気持ちもほんとのとこは分からんけどもな。りょうさは、たまちゃんが出て行くなんてこと、多分、露ほども考えたこともないぞ」


先日来、たまちゃんは結婚してからもう何度目かの、亭主の浮気話を耳にして、情けない気持ちになっていました。

結婚して最初の浮気が発覚した時、たまちゃんはとても信じられない気持ちになりましたが、信じられないのはたまちゃんだけだったようで、りょうさを良く知っている人たちの反応は、「やっぱり」でした。りょうさが一人の女に落ち着くはずがないだろうというのが大半の意見で、そもそも、なぜ結婚しようと思ったのか、それさえ不思議がる人も多かったのです。

りょうさの新しい相手は、みっちゃんという、三十を少し出た女の人だということでした。

以前、その人の話を近所のあきちゃんに聞いたことはありました。あきちゃんはたまちゃんと同じところから仕事をもらっている内職仲間で、仕事が一段落つくと、よくお茶を飲みに来ました。

「お疲れ。たまちゃんおるかや」

「お疲れ。前の片付いたで、次の始める前にお茶飲もかや」

「子供の服は出来上がると可愛らしいけど、作るのは細こうて面倒やンなぁ」

「まぁなぁ。次はジャンパースカートやで、袖やら襟やら、無いで楽な」

「ほうやンなぁ。これ、『水のみ』食べんか」

「おおきに。これ好きや。お茶が無いと、口の中モクモクするけどな」

「おまん、柳町の八百屋あるろ?あそこの隣の家の娘、帰って来たこと知っとるか?」

「知らん。八百屋?」

「の、隣や」

「あの、一人娘が結婚したら、パタパタと両親とも病気で死んでまったって家か?」

「おー、そうや。お母さんが悪うなった時も、大きいお腹して、岐阜とこっちと行き来して、葬式ン時も、小さい子二人連れて、大変そうやったんやで。最初、お父さんがのうなったときは、子供も一人やったし、お母さんがまだおいでたけど、お母さんの時は、下の子はまんだ歩けなんだし、なんや、あの子の旦那も頼りない、間に合わん人で、おじさんやおばさんに色々聞いたり、手伝ってもらったりして、かぁわえかったンや」

郡上では可哀相をかわええと言います。他所の人が聞くと、最初は「可愛い?」と思うようですが、可哀相のことです。可愛いは、郡上では専ら可愛らしいと言います。

「親もおらんに、帰って来たんか」

「そのボケっとした旦那が、柳ケ瀬のどこやらの店に入り浸って、帰って来んようになったらしいわ。家に金も入れなんだら、アパート住まいでは家賃も払えんようになるがな」

「そらかわええ。あっという間に行き詰まるなぁ。帰って来んって、女のとこか」

「そうや。その飲み屋の女らしい」

たまちゃんは、結婚して以来、何度か繰り返されてきたりょうさの浮気を思い出し、我が事のように同情しました。りょうさはまるっきり帰って来ないこともありませんし、ちゃんと家にお金も入れてくれるので、「その子の亭主よりは、うちの方が多少はマシやな」とも思いました。

たまちゃんの心の内など、何のお構いもなしに、あきちゃんは続けます。

「こっちは親の残してくれた家はまだ残っとるでなぁ。旦那が帰って来んようになってから、一年かそこらでこっちに帰って来たらしい」

「一年、よう持ちこたえたな」

「旦那がすっかり帰らんようになって一年やで、まともに金入れんのは、多分もっと前からやないんか」

「もう離婚はしたんか」

「はっきりは知らんけど、名前は旧姓使っとるみたいやで、別れたんないか」

「子供は学校行きよるか?」

「多分、上の子が来年くらいから学校や。今はまだ保育園や」

「大変やンな。仕事はあるんか?」

「お母さんの妹さんが、いろんなとこでお運びさんやっといでるがな。おまん、覚えとらんか?前に備前屋で婦人会の宴会した時、愛想良うしゃべって来た人」

「なんやら、白っぽい着物着ておいでた人か」

「そう、こんなとこで着たら汚れるがなって話した」

「高そうな大島みたいなやつ、着といでたな。何べんか着たし、もう汚れとるで、今日着て洗いに出すって言っとったな」

「そう、あの人。あの人なぁ、備前屋だけやのうて、色んな民宿やら、旅館やら、頼まれやぁ、どっこにでもお運びさんに行くんや。やで、色んな知り合いがおるで、そのツテで仕事も決まったらしい」

「ほぉ…。あの人の姪御さんってことやな?」

「そういうことや。あの人は仕事柄ようしゃべるし、粋な人やけんど、姪っ子は地味な子らしいで」

「そんに地味な子が、お運びさんするんか?」

「いや、あんな小さい子がおっては、夜出て行くのは無理やって話になって、どこやらの事務に決まったらしい」

「へぇ、よかったンなぁ」

「もともと岐阜でも銀行に勤めとったでな。けど、銀行も残業あるし、なかなか子供が小さいと、見とくれる人がおらんと続かんろ。やで、子供が生まれるときに、銀行は辞めたんや」

「年はいくつなんよ?」

「三十二、三か、まんだ五にはなっとらんろ」

「まんだ若いなぁ。これから先、女手一つで二人育てていくのも、かわええなぁ。これからええ人見つかるとええけど」

「連れ子二人やでんなぁ」

「こんな田舎では、なかなか見つからんか…。別れた旦那は、ちいた生活費送ってよこすんか」

「どうやろ。そんな女のとこに入り浸って、小さい子がおるに帰って来んようになったようなもん、そう当てには出来んろ」

「まぁ、なぁ」

「女も水商売なら、金にはがめついやろうしな」

「男の金、自分が握って、好きにはさせんってとこか」

「もともと、頼りない人やで、ひょっとして、すっかりヒモみたいになっとれば、小遣いも自由にならんくらいやろ」

「やけど、おまん、全然送って来んでは、こっちもなかなか暮らしていけんがな」

「なぁ。一人で作った子供でもないに。

やけんど、おまん、もしヒモにでもなっとったら、毎日五百円やの、千円やのって、小遣いもらっとるンないか?そんな金、チビチビと貯めてよこすようなことはせんろ」


去年、あきちゃんとそんな話をした時には、同情さえ覚えた相手が、まさか亭主の新しい浮気相手になろうとは、思いもしませんでした。

どこの夫婦も、結婚してから何年も経つのに、お互い分かっていても、許せない部分や、理解できない点が存在することは、たまちゃんにだって分かります。そこを妥協しながら、折り合いをつけて暮らしているのが夫婦というものだと思っています。

ただ、りょうさが自分の浮気を隠そうともしない点は、どうしても納得できないし、妥協する気もありません。りょうさは自分の浮気については、罪悪感すらあまり持ち合わせていないようなところもあるのです。

「おまん、踊りの時期が近うなって、まぁ熱心にこの頃練習に行くと思ったら、練習と違うんか」

「なんよ、いきなり」

「昨日の夜、どこに行ったんよ」

「末広で飲んだ」

「その後のこと聞いとるんや。おまん、柳町の子持ちのとこ、この頃通っとるらしいンないか」

「誰に聞いたんよ」

「誰がしゃべったか?私に教えてくれた人も、また別の誰かに教えてもらったんや。ってことはな、町中の誰でも知っとるってことやがな。八幡みたいな狭いとこに住んどって、全く飽きもせんと、次から次と、ようも恥かかせてくれるな」

「モテる亭主でええがな。誰もしゃべってくれんような嫌われモンやのうて」

「おまん、よう言うな。毎回、毎回開き直って。町中のモンが腹ン中で笑っとることわからんのンか!」

「なんでや。おまんのことは笑わんろ。あんな亭主に愛想も尽かさんと、立派な女やと思われとる」

「おまんのようなたーけ、知らんわ!あんな亭主のどこが良うて、いつまでも一緒におるんやと思われとるんや!あっちでもこっちでも、八百屋で顔合わすような近いとこで、何人も女作って!私がそういう女と店で鉢合わせになって、何とも思わんとでも思っとるんか!どんだけみっともないか、おまん、分からんのンか!」

「そんに大きな声で言わんでも聞こえるがな」

「もう子供も育ち切ったし、二人とも働くようになったで。私やって、いつ出て行くかわからんでな」

「おまん、何言うんよ。俺は他の女と一緒に暮らすつもりなんかないで。ちぃとばかの浮気を、そんに気にすることも無いがな」

「ちぃとばか?よう言うな!たんとの浮気やがな!」

「そやけど、俺はちゃんと給料も入れとる、他所に子供がおるわけでもない、たまには酔っ払ったまンま泊まってくることもあるけど、ちゃんと帰って来るがな。俺の家族はおまんと二人の子供しかおらんで」

「…。なら、なんでもっと家族のこと大事にせんのよ」

「大事にしとるがな。泣くようなことでもないがな。車が一番快適やって分かっとっても、自転車やバイクに乗りたい時があるのと同じや」

「たーけっ!全然違うわっ!もうええ!おまんには分からんわ」

「やけど、みっちゃん、かわええんや」

「かわええモンみんな、おまんが世話するんかっ」

「そんに小さい『っ』の付くようなしゃべり方もやめんかい。

今までも俺が囲っとった女なんか一人もおらんし。ただ付き合っとっただけで。みっちゃんのことも、俺が世話するとか、そんなつもりはないがな」

「よう言うな、おまん。自分の嫁に」

「けどよぉ、あの子の娘の頃のこと知っとるだけに、なんや、ほっとけんと」

「…」

「まんだ、うちの子らが小さい頃、あの子高校生くらいで、よう踊りに来たんや。いっつも綺麗に髪の毛まとめとって、他の子より大人びて見えたんや。いつやら、その頭、お母さんにしてもらうんかって聞いたら、自分でやるって言ったで、感心したんや。器用やなって。そしたら、あの子も、おじさんの歌が一番踊り易うて楽しいって言ったんや。向こうは学生やで、三十過ぎの俺はおじさんにしか見えなんだろ。

それから、踊り場で見かけると、恥ずかしそうにお辞儀したり、ちょっと手ぇ振って見せたりして、可愛らしい子やったんや。

それが、去年の徹夜の時に久々に顔見て、あんまり痩せこけとったで、まぁ驚いたんや」

「たーけ、小さい子家にぶっといて、自分だけ踊りに行っとるようなもん、どこがかわええんよ」

「それも、たまたまなんや。お盆で、おばさんやおじさんがお参りに来ておくれるろ。子供見とってやるに、盆の一日くらいは気晴らしに踊りに行きなれって言っとくれたらしいんや。こっちに帰って来てから、それまでは一遍も踊りには来なんだって言いよった。

若い頃は卵みたいなつるんとした顔やったに、頬もこけて、顎もとがって、つい、おまん、どしてそんに痩せたんよって声掛けたんや。まだ早い時間やったでな、俺も当番やない時間やったし、身の上話しよるうちに、急に声詰まらせて涙ぐむんや。かわえかったんや。おじさんは相変わらずかっこええなぁ。おじさんのこと見とると、自分が高校生の頃のこと思い出して、楽しいような悲しいような気持ちになるって言うんや」

「たーけっ。かわええし悲しいのはこっちやっ!いっつもいっつも、ええ加減町のもんが笑ってから、おまんの女の話聞かされるんやで!

おまん、よその女はそんにかわええに、そんな話、隠しもせんと聞かされる女房は、少しもかわええと思わんのンかっ!相手が気の毒なら、おまんが当たり前に妾にするんか!」

「妾やないって言っとるがな」

「たーけっ!同じやっ!町ン中のもん、みんなそういう目で見とること、わからんかっ!」

「やけど、一人で大変そうなんや」

「よその家のこっちゃがな!」

たまちゃんは、そういうところが亭主の馬鹿なところでもあり、また裏を返せば一番の魅力でもあるのだと分かっていました。りょうさは誰に対しても心の門戸が広いのです。だからといって、それが浮気の正当な理由になるとは、到底思えませんでした。


その年の春祭りの後、たけマときすけさは、また二人で喫茶店にいました。

「きすけさんとこ、お疲れやったんな。お祭り、神楽について歩くのもくたびれたろ」

「おー、二日間でぐったりやで。

そういや、前に話しとった、例のみっちゃんって子の噂、祭りのときに聞いたんやが、みっちゃんの子供、二人共、りょうさにたーけ懐いとるって話や」

郡上のたーけは、本来たわけ(=馬鹿)のことなのですが、発音するときには、まずたわけとは言いません。たーけです。そしてこのたーけは、程度が極端なことを表現するときにも使います。なので、たとえば、物凄く賢いことは、たーけ賢いと言ったりして、馬鹿なのか賢いのか分からない言い方にも聞こえるのですが、完全なる褒め言葉です。

「そうなんか」

「みっちゃんって子は、大人しい子らしいでンなぁ。職場でも家のことなんかは、そうしゃべらんらしい。同僚が再婚する気は無いんかって、ちぃと興味本位で水向けても、絶対話に乗って来んらしい。八幡はよ、おかしなことしゃべると、すっぐに噂になるでンなぁ」

「なら、誰がりょうさにたーけ懐いとるって聞いたんや」

「おまん、親のみっちゃんがしゃべらんでも、子供が学校や保育園でしゃべるがな。

今年、上の子は学校上がったらしいがよ、りょうさが来ること楽しみにしとって、一緒に風呂入ったりするらしいで」

「ほお、まったくお父さんやもなぁ。俺なんか、自分の子もそう風呂には入れなんだし」

「風呂で水鉄砲教えてやったり、寝る前に坊主めくりやったりするらしいで。三回やってお終いで、それを合図に子供ら布団に入るらしい」

「へえ。俺、実の子にもそんにせなんだ」

「やでおまんはだちかんのや。りょうさはな、そういうこまめなとこがモテるんやで。そうやで、子供らはりょうさが来ると楽しいし、楽しいと次の日、友達にしゃべるがな。そうすると、聞いた子が家に帰って、坊主めくりやりたいって言うがな。子供から話聞いて、親はおまん、坊主めくりより、そのおじさんって誰や、りょうさか、となるわけや」

「子供にしゃべるなって言うのも罪やしな」

「そらそうや。子供はそんなこと、考え無しやでンなぁ」

みっちゃんの上の子、さとしくんは春から小学生になりました。さとしくんは、おじさんが大好きでした。時々、妹のゆきちゃんと、おじさんの取り合いになって、喧嘩になることもありました。ゆきちゃんもおじさんが来ると、保育園の友達や、いじめっ子や、先生の話を沢山しました。ゆきちゃんは、お母さんがお兄ちゃんの宿題を見ている間、おじさんの膝に座って待っているうちに、眠ってしまうこともよくありました。

八幡は狭い町です。こういうとき、良くも悪くもほっておいてくれないのが田舎です。こんな話は、噂好きなおばさんたちの、おいしいコーヒーのおつまみになっていました。結果、たまちゃんは、お節介な人たちから、みっちゃんの子供たちの話を聞かされることになるのでした。

自分の亭主がよその家で、そんな小さな子供達のお父さんのように振舞っていることを、何とも思わない人はまずいません。たまちゃんは、いくら自分の子供が大きくなったとは言っても、赤の他人の子供が、そんなにも可愛いのかと思いました。

とはいえ、そこまで思うといつも、りょうさは子供好きで、どこに行っても子供に好かれることが思い出されるのでした。子供には罪はなく、こんな気持ちになる自分の方が、とても嫌な人間であるかのように思えてくることも少なくないのでした。そしてまた、そう思えてくる自分のお人好し加減にも、うんざりするのでした。


発祥祭も終わり、梅雨も明けてお盆の近付いた八月の日曜日、たけマときすけさは、また二人で喫茶店にいました。

「きすけさ、おまん、ここ来たことあるんか」

「ない、初めて入った」

「そうか、俺は二へん目や」

「あ、コーヒー来た。…、おい、ここはパン付かんのンか」

「なんよ、おまん、知らなんだんか。知っとって誘ったと思っとったに」

「普通ここらは、朝のうちはオマケが付くがな」

「やで、ここは逆に有名なんや。オマケなしで。大きい声ではしゃべれんがな」

「どして最初に言わんのや。知っとったら来なんだに」

「やで、分かっとると思ったんや」

「なんよ、朝に何にも付かんような店、二度と来ん。パンぐらいのことで、大損したよな気分になって来たがな。こんなこと知っとったら、『まち』にしや良かったがな」

「きすけさ、まぁちいと、小さい声でしゃべらんかな。

あそこも店が狭いで、時間によっては座れん時があるけどな。そういや、この前、『まち』でしげちゃんに会ったわ」

「しげちゃんなんか、保存会でしょっちゅう会うがな」

「ま、そうやけど、保存会の練習の時にはしゃべれんこと、愚痴言いよった」

「りょうさのことか」

「まぁ、しげちゃんも、若いうちに旦那に死なれてから、男の噂が絶えん人やでンな。やけど、りょうさはもともと人の亭主やでンなぁ。自分のこと棚に上げて、みっちゃんのこと悪う言うのもどうかと思うんや。自分も立場は同じやでンなぁ」

「しげちゃん、しゃっしゃと他の男見つけやええがな。あんに楽そうに男捕まえる女、なにもりょうさにこだわらんでも」

「いつやら、みっちゃんの子供がよその子と遊んどる時に、子供捕まえて嫌がらせしたらしい」

「おっそろし。ほんとにか。しげちゃんも意地の強いとこあるで、やりそうな気もするけど、子供には罪無いに、なぁ」

「何言ったか知らんが、子供半べそかいて帰って行ったらしいで」

「そらかわええ。嫁のたまちゃんもそんにせんものを、嫁でもないもんがそんに根性悪したらだちかんな」

「りょうさ、しげちゃんに怒ったらしいで」

「へぇ、あのりょうさが」

「りょうさ、子供好きやでンなぁ。しげちゃんに、当たるとこが違うろって怒ったらしい」

「しげちゃん、何て言ったんよ」

「売り言葉に買い言葉で、当たりとうなること、おまんがするでや!二度とおまんは家に来るな!って言ったって、『まち』でも思い出したら、段々はらわた煮えくり返って来たみたいでよ、声も大きゅうなって、周りのモンも唖然としとったがな」

「しげちゃんらしい話やンなぁ。りょうさも来るもの拒まず過ぎなんや。ちいたぁ相手も選ばなぁ。そやけど、嫁のたまちゃんも、よう黙っとるなぁ」

「りょうさはどこでも子供には好かれるでんなぁ。やっぱ、優しいんやろなぁ。鬱陶しいとも思わんと遊んでやったりするんやで」

「みっちゃんも、どこでどう魔が差したんか知らんが、大人しい子やったらしいで。しげちゃんみたいなモンとは正反対やで」

「おまん、子供の頃なんか知っとるんか」

「妹の娘の同級生やで。りょうさのことが噂になってからそんな話も聞いたんやけど。

そもそも、みっちゃんの結婚式に出た同級生が、旦那の友達見て、派手そうな、調子ええようなもんばっかやったで、みっちゃんの旦那もあんな人やろかって、心配しとったらしいでな」

「そうなんか」

「みっちゃんの方は、学生のうちは、浮いた噂の一つも無い、勉強は中の上くらいで、先生に叱られるようなこともせな、意地の悪いことも無い、大人しい子やったらしいでな。部活も美術部で、特別ええ賞も取ったこともないらしいがよ、絵は上手やったらしい。

あそこも両親は、真面目な人間やったでな。遅くにできた一人っ子やったで、甘やかしたって言われんように、結構躾は厳しかったらしいで。うちの子供の方がよっぽど甘やかされとる」

「おっかしな旦那に捕まったのが運のつきやったな。男運はそう良うないかもしれんなぁ」

「けどよ、みっちゃんがどんだけええ子で、かわええっても、りょうさにはたまちゃんがおるでな」

「いっくら子供が大きゅうなっても、そんだけよそに女作ったらだちかんわな」

「たまちゃん、子供も家におらな、気も紛れんで、そっちもかわええがな」

「俺らモテんで、誰もかわええ思いせんでええで、よかったがな」

「俺らモテたことないでンな、モテる男の気持ちもわからんでなぁ」

「ま、けなるい(羨ましい)気もするけどなぁ」


その数日後。

盂蘭盆会の初日、みっちゃんはおばさんに怒られていました。おばさんはお母さんの妹さんで、お盆のお墓参りの後、みっちゃんの家に来たのでした。

盂蘭盆会の時は、屋台も沢山並びます。おじさんと二人で来て、早々に子供二人をおじさんが連れ出したところを見ると、みっちゃんとおばさんが二人になれるよう、夫婦の間で事前に話が出来ていたと思われます。

「おまん、りょうさと八幡中の噂になっとること、自分で分かっとるか」

「…」

「りょうさは、嫁も子もあること分かっとるろ。年も父親ほどとは言わんけど、どえらいこと上やがな」

「…」

「子供も、色々言われると、そのうちにはグレておかしなことにもなるンないか」

「…」

「職場の人も何にも言いなれんか。私の口利きで入れてもらった手前、私も岩田さんに面目ないんや」

岩田さんといのは、みっちゃんが働いている食品会社の社長さんです。小さな会社ですが、八幡ではそれなりの有名人で、おばさんは自分が頼み込んでみっちゃんを採用してもらった手前、噂の種になるようなことは避けたいと思っていました。

「社長、何か言いないたか?」

「この前、食品組合の会合が満州屋であったんや。そん時、私、お運びさんで手伝いに行ったんやが、宴会の席で岩田さんに、おまんとりょうさの噂、本当かって聞かれて、立場なかったんやで」

「…」

「別に、岩田さんが私のこと責めるように言いないた訳でもないで。それどころか、おまんのこと、きちんと仕事しとくれる、経理だけやのうて、雑用も気ぃ回してやっておくれるで、助かっとるとは言いないた。

けどもよ、おまん、まんだ若いに、りょうさのよな、今まで何人も女の噂のあったようなモンでのうてもええンないかって。おまんのこと働きモンで真面目な子やって、認めておいでるで心配しなれるんやで」

「…」

「おまん、子供のうちは大人しい娘やったに、死んだ親に申し訳ないと思わんのンか」

「…思う。おばさんにも、おじさんにも、りょうさの奥さんにも申し訳ない」

「なら、もう来とくれるなって言ったらええがな」

「けど、りょうさ、優しゅうしとくれるんや。子供らにも私にも」

「おまん、それ、よその亭主や言うに!」

「おばさん、私、別れた亭主はな、なんで私と結婚したか分からんような人やったんよ。飲みに行けば朝まで帰って来んし、二人目が生まれたら、前にも増して帰らんようになって、ちっとも私も子供も可愛がっておくれるような人でなかったんよ。こっちの親が悪うなっても、自分はちっとも一緒に来てくれんし、私が心配で弱気になっても、まるっきり他人のような顔して、知らん顔で。子供の面倒くらい、そんな時に見てくれてもって、どんだけ思ったかも知れんに。自分は飲みに行ったり、パチンコ行ったり、私の親より、自分の子供より、遊びの方が大事なんや。向こうの親も、そんな人育てたような親やで、私の産んだ子供なんか少しも可愛がっておくれなんだんや。今だって、子供の養育費なんか、全然入れておくれんのやで」

「なんよ、それ、催促してちゃんと貰わなだちかんで。黙っておったら、そんな人」

「言ったらおくれるような人なら、最初からきちんとおくれるし、もっと家庭ってもん、大事にするろ」

「やでって、黙っておるんか」

「おばさん、私もたーけやないで。何べん言ったやら。子供が学校上がると、ランドセルやら机やら、他にも細かいもん、たんと買わなんろ。そんな時も、約束の金、一円もおくれなんだんやで。みんなお父さんが残してくれたお金で用意したんや」

「なんよ、それ。自分の子が学校行くに、何にもせんのンか?向こうのおじいやおばあは、孫のことどう思っとるんよ」

「どうや知らん。どの程度可愛いと思っとるんか知らんが、あの人らも、金のかかることは知らぬ存ぜぬやで。ずっとそのときばったりの生活してきた人たちなんや。そうでもなけな、結婚式や新居やなんて決める時、少しは援助もしてくれたはずや」

「けど、そんな節目のときくらい…」

「そんなもん、息子の家族は自分の家族でない、とでも思っとる。当の旦那は、仕事には行っとるかも知れんが、女と一緒やで、女が出させんのやろ」

「そんでは泣き寝入りやがな」

「もう、あの人としゃべるのも鬱陶しいンや。どうせおくれもせん金のこと、グタグタ言ったところでおくれんのやで。あてにするだけ情けないし。今年の正月も、一円の送金も無いで、頭にきて会社に電話してやったんや。そしたら、口座に入った金、三千円やで。自分の子供、犬や猫と間違っとらんかと思って、そん時はたーけにされとると思ったけど、いつまでもあんな人、あてにしとる自分の方がたーけに思えて来て」

「…、やでって、りょうさは人の旦那やで」

「りょうさには金なんか貰っとらん。けど、子供ら可愛がっておくれるんよ。私、りょうさが来とくれると、こんな風にあの子らの父親がしてくれたら、少しくらい外で遊んでも辛抱できたンないかと思えてくるんや。

奥さんからりょうさのこと取ろうやなんて思っとらん。悪いとは思う。けど、りょうさが来とくれると、何とも言えん、ほっとした気持ちになるんや」

「おまん、まんだ若いに、りょうさのような年上のモンやのうても、もっとええ人探したほうが良うないか」

「りょうさが来んようになるなら、それはそんでええ。私から離れていくのは仕方ない。もともと家庭のある人やで。

けど、家庭を持つってことにこだわって、私の子供のこと可愛がってくれるかどうかもわからん人と一緒に暮らすこと、とってもやないけど、考えられん。また前のようになるくらいなら、今の方がどんだけ幸せかわからん」

「おまん、そう言うけど、こんな狭い町で、私らも肩身狭いんよ」

「…悪いと思う。けど、りょうさ、優しゅうしてくれるんよ。子供らにも私にも。

親もおらんとこ帰ってきて、不安な時もあるんや。こんなとき、お母さんおったらどうする、とか、お父さんなら何て言う、とか、色んな事悩むこともあるんや。

そういう時、りょうさ優しゅうしとくれるんよ…」

「おまんもまぁ、大変やとは思うけど…」

おばさんは、みっちゃんのお母さんに聞いた話を思い出していました。一人っ子で、兄弟もいないみっちゃんには、自分のことは自分でできるよう、子供の頃から家のお手伝いをさせていたとか、お金は無駄遣いせず、きちんと貯金するように言って聞かせ、お年玉の大半は貯金させていたとか、一人っ子だから甘やかされて育ったと言われないように育てたつもりだと言っていたのです。

みっちゃんは地味で真面目な人間に育ち、働くようになってからは、きちんと貯金していました。初めの頃は実家に送金していましたが、郡上のお母さんも、みっちゃんのお金を生活費にあててしまうような人ではなく、そのお金はそのまま貯金していました。でも、みっちゃんは銀行員なので、郡上でお母さんが貯金するより、みっちゃんの銀行に直接貯金した方が営業成績になるだろうと、送金は止めるようにお母さんは言いました。

実家に送金しなくなった分は、みっちゃんはコツコツと自分の勤める銀行に貯金しました。

みっちゃんの生活は堅実でした。子供の頃からお手伝いをしていたので、自炊も面倒ではありませんでした。残業で遅くなる日も、外で食事をして、家に着くのが更に遅くなるより、少しでも早く家に帰ってくつろぎたいと思う方でした。同僚から飲みに誘われても、一次会には参加しても、二次会に行くよりは、家でゆっくりしたいと思う方でした。趣味は映画観賞で、毎月の新作を『ロードショウ』なんかの雑誌でチェックし、友人と出かけたり、時にマニアックなものや、古いリバイバルだと、一人で出かけることもありました。

そんな生活だったので、お母さんはみっちゃんのことは安心して見ていました。まぁ、大丈夫だろうと思っていた時に、みっちゃんが結婚すると言ってきたのです。

両親は心配もしていましたが、みっちゃんのような地味な娘が選ぶなら、それなりに堅実な人間だろうと思っていました。

ところが、みっちゃんが連れてきた相手は、みっちゃんの両親が思っていた人とは違いました。友人の紹介で知り合ったというその人は、年はみっちゃんより三つ上で、親と同居しているというのに、貯金はなく、賭け事の好きな人でした。お金が無いので、結納も無く、向こうの親は親戚との付き合いなどろくにないので、結婚式もやらないつもりでいるようなことを言われました。みっちゃんの両親は驚いて、結納はともかく、結婚式だけはやってくれといいました。

みっちゃんの両親は心配でもあり、みじめでした。本人が結納金を用意できなければ、親にそのくらいの蓄えが無いのかと、不安でした。ましてや、自分の子供の結婚式をどうでもいいと思っているかのような言い草に、みっちゃんのことまで馬鹿にされているような気持ちになりました。

結局、結婚式は挙げたものの、新居の敷金や、新婚旅行のお金は全部みっちゃんの貯金から出すことになりました。こちらの両親が援助してやろうとしたら、みっちゃんが頑として受け付けなかったということでした。

「おまん、みっちゃん大丈夫なんか。そんにろくでもない亭主で。親までそんなで」

「私もよ、やって行けるかって聞いたんや。そしたら、お金の管理は自分がするでって言ったけど」

「今はどうなんよ」

「それがなあ、賭け事せなんだのは、ほんの三か月ほどで。娘も結婚して二年も子供出来なんで、ずっと働いとったろ。そのうちはまんだ娘の収入があるでやっていけたけど、子供生まれてからは働けんがな。銀行は残業もせんならんが、向こうの親は孫の世話しとくれるような人でないで、残業どころか、子供おったら勤められんがな。そんで仕事辞めたろ。そんでも旦那の遊びは止まらんのや」

「だちかんな」

「小遣い渡すろ。パチンコですっぐにのうなるんや。そうすると、飲み屋はツケなんや。同僚に金借りて、またパチンコで、人に金借りたって聞けば、うちの子の性分では気になるがな。結局貯金下して払って。

お父さん死んだ時に聞いたら、結婚する前の半分も無いんや。貯金が」

「なんよそれ。みっちゃんが結婚して、そうも絶たんうちに、ひでさ死んでまったがな。そんにちいとの間にそんなかや」

「そうなんや…」

「おまん、まんだ今なら若いし、子供も一人なら、おまんも手伝ってやれば、八幡で暮らした方がええがな。そんな亭主、たーけ息子が一人おるようなもんや。自分の産んだ子供でもあるまいし、みっちゃんが世話することないがな。どして父親になったに、そんに遊ぶんよ。亭主に遊ばせるために、みっちゃんコツコツ貯金したわけと違うろ」

「そうなんや、私もそう言ったけど、男の子やろ、子供が。やで、父親がおった方がええンないかって考えとるみたいなんや」

「そんな父親、子供の手本にはならまい」

「なぁ…」

お母さんが心配しながら過ごすうち、みっちゃんは下の子を妊娠しました。みっちゃんの旦那さんは、それでも相変わらずで、みっちゃんのお母さんの心配も相変わらずでした。

みっちゃんのお腹が安定期に入るころ、お母さんが入院しました。ずっと風邪だと思っていた微熱が、なかなか下がらないのと、咳が止まらないのとで、病院に行ったところ、肺癌だったのです。みっちゃんのお腹がどんどん大きくなるに連れて、お母さんの具合はどんどん悪くなっていきました。みっちゃんは岐阜で出産するつもりでしたが、産科の病院も八幡に変え、岐阜から八幡まで、週に何度か通っていました。

自分の出産が近づいた頃、みっちゃんは八幡の実家に帰って来ていました。お母さんはずっと病院だったので、実家はみっちゃんとさとしくんの二人でした。時々おばさんが来てくれましたが、おばさんも仕事があるし、あまり頼っては迷惑だろうと思っていたので、お母さんのことも自分の出産の支度も、出来る限り自分でしました。

出産の日、ちょうど洗濯物が片付いて一息ついた頃に陣痛が始まったので、おばさんの家に電話をして、さとしくんを迎えに来てもらいました。自分はタクシーを呼んで、自分の荷物を持って、一人で病院に行きました。二人目ということもあり、お産は楽でしたが、岐阜の家に電話を入れても誰も出ませんでした。

みっちゃんは毎日電話を入れましたが、退院するまで電話は繋がりませんでした。旦那さんに電話が繋がったのは、子供が生まれて一週間も過ぎてからでした。

退院してすぐから、みっちゃんは子供の世話をしながらお母さんの病院に通っていました。お母さんが病気だと分かっているのに、旦那さんは休みの日でさえ、八幡に来て子供の世話をしてくれることはありませんでした。旦那さんの親も同じでした。

おばさんは、なるべく手を貸してやりたいと思っていましたが、みっちゃんが気を使って、なるべく甘えないようにしているのは分かっていました。こんなに無理をしては、そのうちにみっちゃんの心の糸の方が切れてしまうのではないかと、心配でした。

「おまん、みっちゃん、あんではいかにもかわええて」

「悪いンなぁ。おまんにも世話かけて」

「ええて。うちも、ともこがお勝手くらいはしとくれるようになったし、旦那もわかっとるで、何にも言わん」

「そうか、ともちゃんも働くようになって、仕事もあるに、おまんがおらんときは、お勝手せんならんと、忙しい思いするンなぁ」

「そんなもん、当たり前や。うちは私がお運びやっとるで、子供の頃から多少のことはさせとるし、娘の手料理で、娘にお給仕してもらうんやで、旦那も文句言わん」

「悪いんなぁ」

「ええて。そっちより、みっちゃん子供産んだばっかで、子供の世話も大変やが、おまんのとこにも通って、亭主なにしとるんよ?自分の子供やいうに、電話もなかなか繋がらなんだらしいがな

私なぁ、自分も娘がおるで、これがともこやったらと思うと、情けないし、かわええしで、泣けてくるくらいなんやで」

「私がおらんようになったら、おまん、頼むにあれのこと、気ぃつけたっとくれ」

「縁起でもないこと言うもんでないわ」

「私なぁ、お父さんのお金、退職金やら保険金やら手つけんと、あの子に残してあるんや。旦那に取られんようにせな、みぃんな遊びに使われてまうでなぁ」

「あれからどうや、三年か?四年か?経つけど、どうなんよ」

「もう多分、娘の金は無い」

「なんで分かるんよ」

「出産の時の金、後で返って来るけど、一旦は払わなんろ?それ、貸しとくれって言ったで」

「あのみっちゃんが、貸しとくれってや?」

「今までいっぺんもそんなこと言ったことないに」

お母さんはベッドで点滴に繋がれたまま、天井を見つめながら涙ぐんでいました。おばさんは、みっちゃんも、みっちゃんのお母さんも、みっちゃんの旦那さんのせいで、要らぬ苦労を背負わされているように思いました。

「下の子生まれたばっかで、こんなこと私が言うのもどうかと思うけど、まぁ、別れさせたらどうや。今でもみっちゃん、一人で子育てしとるようなもんやがな」

「…。そうや。もう、私も長うないと思うしなぁ。お父さんのお金は残してやらんと、あれもこの先大変や」

そんな話をしてから、半年ほどでお母さんは亡くなりました。

みっちゃんは下の子が生まれてから、一旦は岐阜に帰っていましたが、お母さんはずっと入院をしていたので、岐阜と八幡を行き来していました。お母さんが亡くなる前の一か月程は、ずっと八幡に泊まり込んでいました。お母さんの容態はいつどうなるか分からない程悪化していたからです。上の子は保育園に通っていましたが、休ませて八幡に連れて来ました。旦那さんは子供の世話をする気など全くありませんでしたし、普段ろくに遊んでもくれない父親と家に残ることを、何より、子供が嫌がったからです。

おかあさんが亡くなり、お葬式まで、みっちゃんは一人で大変でした。旦那さんとその両親は、嫌々のような顔をして、お葬式に来ただけでした。携帯も無いこの時代、旦那さんに連絡するには、家か職場に電話するしかありません。何度家に電話しても出ないので、職場に電話を入れて、やっと繋がったのは、お母さんの仮通夜が済んでからでした。

お葬式が済んで、みっちゃんは岐阜に帰りました。

家を空けていた一か月程の間に、旦那さんは外泊するようになり、たまにしか帰って来なくなりました。みっちゃんは、お父さんの残してくれたお金を切り崩して生活費に充てていましたが、もう、そのお金は、一切旦那さんの借金には充てないと決めていました。

そうすると、そのうちに旦那さんは全く帰って来なくなりました。みっちゃんは、帰っても来ない旦那さんを待ちながら、いつまでもお父さんのお金を生活のために使い続けるのは、とても罰当たりのような気がしてなりませんでした。

そして、旦那さんにも岐阜の暮らしにも見切りをつけて、子供を連れて八幡に帰ることを決めたのでした。

旦那さんは、もう別の女の人のところで暮らしているも同然でしたので、離婚はすんなり成立しました。旦那さんは子供を引き取るつもりは全くありませんでしたし、もともとなんの蓄えも無い人なので、慰謝料なんて払えるわけも無く、養育費の額は、みっちゃんが強引に決め、離婚届もまた、強引に書かせたのでした。

けれども、みっちゃんはそれさえも、最初から半ば諦めていました。今まででさえこんなに無責任な人なのに、離れて暮らし始めれば、尚更冷たくなることなど簡単に想像できました。

そうして、疲れ切って、みっちゃんは八幡に帰って来たのです。

おばさんは、その苦労を知っているだけに、りょうさの優しさが身に沁みるという、みっちゃんの気持ちも分かる気がしました。りょうさは確かに人の旦那さんですが、辛い思いばかりしてきたみっちゃんが、「ほっとする」というものを、世間で正しいとされている倫理観で否定し切ってしまうのは、余りにも可哀相に思えて来ました。

「まぁ、おまんも大人やし、なぁ。子供も大きゅうなると分かって来るで。自分でよう考えなれ」

「…、うん」

おばさんは清潔に整えられた部屋を見回しました。それは、みっちゃんが女手一つで小さな子を育てていても、忙しいとか疲れているとかを理由に、家事の手を抜くような人種ではないことを表していました。岐阜で生活していた時も、夫がどんなに家庭を顧みることがなくても、同じように、家の中はきちんと整えられていただろうと想像できました。おばさんは、自暴自棄になることもなく耐え続けてきた、みっちゃんの孤独を思うと、ふと優しくされた相手に寄りかかってしまいたくなったのは、仕方ないことかもしれないとさえ思えてしまうのでした。


みっちゃんは悩んでいました。

この八幡で、内緒ごとはできないと、幼い頃から分かっていたはずなのに、りょうさと関係を持ってしまったのは、どうにも自分らしくないと思っていました。

子供の頃から何事にも慎重で、『真面目な子』というのが、学生時代のみっちゃんに対する周囲の評価でした。

ただ…。男の人には慎重でないのが、私の本当の性格かも知れないと、最近は思えて来ました。結婚も、りょうさのことも。

そもそも、あの人のどこが良かったのか…。

結婚生活を思うとき、みっちゃんはいつもそう思うのでした。結婚してからというもの、毎月毎月、夫の遊びの借金に追われ、自転車操業という言葉を実生活で感じる日が来るとは、夢にも思いませんでした。自分が生活設計を立てられる人間であっても、必ずしも配偶者が協力的であるとは限りません。それは多少なりとも分かっていたつもりでしたが、夫の非協力的な態度は、みっちゃんの想像をはるかに上回るものでした。

みっちゃんは、自分がなんとかできると思っていたのは、大きな間違いだと程なくして気付きました。結婚生活でみっちゃんが身に染みたこと、それは、人間なんて、そうそう簡単には変われないということでした。

親の心配を振り切って結婚した手前、離婚するのは躊躇われました。自分で頑張れるだけ頑張ろうと思っていました。自分が決めた以上、簡単に放り投げてしまうのは、自分がとても無責任であるように思えたからです。

お母さんが病気で亡くなった後は、夫は家に帰ることがめっきり減りました。みっちゃんが八幡に泊まり込んでいる間に、夫は自宅より気楽な場所に、すっかり馴染んでしまったようでした。

お母さんのお葬式から一年ほどが過ぎ、その頃には、「夫は子供たちのお父さんだから」という気持ちだけで耐えていたみっちゃんは、ある日の昼、テレビで郡上八幡の番組が流れているのを目にしました。

それは、発祥祭を数日後に控えた八幡の様子で、何件かのお店の紹介と、去年の徹夜踊りの映像でした。

それを目にした瞬間、みっちゃんは、今自分がいる部屋の中の全ての物が、まるで自分の知らないものであるかのような気持ちになりました。

テレビからは、聞き覚えのある、懐かしいお囃子が聞こえて来ます。屋形の上で演奏するお囃子の中にりょうさの姿を見つけた時、みっちゃんの頭の中に、穏やかで幸せだった少女のころの思い出が次々と甦って来ました。正直者で働き者の両親の下で、何の疑問も抱かず、それが当たり前だと思って育ってきたあの頃。嘘をついたり、人に迷惑を掛ける事は、人間として一番やってはいけないことだと教えられ、それが普通だと思っていた少女時代。

みっちゃんは、現在の、この生活は、自分のものではないと思えました。そう思ったら、今まで自分の家庭だと思い、守ろうとしてきたものや、子供のためと思えばこそ我慢できたことも、全て嘘の世界の出来事のように思えてきました。

もうみっちゃんは、一秒たりとも、この嘘の世界に浸っていたくはありませんでした。今すぐにでも八幡に帰りたくて帰りたくて堪らなくなりました。それまで、どんなに情けないと思っても、悔しいと思っても泣かなかったみっちゃんの目から、堰を切ったかのように涙が溢れて来ました。みっちゃんは、子供のように声を上げて泣きました。こんな風に泣いたのは、記憶に無いほど遠い昔のことだと思いながら、おんおんと声を上げて泣き続けました。

もうこんなところには、一秒たりともいられない。

みっちゃんは、ようやく涙が止まった時には、そう思いました。いつの間にかお昼寝から目覚めていたゆきちゃんが、唖然とした顔でみっちゃんの泣いているのを見ていました。ゆきちゃんに笑いかけながら涙を拭いたみっちゃんは、

「ゆき、八幡に引越しするでね」

そう言ったのでした。

もう夫はほとんど家に帰って来なくなっていたので、みっちゃんは一週間ほどの間に、一人で荷物の整理と、住民票や保育園の手続きを済ませました。そして、引越しの当日、夫の会社に行き、養育費の要求額を書いた紙と、離婚届にサインさせたのでした。

「アパートはそのまんまやで、引き払うなら、自分でやって。もう私らの荷物は無いで、自分のは自分で片付けて」

「お前、何勝手なことするんや」

オロオロしながら言う亭主に、みっちゃんは極めて冷静な声で言いました。

「今まで散々勝手なことしてきたのは、自分の方やろ」

「今日は帰るで、夜ゆっくり話しよ」

「あのね、もう、これからはこうするからとか、聞きたくないんやて。取り敢えず、サインしてよ。養育費はちゃんと送って」

職場の事務所の隅にある小さな来客用テーブルで、妻と話をする同僚を、事務所にいる社員全員が、知らん顔しながら、聞き耳をたてているのがわかりました。でもみっちゃんは気にしませんでした。もう二度と、ここにいる誰とも会うことなどないと思ったからです。夫が人目を気にしようが、どうでもいいと思いました。今日他人になってもらう人だからです。

「この金額、どこから決めたんや」

小声で夫が聞きました。

「あのね、子供二人なんやて。自分の子供なんやよ。それが多いとでもいうの?一月にあんたが遊びに使う額より、少ないんやないの?」

みっちゃんは冷たく抑揚のない声で話し続けました。

「ろくに帰って来おへんのやで、離婚したところで、今と変わらへんやろ。

早くサインしてよ。あんたが実際に生活立て直せたら、その時に話聞くわ。今、ギャンブルやめるとか、言ったところで嘘やんか。出来いへんこと、もう言わんといて。聞きたくないし、嘘ばっかり」

「なんで決めつけるんや」

「今までが嘘ばっかりやったんやないの。口では何とでも言えるて。反省する振りだけなんやて、あんたは。もう期待してガッカリさせられるのにはウンザリなんやて。

今日だって、連絡つかへんで会社まで来たんやよ。こんなみっともないこと、誰がしたいんやて?あんた、嫌かもしれんけど、自業自得やでね。

夫婦で家族なのに連絡つかへん、家に帰って来おへんって、どういうことなんやて」

「悪かったて」

「そら、悪いわ。

けど、今日だって、いつも通りなら、家に帰るつもりなんか無かったやろ?今だけなんやて。あんたが反省したふりするのは。私が黙って我慢すりゃあ、また同じ事のくりかえしなんやて。今までの自分、振り返ってみぃ」

「子供ら連れて行く気か」

「当たり前やんか。あんたが、いつ、子供ら可愛がってくれたの?」

「当たり前って」

「家にも帰らへんのに、あんた、子供の世話できるの?私、荷物八幡に送ったし、もうこっちの生活も、あんたにも、うんざり。愛想尽かしたんやて。もう体だけ八幡行くだけやで」

「俺も、親に相談するで」

「はぁ?あんた、自分の親、何かしてくれるとでも思っとるの?おめでたい人やね。

あんたに別宅があって、女がおって、こっちに帰っても来おへんことわかっとって、あんたのこと叱りつけるわけでもない、私を助けてくれるわけでもない、知らん顔決め込んで。自分たちの孫がおるのに、一回も私らの生活の心配してくれたことなんか、あらへんやないの。小遣いの千円もくれたことない人たちが、何してくれると思っとるの?」

みっちゃんの旦那さんは、今まで、こんなに言いたいことを吐き出し続ける妻の姿を見たことがありませんでした。見たことのない妻の様子に、驚きつつもうろたえていました。遠慮することもなく、はきはきと自分の言い分を主張し続ける妻に、何の反論もできませんでした。

「今、サインもらわな、あんたのことやで、どうせ、いつまでたってもほったらかしやろ。今書いてよ。早くして。あんたが、何年後か分からんけど、まともになった時に話聞くわ」

みっちゃんは夫に話しながら、こっちの人と話すときは、自分も岐阜弁になったなぁと、話の本筋とは関係ないことに気づいて、岐阜での生活を送った歳月を思いました。

郡上から出たことのなかったみっちゃんは、同じ岐阜でも、自分の住む山間部と、平野部では、こんなにも言葉が違うのかと、社会人になった当初、驚いたことを思い出しました。そして今、やはり、この言葉は自分の世界の言葉ではないと思えました。早くのんびりした郡上弁を聞きたいと思いました。郡上弁で早く話をしたいと思いました。本当の気持ちは郡上弁でしか話せないと思えて来ました。

夫は、やはり男なので、多少のメンツがあるのか、最初は躊躇っていましたが、事務所で長々と揉めるのは、他の社員たちのいるところでは、さすがに体裁が悪いと思ったのか、渋々ながらサインしました。みっちゃんの有無を言わせぬ物言いに、ろくに話し合いもせずにサインしてしまうとういところが、この男の無計画で馬鹿なところを象徴しているとも、みっちゃんは思いました。その渋々も、養育費を払う気が無い(もしくは払えない)だけで、家族を失うことに対して渋っているわけではないと思えました。

夫にはもうとっくに、別の帰る場所があるのです。こちら側を手放すのは、この男にとって、大した痛手にはなっていないように思えました。

その後、八幡に帰って来たみっちゃんは、荷物の片づけや、保育園の入園手続きをバタバタと済ませ、おばさんの口利きでやっと仕事が決まった時には、本当にほっとしました。すっかり自分の貯金を使い果たしていたみっちゃんは、ずっとお父さんの残してくれた貯金を使い続けていたので、このお金がなくなったらと思うと、心細くて仕方なかったのです。

働きながら一人で子育てをすることを、辛いとは思いませんでした。ただもう、毎日毎日が時間に追われて、忙しいとさえ感じる事を忘れるほどでした。町が踊りで賑わっても、もう娘時代とは違うのだから、子供が小さいうちは踊りには行けないと、はなから諦めていました。そんな時、みっちゃんが踊り好きなのを知っているおばさんが、お盆にみっちゃんの家に来て、気晴らしするように勧めてくれたのです。

「おまん、ずっと遊びにも行っとらんろ。徹夜の時くらい、ちいと踊って来なれ。子供ら見とってやるに」

「やけど、この子ら、私がおらなぁ、寝んと思うわ」

「寝てから行けばええがな。朝まで踊りはあるんやで」

「そんなこと、遅うなったら、おばさんにも悪いがな」

「ええて。うちはまんだ孫もおらんし、子供ら寝てまえば、私もここで一緒に横にならしてもらうで、おまんも好きなだけ踊って来なれ。うちは旦那にも、泊まってくるかもしれんって言って出てきたで」

みっちゃんは、何年かぶりで踊りに行けると思っただけで、泣きたくなるほど嬉しくなりました。浴衣は、お母さんが最後に作ってくれた絞りを着ようと思いました。帯は、花菱の半幅にしようと思いました。

子供たちがすっかり寝入った十時過ぎ、みっちゃんは身支度を始めました。久々に着た浴衣は、随分と身幅が大きく感じられました。痩せたせいだと気付いたみっちゃんは、初めて自分の今の体重を量ってみました。結婚前、実家に来た時に量ってから、八キロ減っていました。

踊り場は、例年通り、人で溢れています。どの辺りで輪に入ろうかと思った時に、みっちゃんに声を掛ける人がいました。それがりょうさでした。

「おまん、久しぶりンないかぁ」

「あれ、お久しぶり」

「どしてそんに痩せたんよ。最初、おまんやないかと思ったがな。里帰りか?今どこに住んどるんよ」

「…。私なぁ、離婚してこっちに帰って来たんよ」

「なんよ、そら、変なこと聞いて悪かったんなあ」

「ええよ、別に隠しとる訳でもないで」

「子供おるんか」

「二人」

「連れて来たんか」

「あったり前やがな。あんな人には子育てはできん」

「おまん、大変やな。今、実家か?親さんおいでるんか」

「…。実家やけど、両親ともおらん。私が嫁いでから、何年もせんうちに、二人共死んでまったで」

そこまで話したら、突然涙がこぼれて来ました。

いつもは忙しさのせいで、両親がいないことさえ、思い出すことも少ないのですが、自分が育った家に、当たり前にいた人たちがいないということは、こんなにも寂しいものなのだと、今更ながら思ったからです。自分の娘時代は、もうとっくに終わりを告げました。なのに、この人に会ったら、自分は、あの幸せだった高校生の頃を、昨日の事のように思い出してしまうのです。

「おじさんは、相変わらず若々しいなぁ。浴衣もよう似合って、かっこええなぁ。私は、ほん生活やつれして、おばさんになってまったわ」

「そんなことないがな。おまん、女ざかりはこれからやで、自分からそんに思ったら、だちかんで」

「そんに言ってくれるの、おじさんだけや」

「おまん、一人で子供面倒見よるんか」

「そら、仕方ない。私の子やで。春からは二人共保育園行っとるで、私も働けるんや。贅沢は出来んけど、亭主がどこで借金作って来るか、ビクビクしながら暮らしとった頃より、百倍はマシな暮らしや」

「おまん、苦労したんやンなぁ」

「やで、今がマシやと思える」

「子供ら、今日はどしたんよ?」

「おばさんが一緒に寝てくれとる。徹夜の一日くらい、踊りに行きなれって」

「そうか、おまん、家はどこや?」

そうして、みっちゃんの自宅の詳しい場所をりょうさは知ることとなり、その後の付き合いの始まりになったのです。

最初は、休みの日に鮎を持ってきてくれました。

「うわ、たんとあるンなあ」

「おまんとこ、三人やで、二尾ずつでも六つ要るがな」

「子供ら小さいで、そんに食べんろ」

「新鮮なのは美味いで、子供もよう食べる。雑炊作ってもええし」

「なら、これから作るし。もうお昼になるで、よかったら食べってっとくれ」

「足りんようになるがな」

「なんでよ。四人で四つ塩焼きにして、後の二つを雑炊に入れやぁええがな」

「…そうか、なら、作っとくれるか」

りょうさは手際よく台所に立つみっちゃんの脇で、子供たちとしゃべっていました。いつもは人見知りのさとしくんが、この初対面のおじさんには、保育園の話を沢山しました。

「鮎、焼けたよ」

みっちゃんが言うと、りょうさは、

「雑炊に入れるやつ、二つこっちにおくれ」

と言いました。子供たちの前に焼きあがった鮎を置くと、

「おまんた、鮎の食べ方分かるか?新鮮な鮎はな、簡単に骨が抜けるんや。お手本見せてやるに、後で自分の分、同じようにやってみなれ」

と、鮎の身を箸で何度か押さえると、頭を持って引っ張りました。するりと骨が抜けると、子供達二人は、まるで手品をみているかのように、

「わぁー!」

と声を上げました。

ご飯の支度が出来て、鮎のほかにも、茄子の煮物や、獅子唐の焼いたのが並びました。

子供たちは、まだまだお箸の持ち方もままならないので、りょうさは子供たちを手伝ってやりながら、鮎の骨抜きをしました。子供たちは、この優しいおじさんのことが、この日一日で大好きになりました。そして、それはみっちゃんも同じでした。

この日をきっかけに、りょうさは子供が喜びそうなものが手に入ると、みっちゃんの家に持って行くようになりました。それは、初物の果物のおすそ分け程度だったりするのですが、みっちゃんは、全く家庭を顧みない夫との生活しか知らなかったので、りょうさの小さな気遣いに、とても心を動かされました。

みっちゃんはいつしか、子供たちが懐く以上に、りょうさのことが好きでたまらなくなっていました。りょうさといると、子供たちと同じように甘えたくなりました。自分も同じように、りょうさの膝で、背を撫でてもらいながら眠れたら、どんなに幸せな気持ちになれるだろうと思いました。

みっちゃんがそんな気持ちになってから、実際、りょうさがそうしてくれるようになるまでは、時間はかかりませんでした。りょうさは来る人拒まずの人でしたし、みっちゃんのことは、りょうさの中で、とっくに好きな人グループに入っていたからです。

ただ、みっちゃんは、いざ関係を持ってしまうと、罪悪感にも苛まれました。嘘をついたり、人に嫌な思いをさせたりすることは、絶対にしてはいけないと両親から言われて育ってきました。なのに、自分はその言葉に背いているのです。夫との生活を、自分の生きる世界ではないと思い、帰って来たはずなのに、今度は自分が、以前の自分からは考えられない不道徳な暮らしをしているのです。

男がからむと、いつも悩むように、自分の生き方は定められとるのかもしれんなぁ…。

みっちゃんはそう思いました。だからといって、両親から教えられた道徳観に従って、簡単にりょうさと別れてしまえる程、今の自分は強くないと思いました。みっちゃんにとって、りょうさは、歩き疲れた遠足の日のお風呂みたいな人でした。奥さんから奪おうとか、そんな大それたことをしようとは、思ってもいませんでした。自分のほかにも、りょうさには女の人がいるという噂を聞いても、その人たちと別れて欲しいとは言えませんでした。

ただ、この家に来た時だけでいいから、子供たちが眠った後で、自分のことを子猫のように可愛がって欲しいと思いました。みっちゃんにはその気持ちしかありませんでした。


お盆の初日、たまちゃんは大手町の穀屋さんに、そば粉を買いに行きました。前日の夜帰って来た子供たちが、たまちゃんの打ったそばを食べたいというので、早速作ってやろうと思ったからです。

「あれ、やっとめ」

「やっとめ」

八幡は狭い町なので、どこのお店の人も、顔見知りのお客さんがどこの人で、誰の奥さんで、子供が何人いるかまで知っています。

「今日から徹夜やで、旦那さん、またお疲れさんやンなぁ」

「まぁ、好きでやっとることやで」

「そやけど、お囃子で一番の歌い手さんやで、りょうさの歌楽しみにしといでるお客さんも多いで」

「そんに褒めてくれんでええて」

「ほんとのことやがな。若いうちからずっと大活躍やもなぁ。子供ら帰っておいでたか」

「そうなんや。ざるそば食べたいって言うで」

「へぇ。これから打ってやるんか」

「まったくよ、うちのが食べたい言うでぇ、面倒臭い割に、御馳走でもないもん作ってやらんなんのや」

「何言うんよ。一番贅沢やがな」

そんな話をしながら買い物を済ませ、店を出ると、同じ並びにある下駄屋さんが目に入りました。盂蘭盆会の時期は、八幡中が年に一番の稼ぎ時です。下駄屋さんは店の前までお客さんが溢れています。

慣れた風情で鼻緒を選ぶ男の人、子供の下駄を選ぶ若い夫婦、絶え間なくおしゃべりしながら笑い合う若い女の子のグループ、初々しい若いカップル…。

たまちゃんはまだ結婚する前の、若い頃を思い出していました。りょうさと初めて言葉を交わし、一緒に選んだのは、ここのお店の下駄でした。


若い頃のたまちゃんは踊り好きで、友達とよく踊りに行きました。すでにりょうさは屋形で歌っていて、ベテランの中にいると、まだまだ若造扱いでしたが、みんなと仲が良く、とても楽しそうで、何より歌が上手でした。

その年何度目かの踊りに出かけたたまちゃんは、踊り場まで歩いていく途中で、転びそうになりました。下駄の鼻緒が切れたのです。

「おー、どしたんよ、切れたんか」

ちょうど屋形に行く途中のりょうさが気付いて声を掛けました。それまで顔は知っていても、お互いしゃべったことはありませんでしたから、たまちゃんは驚いてしまいました。

りょうさは親しい友達に当たり前に話すように、

「どれ、見せてみぃよ」

とたまちゃんに言いました。たまちゃんは、りょうさの屈託のない話し方にどきどきしながら、鼻緒の切れた下駄を手渡しました。りょうさは手渡された下駄を裏返して見ると、

「こんに歯が減っては、鼻緒直してもすっぐにまた切れるで、一つ新調しなれ」

と言いました。

「今日はほんとに小銭しか持って来とらんで、買えんのや」

「なんよ、そうか。踊りにはまた来るろ?」

「そら来るけど」

「なら、来た時に返してくれやええで、買いなれ」

「そんなこと、だちかん。知らん人にお金借りるやなんて」

「おまん、よう踊りに来るがな。名前知らんだけで、俺はよう知っとるぞ。名前なんや?」

「中島珠美」

「たまみか。たまちゃんって、猫みたいやンなぁ。俺は…」

「広瀬亮一」

「なんよ、知っとるんか」

「踊りに来るモンで、おまんの名前も知らんようなモン、おらんろ。家は職人町やンなぁ。それも有名や」

「なんよ、よう知っとるがな」

そんなやりとりがあって、結局たまちゃんはその日、下駄を新調したのです。下駄を選ぶ間もりょうさは一緒にいて、あれやこれやと見ていました。たまちゃんはずっとどきどきしていましたが、りょうさにはそんなところはちっとも感じられませんでした。

たまちゃんは、りょうさがみんなに好かれる理由が分かった気がしました。りょうさは誰の心にも、すぐに入って行けるのです。りょうさ自身が初対面の人に対して、全く緊張しないので、相手の方もすぐに打ち解けられるのです。それはりょうさの特筆すべき長所であり、またそれが故に、その後のトラブルの原因でもあるのでした。その時は、そこまではたまちゃんにも分かりませんでしたが。

次の踊りの日、たまちゃんが踊りに行くと、りょうさも来ていました。

「あ、ちょうど良かった。この前借りたお金…」

「おー、下駄、調子どうや」

「んー、ええよ。前のはええ加減歯もチビとったし。新しいのはさすがに履きやすい。ありがとう。この前借りたお金…」

「今日、俺、踊りには来たけンど、屋形の当番やないんや。終わりの方に顔出せばええで、それで一杯飲まんか」

「えぇっ?」

まさかそういう展開が待っているとは、想像もしていなかったたまちゃんは、驚いてその後の言葉が出ませんでした。

「おまん、梅雨明けたのはええけど、たーけ暑いと思わんか?当番でない時くらい、ちぃたサボっても罰当たらんろ」

「…」

「おまん、飲めるクチか?」

「飲めん」

「そうか、なら、そうやな、マルミツでええわ。あそこならビール飲めるし、おまん、氷でも食べやええがな。今日の踊り場から近いし」

たまちゃんは、りょうさと飲むことを了解してはいませんでした。でも、りょうさの言い方は、強引ではないのに、否と相手に言わせないものがありました。

「でも、踊りが終わってまうがな」

たまちゃんが躊躇いがちに言うのを待たず過ぎりょうさは歩き出しました。

「まんだ徹夜も済んどらんに、何言うんよ。これからいつでも、夏の間中、踊れるがな」

りょうさはそう言いながら、もう踊り場を離れて店の方に向かっています。たまちゃんは慌ててりょうさについて行きました。そして、その日をきっかけに、二人の距離は段々近付いていったのでした。

世の中には、やたらとゴシップ好きの人がいる反面、あまり人の噂には興味が無い人間もいます。たまちゃんは後者の方でした。なので、りょうさと付き合うようになっても、それ以前のりょうさの恋人たちについての話は聞いたことがありませんでした。そして、それはまた、たまちゃんの長所でもあり、言い方を変えれば、詰めの甘いところでもあるのでした。

その年の踊り納めも近付いたある日、たまちゃんはお母さんに、あまり踊りには行かないように言われました。

「なんで急にそんなこと言うんよ」

「おまん、屋形で歌っとる子と噂になっとるらしいがな。どえらな女好きらしいで、おかしな噂が立って、おまんが嫁に行く時の障りになってもかなわんがな」

「踊りの時に会うだけや」

「すみちゃんがおまんた二人して、泉坂から出て来たって言いよった」

「踊りの時や」

「ほれみぃ。踊りに行って、二人で踊り場やないとこで会っとるがな」

「ご飯くらい食べてもええろ。泉坂なんか、ただのお好み焼きの店やがな」

「お好み焼き食べるだけか」

「鶏チャンもたべたりするけど」

「モノの話やないわ。酒も飲むンないか」

「未成年やないで、飲む人は飲むわ。何が悪いンや。やし、私は飲まんのやし」

「あの子は女の噂が絶えんらしいで、すみちゃんが心配して教えてくれたんやで」

「そんな心配するようなことしとらんわ」

「なら、いっぺん連れて来なれ」

「なんでよ」

「親がおまんの連れに会って何が悪い」

「わざわざ会いに来させる意味がわからん」

「なんも下心がなけらな、平気なはずや。変な気持ちがあるで、うちに来られん

のや」

「どういう理屈や」

「おまん、女の子の友達は何人でも連れて来るがな。ただの友達なら、同じようにその子も連れて来たらええんや」

その日たまちゃんは、踊りに行っても変な気分でした。なんだか初めてりょうさと話をした時のように、どきどきしていました。

「なんよ、今日は口数少ないし。元気ないがな」

「今日、お母さんが…」

りょうさに聞かれ、お母さんとのやりとりを話すと、りょうさは大笑いしていました。

「なら、今日の帰り、踊りの後やで遅うなるけど、家までおまんのこと送って行ってやるわ。俺がどんなやつか、おまんの親は知らんで気になるってことやろ」

「まぁ、そうや」

そう返事をしながら、りょうさの思っていることと、両親の考えていることは、ちょっと違う気がしていました。ただ、りょうさが呑気に構えていることが、なんとなくたまちゃんにまで伝染して、それまでのどきどきが治まり、いつものように楽しい気分になれたのでじた。

その日の帰り、りょうさはたまちゃんを送って行きました。お父さんはすでに眠っていましたし、お母さんは起きていましたが、まさかその日にりょうさが来るとは思っていなかったので、お風呂上がりの寝間着姿でした。お母さんはものすごく驚いて、慌てていましたが、りょうさはというと、まるでいつもと同じ調子で、お母さんともずっと昔から知り合いみたいな顔で、

「今晩は。遅うなったで送って来ました」

と、のんびり笑いながら言いました。お母さんは一人で慌てていました。

「そら悪かったンなぁ。あの、ま、上がりなれ」

「お母さん、もう遅いで今日はええて」

たまちゃんが言いました。玄関の声を聞いて、寝ぼけた顔のお父さんまで寝間着姿で出て来ました。玄関を見て面食らっているお父さんに、同じようにりょうさが挨拶しました。

「今晩は。送って来ました」

そんなりょうさを見て、この人は初対面の人に緊張するということはないのだろうかと、たまちゃんは思いました。なぜ最初からこんなふうに人に接することができるのか、不思議であると同時に、そこがりょうさの人を惹き付ける点でもあることを、認めざるを得ないのでした。

お父さんは、半ば呆然としながら、「まぁ、上がりなれ」と、お母さんの真似をするつもりも無いのに、同じことを言いました。

「今日は、もう遅いで、また今度、ゆっくり上がらしてもらいます」

とりょうさは笑って言いました。二人とも、りょうさののんびりと、初対面でも全く気詰まりしないところが、好ましく思えました。

その次の週は踊り納めでした。その日も、たまちゃんは踊りに行っていました。毎年、踊り納めの日は、徹夜の時と変わらないほどの人出があります。りょうさはこの日も屋形に上がっていて、歌う姿はなんとも凛々しくもあり、また楽しげでした。

たまちゃんは、踊りが終わったらりょうさに話をしなくてはならないのですが、余りにも大勢の人で、りょうさと会えるかどうか、心配をしていました。

今年最後の踊りが終わり、たまちゃんは屋形の近くでりょうさが降りて来るのを待っていました。まだ沢山の人が屋形の周りにいて、保存会のメンバーに話しかけたり、写真を撮ったりしていました。りょうさはというと、色んな人に声をかけられていました。その中に一人、りょうさとの距離が妙に近い女の人がいました。たまちゃんは初めて、「なんか、嫌だな」という気持ちになりました。たまちゃんは知らなかったのですが、その人は目下のところ、りょうさの恋人と言われている恵子さんという人でした。

りょうさはたまちゃんを見つけると、恵子さんから離れて歩いて来ました。

「おー、今日も来とったんか」

「今日来なんだら、来年まで踊れんがな。…ちょっと、しゃべってもええか」

「なんよ」

「先週、うちに送ってくれたろ。お母さんが、ゆっくり遊びに来てもらえって言うんや。明日、予定あるか」

「別に」

「なら、何時がええ?」

「いつでも」

「なら、昼に間に合うように来とくれ」

そこまで話したところで、恵子さんが怪訝そうな顔で近付いて来ました。

「何話しとるんよ」

「明日のことや」

「明日?」

「たまちゃんちに行くんや」

「…?ふうん」

たまちゃんは、なぜか急に後ろめたいような気持ちになり、

「お休みなさい」

と言って二人から離れました。たまちゃんの後姿が少し小さくなってから、恵子さんがりょうさに聞きました。

「おまん、何しにあの子の家になんか行くんよ?」

「ただ遊びに来いって言うで、行くんや」

「あの子がか?」

「あの子って言うより、あの子の親かな」

「はぁ?」

「この前、連れなら何で遊びに来んのやって親が言うって言ったで、踊りの後で送って行って、ついでに挨拶したんや。夜も遅いでその日は帰ったけど、今度ゆっくり遊びに来なれって言われて、それが明日らしいんや」

「おまん、たーけか!送って行って親に挨拶?おまん、どういうつもりなんや」

「どういうって」

「ほんなら聞くけど、私のことはどういうつもりなんよ」

「どんなって」

「おまん、私の他にも私みたいな女がおるんか!」

「今はおらん」

「今は?」

「そら、前はおったがな」

「誰や。美並の子か!」

「それはおまんの前や」

「前って、私と付き合うようになってから、別のとも付き合っとったんか!」

「その子もええ子やったんや」

「おまん、よう言うな!ぬけぬけと!誰や!」

「美濃の子や。おまんの知らん子や。いつやらおまんとしゃべっとるとこ見て、あの子誰やって聞くで、八幡の仲良しやって言ったら、怒って、それから踊りにも来んようになったし、電話もかかって来んようになったんや」

「当ったり前やがな!なんや、八幡の仲良しって!」

「仲ええがな」

「おまんにとって、私はその程度なんか。特別な相手やないんか!さっきの子とは、どこまでの仲なんよ!」

「そんに怒らんでもええがな。さっきの子とは、踊りの前にご飯食べたりするだけや。今のとこ」

「今のとこぉ!?おまん、それ以上のこと、する気あるんか!」

「そら、全くないわけではないがな。男と女やで、どう転ぶかわからんろ。おまんと俺がそうやったのと同じで」

「呆れるもんな!おまん、これで私が愛想尽かしたら、さっさとあっちと深い仲になる気かっ」

「そら分からん、他の子とどうやらなるかも知れんし」

「…。ようわかった、おまんは、私のことは、とりあえず、くらいの気持ちしか持っとらんのや。誰でもええと思っとるのがようわかった。そうとも知らんと、おまんと会っとった自分が情けないわ!」

恵子さんはそこまで言うと、りょうさを残してずんずん歩いて帰って行きました。恵子さんは怒っていましたが、りょうさは追いかけて行こうとも、許してもらおうとも思いませんでした。そもそも、何を許してもらうのかもよくわかりませんでした。りょうさの中では、好きな人とは会う、楽しければまた会う、嫌いになれば離れる、それは当たり前のことでした。好きで一緒にいたい人は、りょうさにとって一人ではありませんでした。なぜ一人としか会ってはいけないのか、その方が不自然に思えました。そして人は、とても親しく付き合う時期もあれば、滅多に会わない時期もあり、その繰り返しをするうちに、気付くと何年も経っている、それが普通だと思っていました。

りょうさは、恵子さんと会わない時期が、今、この時間から始まったなと思いました。もう二度と二人で会うことはないかも知れないし、また今までのように、二人で頻繁に会う日が来るかもしれません。それはそれでよしとして、明日たまちゃんんの家に行くことをりょうさは考え始めました。

恵子さんが「どういうつもりで会っているのか」と聞いたので、りょうさはその言葉を何度も心の中で反芻してみました。

…どういうつもりって。会って楽しい子とまた会いたいのは普通じゃないのか?会って楽しい子は、一人じゃないとあんなに怒られるものなのか?

たまちゃんとは、恵子さんほど深い仲ではないけれど、そうなるか、ならないかなんて、りょうさにだって分かりませんでした。今までだって、りょうさが無理に口説き落とした人なんて一人もいません。そういう雰囲気になって、向こうも恥ずかしそうな、嬉しそうな顔をするから、りょうさだってついつい嬉しくなって、深い仲になってしまったのです。

…たまちゃんとは、どうやろな。

りょうさは考えました。楽しいし、いつも会う時に、面倒だとか、嫌だとか思ったことはありません。りょうさにとって、好きな相手と会いたいのは当たり前のことでした。深い仲になりたいかと考えると、ま、それもええな、と思えました。たまちゃんは目立って美人ではありませんでしたが、首が長く、浴衣の時に結い上げた髪の下に見えるうなじは、なんともなめらかで色気がありました。そう思ううちに、今、恵子さんに怒鳴られたことなんかより、たまちゃんと明日会えることの方が、ずっと気になってきたのでした。

翌日、りょうさは、最近は自分の両親と一緒に食事をすることも少なくなってきたのに、たまちゃんの親と食事をするのも奇妙な感じだな、と思いながら、昼ごろたまちゃんの家に行きました。

たまちゃんの家には、お父さん、お母さん、おばあちゃん、弟と、もちろんたまちゃんがいて、りょうさは途中で買ってきた明宝ハムをたまちゃんに手渡しました。

家に上がると、すでにご飯の支度は整っていて、なんとなくたまちゃんの一家全員が軽く緊張している雰囲気の中、なぜかよそ者のりょうさだけがいつも通りなのでした。

挨拶も早々に食事が始まると、おばあちゃんが急に言いました。

「結納やら、式やらの日にちも決めなんが、おまんの親さんはいつごろのつもりよ」

りょうさはいきなりの展開に少し驚きましたが、昨日恵子さんが言っていたのは、こういうことだったのだなと、なんとなく納得しました。そして、自分が結婚するなんて考えたこともなく女の子達と付き合ってきたりょうさは、初めて家庭を持つということを、そのおばあちゃんの言葉で意識したのでした。

…そうだな。

りょうさは今まで自分が「深い仲」になった女の子達を思い浮かべました。女の子達はみんな積極的で、どちらかというと、知り合ってから、いつも次の展開を仕掛けて来るのは向こうでした。そして、りょうさは女の子達に誘われるまま、ついつい、望むと望まざるとに関わらず(?)深い仲になってきたのでした。なので、どうしてもこの人が欲しいとか、この人だけは手放したくないとか、そういう強い気持ちは持ったことがありません。そう思った時に、ふと、目の前のたまちゃんのことは、と考えました。

たまちゃんは、今までりょうさが付き合ってきた女の子達とは違いました。二人で何度もご飯を食べたりしましたが、いつもりょうさが誘っていました。たまちゃんから言いだしたことは一度もありません。今までなら、きっかけはどうであれ、段々女の子の方が積極的になり、そのうちにはいつの間にか、向こうのペースになっているのですが、たまちゃんとはそうなりません。つまりは、たまちゃんが誘わないから、深い仲にもならなかったのです。

そう思いながら、誰と比べても、今のところたまちゃんは、自分が家庭を持ち、父親になった時、子供のお母さんとしては、一番適任のような気がしました。一番慎み深く、結婚しなくては、深い仲にはなってもらえないと思い至りました。そう思うと、途端にたまちゃんの色んなところを、自分が気に入っていることに気付きました。美人ではないけれど、笑った時に片方だけに出来るえくぼは魅力的でした。真っ黒で艶のある髪は、たまちゃんの色の白さを際立たせていました。毎回会う時に、最初に見せるはにかんだ笑顔も、お客さんで一杯のうるさい居酒屋で、りょうさの言葉を聞き返す時に、少し顔を傾ける仕草も、踊りの時に屋形で歌うりょうさに、遠慮気味に手を振る様子も、いつの間にか自分のお気に入りになっていました。そして、そんなたまちゃんが毎日自分の家にいてくれるのは、何かとても嬉しいご褒美のように思えました。

たまちゃんは、おばあちゃんの言葉に慌てていました。

「そんなこと、急に何言うんよ」

「なんよ、おまん、そら、そのつもりもないに、二人で会っとってはだちかんがな」

りょうさはおばあちゃんに向かって言いました。

「いつごろにしたらええやろか?」

「これもそう、どえらいこと若いことも無いがな。二十三になったでンなぁ」

「今が九月やで、…いつがええやろ?」

「冬はここらは雪がひどいとかなわんでな、呼ばれる方も。その日が大雪やと家から出るのも大変や」

「なら、春か?」

「今年の秋ではどうや?」

そこまでおばあちゃんとりょうさの話を聞いていたお父さんが、おばあちゃんに怒りました。

「おまん、そう急いで嫁入りの支度出来んがな。今年の秋なんか、今やがな。その前に結納もせんならんし、向こうさんの都合もあるがな」

「そやけど、私も年やし、正月過ぎまで生きとれんかも知れん」

「たーけか。おまんみたいなもん、まんだ十年は殺しても死なんわ」

たまちゃんは、この場の雰囲気が、二人の結婚ありきで進んでいるのが信じられませんでした。りょうさが自分と結婚まで考えていたとは、到底思えませんでした。昨日の恵子さんの雰囲気からすると、明らかに彼女はたまちゃんに疑惑の目を向けていたし、二人の間には、何かありげな様子でした。たまちゃんよりも恵子さんの方が、りょうさとはより近い関係(つまりは、深い仲)にあるような気がしていたので、この展開に一番驚いているのは、当のたまちゃん自身でした。

「ちょっと、待って。私、いつ結婚するって言ったんよ」

部屋の中にいる全員の視線が、たまちゃんの方に注がれました。

「おまん、好きでもないやつと二人で会っとったんか」

お父さんが言いました。

「今日、りょうさに来てもらったのは、いきなりそんな話するためやったんか」

「そら、娘の心配するのは親の仕事や。相手にどんなつもりがあるんか、聞いて何が悪い」

「やけど、結婚とか、結納って、話が飛びすぎや」

たまちゃんがそこまで言うと、りょうさが言いました。

「そうか。おまんは俺では嫌なんか?俺はおまんでええぞ」

鳩が豆鉄砲を食らったみたいな、という言葉がありますが、そのときのたまちゃんは、まさにそんな顔をしていました。たまちゃんの二十三年の人生で、一番驚いた瞬間でした。

そして、あれよあれよと言う間に二人の縁談はまとまり、結婚するに至ったのでした。

思えば、りょうさにとって結婚なんて、「おまんでええぞ」程度だったのかと思ったり、恵子さんの抜けた枠に、たまたまそのタイミングで自分がはまっただけかと思ったり、りょうさの浮気が発覚するたびに、たまちゃんは悩むのでした。

かといって、りょうさは浮気相手にのめり込むような人でもありませんでした。たまちゃんが物凄く怒っても、売り言葉に買い言葉で家を出て行くなんてことはありません。飲みに行っては、どこに泊まるのか、帰って来ない日もありますが、家にいる時は、穏やかで優しい夫でした。子供が反抗期の頃など、たまちゃんが生意気盛りの子供を相手に怒っていると、りょうさはなだめるようにたまちゃんに話しかけ、なぜか子供達もお父さんの話は、けんか腰にならずに耳を傾けるのです。たまちゃんは、この浮気癖のある夫が、自分より子供たちに一目置かれているのが、悔しくもあり、不思議でもありました。そして子供たちはグレる事も無く、なんとかまともに成長したのでした。


家に帰って蕎麦を打っていると、娘のゆかちゃんが話しかけて来ました。

「今日、同級生みんなと踊りに行くんや。浴衣どれ着て行こう」

「どれでもええがな。絞りのがよければ、私の出しなれ」

「お母さんの、着てもええか」

「まぁ、お母さんも踊りには行かんで。やけど、裄がちいと短いかもしれんな」

「少しくらいのこと、ええろ?」

「まぁ、浴衣やでな。好きなの出して着なれ」

「今日はお父さんも徹夜か?」

「そうやな、当番が何時からになっとるか知らんが、一晩中、踊り場の辺りにおるンないか」

「みんな、お父さんの時間に踊りに行きたいって言いよった」

「なんでや」

「そら上手やでや。中学生くらいの時は、お父さんの当番の時に行くの、恥ずかしいし、嫌やったけどな。この頃、みんながそう言ってくれると、ちょっと自慢なんや」

「そら、お父さんが聞いたら喜ぶわ」

「最近は女の人の話、何もないろ?」

「…」

「あるんか?」

「おまんはそんなこと、気にせんでええ」

「お父さんのどこがそんにモテるんか、理解できん。あんなおっさん、どっこにでもおるがな。嫌やなぁ。今日、みんなと会うこと嫌になってきた。お父さんのこと、みんなが知っとったら、私恥ずかしいがな」

「おまんが恥ずかしいことしとるわけでもないに。気にせんでええわ。おまんは要らんこと思わんでええで、早う浴衣出しなれ」

娘のゆかちゃんが言うように、りょうさはすっかり「どこにでもいるおっさん」でした。髪は薄くはありませんでしたが、白髪まじりのごましお頭になってきていました。目尻には皺が増えました。屋形ではベテランの歌い手さんになっていました。

りょうさはもう、若い頃のようなモテ方はしていません。ただ、男女問わず、りょうさの周りにはいつも人がいます。モテるというより、慕われるとか、人気があるとか、親しみを感じるという表現がしっくりくるような、そんな人になっていました。初対面の相手にでも、心の門戸が広いのは相変わらずで、警戒心を抱かせないところは若い頃から変わりません。ゆかちゃんの言うように、確かにりょうさはどこにでもいるおっさんですが、なかなか探し出せないほど人間好きなおっさんでもあるのです。

そんなりょうさが、みっちゃんや、みっちゃんの子供たちを可哀相だと思い、手を貸してやることは、たまちゃんにとっては、許しがたいことでありながら、反面、りょうさという人を一番よく知っているだけに、同情し、優しくしてやるうちに、ついつい深い仲になってしまったのだろうと諦めるような気持ちになったりもするのでした。そして、みっちゃんに直談判しに行ったり、りょうさがいると分かっている日に怒鳴り込んで行ったりする気持ちには、到底なれないのでした。そう思う時はいつも、そんな自分の意気地の無さ加減に、たまちゃん自身が一番情けない気持ちになるのでした。

町はお盆に入り、徹夜踊りの観光客で溢れかえっています。ざわざわと賑わしい町の中で、たまちゃんは自分一人が取り残されているような、なんとも言えない寂しい気持ちが込み上げて来ました。同時に、娘の頃の自分が、何てうぶで世間知らずだったのだろうと、懐かしいような、悲しいような気持ちにもなって来ました。涙が今にも零れ落ちそうになった時、ゆかちゃんの、

「お母さん、この絞りの浴衣、広げてもええか?」

という、はしゃいだ声が聞こえて来ました。苦い薬を飲み込む時のように、ごくんと喉を鳴らしたたまちゃんは、次の瞬間にはしっかり者のお母さんの顔に戻り、笑顔で、

「広げて羽織ってみなれ」

と言っていたのでした。


それから三年ほどが過ぎ、春祭りから一月ほど経ったある日、たけマときすけさは、また二人でコーヒーを飲んでいました。

「おまん、たまちゃんの話聞いたか」

「りょうさの嫁さか?」

「そうや。入院したらしいて」

「なんよ、そんに悪いんか」

「どうもよ、癌らしいで。春祭りの頃から熱が続いて、体もだるいで、祭りの疲れで風邪でも引いたと思っとったらしいんや」

「今年、りょうさンとこ、役やったもんな」

「やでな、りょうさ、子供の神楽の稽古に夜行っては、みっちゃんとこで泊まったりして帰らんこともあったらしいで」

「そうや、みっちゃんとこ、岸剣のお宮さんの下やもんな」

「まったく、帰り道に寄れるもんな」

「たまちゃんもかわええな。りょうさと一緒では、ずっとそんなことばっかでなぁ」

「そのせいで癌になったともいえんけど、肝臓やら腎臓やら、そこらあたりの癌らしいで。かなり悪うて、もう早や死にかけとるようなこと言うやつもおる」

「そらかわええ。りょうさ、どうしとるんよ?」

「たまちゃんが家におらなんだら、りょうさ一人やがな。子供ら他所で働いとるで。やで、そう家には帰らんらしい」

「女のとこ行くんか?」

「毎日とは言わんが」

「半分羨ましいもんな」

「りょうさ、寂しいで家に帰りとうないんや」

「まぁ、わからんでもないなぁ。あそこ、子供らは結婚したか?」

「確か、上の男の子は結婚したぞ。同い年の嫁さんやで、せっつかれたようなこと言いよったぞ。下の子はまだやったと思うぞ。下の女の子はこっちのモンとでも一緒になれば帰って来るかも知れんが、上の子は向こうの子と結婚したで、こっちには帰らんろ」

「家庭持ったら、男はそう簡単に仕事辞めるわけにはいかんでな。子供らそんなら、休みの日くらいしか見舞いにも来れんな。りょうさ、病院に顔出しよるか」

「それが、あんまりらしいで」

「なんよ、たまちゃん、かわええがな。自分が病気やいうに、旦那が見舞いにも来んと、女のとこ入り浸りでは」

「まあなぁ、やけどよ、男ってのは、存外にそういうとこがあるでンなぁ。俺もお袋が悪うなった時は、あんまり病院行かなんだでな。回復するってわかっとればええけど、段々弱うなってって、自分のこと褒めたり叱ったりして育ててくれたモンがよ、歩けんようになって、メシも食わんようになって、、衰えていくのはよ、見とって、なんや、怖いんや。なんともしてやれんしな。今日より次に行く時の方が、ミイラに近づいとるんないかと思うと、見舞いに行くのも、結構勇気が要るんや」

「うちは年寄り、まんだピンシャンしとるでわからんが、そういうもんか。けど、りょうさも、あんだけ苦労かけた嫁やでなぁ」

「週に一回くらいはいくらしいけンど、洗濯物取ってくるだけらしいで。しかもよ、それ自分で片付けんと、どうもみっちゃんに洗ってもらっとるらしいで」

「へぇ、みっちゃん、ようやったるなぁ」

「それより、たまちゃんが嫌やないんか?旦那の愛人が自分のモン洗濯するって」

「そこらへんが、りょうさらしいとこやな。俺なら嫁の洗濯物、愛人になんかよう頼まんわ」

「おまん、愛人おらんし」

「おまんに言われとうないし。ま、俺らはせいぜい今の連れ合いの機嫌取って、無事に人生終わりたいもんやな」

「向こうもそう思って、機嫌とってくれとるんかも知れんでな」

「あんでか?」

「おまんみたいなもん、あの嫁やなけな一緒におってくれんわ」

「おまんもやし」

「まー、甲斐性なしの俺らには、どう転んでも今の嫁しかおらんぞ」

「だちかんな。悲しいよな気分になるし」

「そんなこと言いよると、おまんそのうち罰当たるぞ」


たまちゃんは点滴に繋がれながら、病院の天井を見ていました。どうやら、自分の人生は終盤に来ているようです。

春に入院した時は、すぐに家に帰れると思っていましたが、もう今は夏です。梅雨も明けて、空は真っ青に晴れています。蝉は狂ったように鳴き、今年の踊りは、すでに始まって幾夜かが過ぎました。それなのに身体は大して楽にもならず、自分はどうもこのまま人生を終えるようだと、最近は思っています。

二人の子供は、休みのたびに帰って来ては病院に顔を出してくれますが、肝心のりょうさは来たと思うとすぐに帰ってしまい、何とも頼りになりません。

でも、たまちゃんは、それも仕方ないかと思っていました。りょうさは人間好きで人懐っこい面もありますが、半面、とても寂しがりだからです。多分、たまちゃんが家に帰れる程度の病気なら、りょうさは毎日でも病院に来るだろうと、たまちゃんは思いました。先生から、治る見込みがないと言われたから、寂しくて怖くて、病院に来たくないに違いないと思いました。いつりょうさが来ても、点滴に繋がれたまま話をするたまちゃんを、りょうさは悲しそうに見ていました。

今日、娘のゆかちゃんが怒った顔で話していきました。

「さっき、お父さんに、お母さんの洗濯物、いつもありがとうって言ったんよ。そしたら、顔色も変えんと、『あれ、みっちゃんがいつも洗ってくれるんや』って、娘の私によう言うと思って。お母さん病気やに、何しとるんよって、怒ってやったんや」

「おまん、そう言いなれんな。お父さん、寂しゅうてかなわんのや。おまんたもおらんし、一人でうちにようおらんのやろ」

「お母さんのそういうところが、お父さんをあんにしてまったんや」

「かもしれんなあ。やけど、私やであの人と死ぬまでおれたんや」

「おかしなこと言いなれんな。今にも死ぬようなこと」

「お父さんなぁ、色んな女の人がおったけどな、お母さん、どの人もこの人も、いい加減な女の人ばっかやと思っとったんや。やで、悔しいことも情けないこともあったけど、出来るだけ気にせんように、自分に言い聞かせて来たんや。

でもなぁ、おまんたが家出て行った今、そういう人がおること、なんや、ありがたいように思えるときもあるんや。お母さんがおらなんだら、お父さん、家で一人やろ?一人でご飯食べて、一人で晩酌するって、あのお父さんには辛すぎると思うんや。あんで寂しがりやでな。一緒におってくれる人がおらんと、お父さん、かわええんや」

「やでって、なんで洗濯物くらい洗わんのよ」

「ええて。気にしなれんな。お父さんな、みっちゃんが洗ってくれた洗濯物、毎週持ってくるんよ。お母さん、お父さんには怒ってやるんや。そんに人に迷惑かけてって。

けどな、みっちゃんの洗ってくれたやつ見ると、いつもきちんと畳んであって、あの子の性格がわかるんや。お父さんなんかのどこが良うて付き合っとるんかと思うくらい、きちんとした性格が、洗濯物一つにも表れとるんや。同じ町に住んどっても、あの子とはろくに顔合わせたことないし、向こうも私の行きそうな所は、時間ずらしたりして、なるべく会わんようにしとったと思う。

でもなぁ、もしあの子が隣の家に嫁いで来た嫁やったら、もしかしたら、お母さん、仲良しになれたかもしれんと思うときあるんや。よう知りもせんに、嫌って悪かったと思ったりするんや」

「お母さん、お人好し過ぎるわ」

「けどよ、お父さんが言うんや。みっちゃんは子供抱えて働いて、そんでも家の事手抜きせんで偉いって」

「たーけやんな。そんなこと自分の嫁にしゃべる亭主がどこにおる」

「はは、ここにおるんや。お母さんがおらんでも、みっちゃんみたいな子がお父さんのこと世話しとくれるんなら、ありがたいと思ったりするんや、この頃は」

「お母さん…」

たまちゃんの入院している八幡病院は、踊りの期間中、よく会場になる旧庁舎記念館からも近く、風向きによってはお囃子の音がよく聞こえます。その中にりょうさの声が聞こえると、たまちゃんは嬉しいような、懐かしいような、誇らしいような気持ちになるのでした。

結婚してからというもの、子育てや内職に忙しいこともあり、また、りょうさの浮気癖のせいで、自分がさらし者になるかのような気がして、踊り場にはほとんど近づいたこともありませんでした。

たまちゃんは自分がまだ結婚する前の、娘の頃を思い出していました。あの頃、りょうさに会うのが嬉しくて、屋形で歌うりょうさに小さく手を振るのが、どんなに心浮き立つことだったか、思い出すと、自分自身の可愛らしさに笑みがこぼれるのでした。りょうさの浮気も、今はもうどこか、別世界の出来事であるかのように思えてくるのでした。


踊り納めから二週間が経ちました。

りょうさは自分がどうしていいのか分かりませんでした。たまちゃんが入院した時、末期の癌だとは言われました。もう長くはないと言われていたけれど、りょうさは認めたくありませんでした。

たまちゃんはりょうさにとって、大切な奥さんでした。たまにはよその女の人も良く見えることもありましたし、そのことでたまちゃんに怖い顔で何度も怒られましたが、りょうさには一番の、大事な奥さんでした。恋人は何人も代わりましたが、たまちゃんと別れてまで一緒に暮らしたい人なんて、今までただの一人もいませんでした。

内職の納期が迫っていて、徹夜で仕事をしても、朝にはきちんとご飯の支度をしてくれる。亭主の浮気に怒って、泣きはらした目で朝を迎えても、子供たちをちゃんと学校へ送り出す。風邪をひいて熱があっても、朝早いうちに洗濯とお風呂掃除を済ませる。たまちゃんはそういう奥さんでした。

そんなたまちゃんが、病院では一日中パジャマで、一日中ベッドにいて、点滴ばかり受けている姿は、りょうさには耐えられませんでした。たまちゃんは元気になって帰って来なくてはならない人でした。昼間からパジャマでいるような人のはずがありませんでした。

でも、やはりたまちゃんは、病院では一日中パジャマです。その姿は、りょうさが目を背けようとしている事実から、りょうさを逃がしてはくれません。それが辛くて、りょうさは病院に行きたくなくなるのです。みんながりょうさのことを薄情者呼ばわりしていることは知っています。娘のゆかちゃんにも洗濯物のことで怒られたりしました。それでも、家でたまちゃんの洗濯物を畳んでいると、ずっとこの家でその仕事をしてきた人が、今はいない、もう帰って来られないらしい、という現実から、嫌でも目を逸らすことが出来なくなるのです。それが辛くて、りょうさは自分で洗濯するのが嫌になってしまいました。どんなに冷たいやつだと思われても、病院に行って、毎回毎回、段々と弱っていくばかりのたまちゃんの姿を見るのは、怖くて寂しくて、どこかへ逃げ出したい気持ちになるのです。

踊り納めの翌日、りょうさは病院へ行きました。その日のたまちゃんは、少し気分が良かったのか、りょうさの顔を見ると、弱々しいながらも笑顔を見せました。

「お父さん、来とくれたんか、ありがとう」

「どうや」

「まぁ、こんなもんや。良うはならん」

「そうか」

「…、お父さん、今年もお疲れさん」

「何よ、急に」

「今年は、もうずぅっと、ろくに聞いとらなんだお囃子が、ここで聞けた」

「聞こえたか」

「お父さん、やっぱ上手や。そら、彼女も何人も出来るわ」

「おかしなこと言うな」

「みっちゃんにも、世話かけたな。いっつも洗濯してもらって」

「俺が勝手に頼んだだけや。おまんがそんなこと思わんでええ」

「私がおらんでも、みっちゃん、きちんとしといでる人みたいやし、 おとうさん、寂しいことないなぁ」

「おまん、勝手言うな。子供らもおまんのこと心配しとるに」

「子供らは、まんだ若いしこれからや。二人とも、なんとか、あんならまともな人間のうちやと思うで、子供らはなんとかなる。心配なのはお父さんや。世話しとくれる人がおらな、寂しすぎて死んでまうろ」

「たーけ、俺はこう見えて、なんでも出来るんや」

「そうか、なら、安心や」

たまちゃんとまともに会話したのは、それが最後でした。その後、昏睡状態に陥り、何度か目覚めることはありましたが、もう会話ができる状態にはなりませんでした。

そして、今日はたまちゃんのお葬式だったのです。

たまちゃんが言うように、二人の子供たちはしっかりものに育ったようです。すっかり大人になった二人は、近所の人や親戚の人に聞いては、お葬式を段取り良く済ませていきました。二人とも悲しい気持ちは同じなのに、やらなければならないことは、きちんと出来る大人になったようです。

そんな中で、りょうさだけが自分の居場所を見つけられないでいました。たまちゃんのいない家の中は、自分の家ではないような気がしました。もう二度とたまちゃんが帰ってくることはないと思うと、その寂しさは、たまちゃんが入院していた頃よりも更に大きく、何倍にも膨れ上がり、その塊に押しつぶされそうでした。お葬式の間、りょうさは何も考えたくありませんでした。まるで映画を見ているかのように、たまちゃんのお葬式が進められていくのを見ていました。


たまちゃんのお葬式の後。暫く経ったある日、例のおじさん二人は、また喫茶店にいました。

「おい、りょうさの嫁さ、かわえかったンなぁ」

「なぁ。本当にこうも早う死んでまうとは思わなんだな」

「入院した時に、もう手遅れやって言われよったらしいけども、どうや、半年くらいで逝ってまったンないか。

…、おまん、秋になったに、そんな冷たいもん頼んだんか」

「おー、コーヒーフロートや。期間限定で、今日までやって書いてあったで、頼んだんや。

たまちゃん、入院して半年や。あっけなかったンなぁ」

「おまん、自分の女房があと半年くらいで死んでまったらどうするよ」

「次の若いの探す」

「たーけやンな。おまんとこなんか、おばあも来んわ。何が若いのや。来るはずがないがな」

「おまん、そこまでこきおろすか」

「おまんが、冗談にもならんよな、身の程知らずなこと言うでやがな」

「やけどよ、たまちゃんの葬式のあと、お囃子の稽古に初めてりょうさが来た時、誰やらが『奥さんの事、気の毒やったな。寂しいやろうけど、気ぃ落としなれんな』って言ったんや。そしたらりょうさが、『俺は女には不自由したことないで、そんな気ぃ使いなれんな』って言ってよ。一瞬周りの雰囲気、冷めーた感じになったぞ」

「そんなこと言ったんか。全然知らなんだ」

「まぁ、稽古前に、四、五人で集まっとったときの話やでな」

「そうか。また、りょうさらしゅうもないこと言ったもんやし」

「確かに、まんだみっちゃんとこには行きよるし、不自由はしとらんやろうけど」

「やけどな、そんなもん、絶対強がりやで。りょうさ、本当は寂して仕方ないンないか。やで、つい強がりでそんなこと言ってまったンないか」

「そうやろかえ?」

「たまちゃんはりょうさの自慢の嫁さんやったでな。ああ見えて、りょうさの一番はいつでもたまちゃんやったんやで」

「人はわからんもんやな。あんに外に女おってもか」

「たまちゃんやで、あのりょうさに愛想もつかさんとおってくれたんや。何人女がおっても、たまちゃんが出て行ったら、りょうさ土下座してでも帰ってくれるように頼んだと思うぞ」

「へぇ、そんにか」

「おまんも同じや。女房死んだら若いのもらうとか言うけど、絶対ようもらわんわ。おまんがぐたぐた言っとれるのも、あの嫁やでや。半年で死んでまったら、おまんなんかあっという間に痩せこけて、泣いてばっかやわ」

「なんや、そんな染みたれた話、まぁしなれんな。お互い若うもないし、明日は我が身と思えてくるがな」

「そう思うと、嫁のありがたさもよう分かるろ。ほれ、さっさと食べんで、アイスクリームがだらだらこぼれよるがな。まったく、じじむそうなったもんやし。おまん、嫁に感謝せいよ。小汚いおじいでも一緒におってくれるんやで」

「りょうさ、みっちゃん、嫁にもらうやろか」

「どうやろ、みっちゃんも一人モンやで、籍入れることはできるけど、そこまで 考えとるやろか」

「みっちゃんとこも、段々子供も大きゅうなるしな」

「みっちゃんがおっても、りょうさは寂しいやろな。多分、りょうさの方からは、籍入れよか、とは言わんやろな。誰もたまちゃんの代わりにはなれんろ」

「そういうもんか」

「みっちゃんも、そんに強引な子ぉでもないと思うしな」

「そうか。りょうさ気楽になって、遊び三昧しとるってわけでもないんやな」

「おまん、この頃りょうさの顔つき変わって来たと思わんか」

「そうか?」

「なんや、ここんとこ、急に年寄り臭うなったぞ。あれ、がっくりきとるでやないんか」

「へぇ、りょうさ、身体壊さなええけどな」

「まったくよ、嫁が先に逝くと、男ってもんは弱うなるでンぁ」


数年が過ぎました。

今日はりょうさのお葬式でした。

たまちゃんが亡くなった翌年も、りょうさは屋形で歌っていました。相変わらずの人気者で、りょうさの当番の時にしか踊りに来ない人もいるほどでした。

でも、りょうさは、自分の歌が確実に衰えていることに気付いてしまいました。自分の衰えを自分で気付くというのは、悲しいことです。以前のように歌えない自分が、情けなくて、みじめで、りょうさは歌いながら泣けてきたこともありました。

その年の踊り納めが過ぎてから、りょうさは保存会の会長に話をしました。

「桑田さん、まぁ、俺、前のようには歌えんようになってきたで、屋形では歌わんようにする」

「おまん、まんだそんなことないがな。おまんの歌を聞きにおいでる人も多いに、そんに言わんでも」

保存会の会長というのは、何年かで交代と決まっています。郡上踊りはラジオやテレビの取材や、イベントへの招待も多いため、依頼があると会長を通さなくてはなりません。

桑田さんは温厚な人物で、心から郡上踊りとお囃子を愛していました。桑田さんにとって、りょうさは大切なメンバーでした。本当のところは、どこからイベントの依頼があっても、全部りょうさに歌ってもらいたいと思うほど、りょうさの歌を認め、惚れ込んでいる人でもありました。

「だちかん。もう今年、あんまり情けのうて、これ以上は続けたら、来ておくれる人に申し訳ないと思ったんや」

「おまんが歌わんようになったら、屋形の歌に華がのうなるがな」

「そんなこともなかろ。若いもんにもっと歌わせんと、なかなか上手にも歌えんし、人を鍛えるのは実践やでんな」

「それはそれで段々やってけばええがな。おまんの出番は少のうして、若いやつンたの出番増やせば」

「もう、声に張りがのうなったんや。みっとものうて歌えん」

「なら、おまんより下手なもんばっかに歌わせるのも、それこそみっともないがな。みんなおまんより、まんだ下手なもんばっかやによ」

「だちかん。自分が納得できんのや。情けのうて、情けのうて、帰ってから落ち込むんや」

「どしてよ。今年もおまんの歌が一番やったがな」

「だちかん」

「おまんが落ち込むなら、みんなが落ち込まんならんがな」

「だちかん。ほかの誰ってことないんや。去年までの自分と、比べられんくらい、よう歌わんようになったんや」

会長の桑田さんの説得にも耳を貸さず、りょうさは歌わない宣言の撤回をしませんでした。

桑田さんは、取り敢えず了承しました。りょうさの意志が固いと知って、このまま話していても、堂々巡りで切りが無いと思ったからです。

「まぁ、そこまで言うなら、無理にとは言わん。やけんど、三味線までは止めてまわんろ?保存会辞めるわけでもないんやしな」

「そうやな、これからは三味線の方で上がらしてもらおうかな。…やけんど、三味線の人んたが面白うないんないか?」

「おまん、今までは歌わんならんで歌っとっただけで、三味線で上がってもらっても良かったんやで。三味線も上手やし、人にも教えよるがな」

桑田さんは、りょうさが三味線で屋形に上がるうちに、また歌いたくなるだろうと目論んでいたのです。本当のところ、りょうさが何と言おうと、桑田さんはりょうさの歌を諦めてはいませんでした。翌年の発祥祭までには、なんとか歌う気にさせてやろうと思っていたのです。

シーズンオフの稽古の時も、何度か桑田さんは、りょうさが歌う気にならないかと、度々勧めてみましたが、りょうさは一度も歌いませんでした。稽古の時は、りょうさは三味線のグループの方に控えていて、真面目に参加していましたが、歌うことは無いまま、次の踊りシーズンを迎えたのでした。

翌年から三味線で屋形に上がっていたりょうさに、常連さんたちから、なぜりょうさは歌ってくれないのかと声が上がりました。屋形の下から、直接りょうさに頼む踊り客もいました。

それこそが桑田さんの最後の頼みの綱でした。踊り場で、直接常連の踊り客たちにせがまれれば、りょうさも断れないだろうと思っていたのです。

ある日の踊りの帰り、桑田さんはりょうさを呼び止めました。

「りょうさよ、おまん、あんだけのことみんなに言わせて、そんでも歌わん気か」

桑田さんが言いました。

「…」

「前のようにとは言わん。みんな、おまんの歌で踊りたいんや。それ、わかってくれんのンか」

「…。去年で諦めたんや。もう、前のようには歌えんのや。情けのうて泣けてくるんや。そんにみっともないこと、出来ん」

「やで、前のようにとは言わんがな。若いもんもまんだ上手に歌えんとこもあるし、お手本になってやっとくれ」

「だちかん、こんに歌えんもんが、お手本やなんて無理や。みんなは、昔の俺の歌で踊りたいんや。今の歌を聞かせて、ガッカリさせるのも、ほん良うないがな」

桑田さんは、あまりにも頑固に歌わないと決めているりょうさに、他に理由があるのかと思ったりしました。別の踊りの日、常連の一人に半分怒られながら、りょうさの歌わない訳を問い詰められた桑田さんは、たまたま近くにいたきすけさに愚痴を言いました。

「りょうさが頑固に歌わんで、俺が叱られるわ」

溜息混じりに桑田さんが言うと、きすけさが言いました。

「りょうさなぁ、たまちゃんがおらんようになってから、元気のうなったでなあ。あれ、たまちゃんがおったで、声にも張りがあったんないか」

「あそこ、嫁さはちっとも踊りに来なんだがな。嫁に聞かせとうて歌っとったわけでもなかろも」

「夫婦のことはわからんけどもな、気持ちに張りが無いと、声にも張りがのうなるンないか」

二人が話していると、たけマが足を止めて会話に加わりました。

「なんよ、内緒話か」

「おまんがやくたいもない話よ」

「なんよ、悪口やったんか」

そこで桑田さんが口を挟みました。

「どしてりょうさが歌っておくれんのかって話よ」

「歌やぁ、モテるになぁ」

たけマが言うと、きすけさが呆れたように言いました。

「また、おまん、その話か」

「たまちゃん死んで、モテるのにも罪悪感出てきたンないか」

「そんに訳わからん理屈、聞いたことないわ」

「りょうさなぁ、まんだはげてもおらんに、勿体無いわな」

「はげと歌と、関係ないがな」

「モテ方は歴然と違うろ」

たけマが加わって、話がどうでもいいほうに転がって行ったので、桑田さんはその場を離れました。なんとかして、りょうさには歌ってもらいたいと思いながら。

桑田さんの気持ちとは裏腹に、沢山の人たちに、どんなに頼まれても、りょうさは困ったような、照れたような、寂しそうな顔で笑うだけで、もう二度と歌うことはありませんでした。

そして、続けていた三味線も、そう長くは続かなかったのです。

今年の踊り納めから数日が過ぎた頃、今度はりょうさが倒れたからです。一人の家の中で倒れたりょうさは、発見が遅れたため、一度も意識が戻ることなく、死んでしまったのです。

たけマときすけさは、りょうさのお葬式に来ていました。

「おい、前に、りょうさ身体壊さなええがなぁって話したこと覚えとるか」

「おー、覚えとる。りょうさ、やっぱ、たまちゃんがおらんせいで、調子おかしゅうなってまったんやろか」

「どうやろなぁ。俺、りょうさが屋形で歌わんって言い出したときに、かなり弱っとるんないかと思ったんや。心の方がなぁ」

「なぁ、あんに花形やったに、なぁ」

「おまん、泣くな。こっちまで涙出てくるがな」

「やけど、りょうさみたいに人懐っこいモンも、他に知らんでなぁ。憎めんヤツやったで」

「そうやンなぁ。けどよ、たまちゃんが逝ってまってから、りょうさも前みたいな元気がなかったでなぁ。心配したたまちゃんが連れに来たンないか」

「そうかも知れんなぁ」

「俺も、おまんとコーヒー飲みに行けんようになったら、がっくりくるかもしれん」

「なんよ、変なこと言うな。また泣けてくるし。

俺がはげても、コーヒー一緒に行ってくれるか」

「なんでそこにはげ出て来るんよ。おまんの毛が一本ものうても、コーヒーの味は変わらんがな」


お葬式には、保存会の会員や、踊りの常連さんも沢山来ていました。葬儀会場になっているお寺は、中に入り切れない人たちが、外にも大勢溢れていました。

その人々の塊から少し離れたところに、みっちゃんは立っていました。

みっちゃんは思っていました。みんなは、奥さんがりょうさを連れに来たと言っていましたが、本当はりょうさの方が一日も早く、たまちゃんのところに行きたがっていたのではないかと。

奥さんが入院してからというもの、りょうさは一人で家にいるのが寂しいせいか、以前よりも頻繁にみっちゃんの家を訪れるようになりました。

子供たちが寝入った後、みっちゃんはりょうさにもたれかかって、いつも髪や背を撫でてもらいました。ずっとしてもらっていることでしたが、たまちゃんの入院以来、みっちゃんは自分が撫でてもらっているのに、りょうさのことを撫でてあげているかのような気持ちになりました。多分、りょうさの方も、そうすることで寂しさを紛らわせていたのでしょう。りょうさが何も言わなくても、みっちゃんにはそれがよくわかりました。

最初にたまちゃんの洗濯物をりょうさが持ってきた時、何も言わなくても、その表情を見ただけで、みっちゃんはりょうさが今、どんなに孤独で寂しいと感じているか、切なくなるほど分かりました。みっちゃんは、自分が出来る限りのことをしてあげたいと思いました。自分が慰められて来た分、りょうさを慰めたいと思いました。

そして、程なくして、みっちゃんは、自分がどんなにそう思っても、りょうさを本当に慰める事が出来るのは、たまちゃん以外にはいないと思い知ったのでした。

奥さんのたまちゃんが亡くなってからも、りょうさは相変わらずの子供好きで、みっちゃんの子供達を可愛がってくれました。

ある時、みっちゃんは子供たちが眠ってから、りょうさに言いました。

「家に帰るの面倒なら、泊まっていったら」

たまちゃんが生きている頃には、何度もあったことなのに、たまちゃんが亡くなってからは、一度も泊まっていくことがなくなったので、つい、一人の家では却って寂しいのではないかと思って言った言葉でした。

「俺が帰らなぁ、あいつも一人でかわええがな…」

りょうさはつぶやくように言いました。

もしりょうさを知る人がこれを聞いたら、「今更何を言うか」と笑ったかもしれません。けれども、みっちゃんは、その一言で、どんなにりょうさがたまちゃんに会いたがっているかを知ったのでした。そして、その寂しさは、みっちゃんがどんなに頑張っても、取り除くことは出来ないということも。かわええのは、たまちゃんではなく、りょうさのほうだと、みっちゃんは思いました。りょうさにとって、自分の家は、たまちゃんの待っていてくれる家なのです。

もう家に帰っても、りょうさの家にたまちゃんはいません。小さなお仏壇に入ってしまったのです。りょうさは、それでも、意固地なまでに毎晩家に帰りました。そして、「お帰り」の声もない家で、毎日毎日、たまちゃんがいないという事実を、嫌というほど噛みしめながら、朝を迎えるのでした。

この数年のうちにみっちゃんの子供達は大きくなりました。さとしくんはそろそろ反抗期に入って、生意気なことばかり言うようになりましたが、それでもりょうさが来ると、男同士楽しそうに話をしました。子供達と話をしているりょうさは、相変わらずの優しいおじさんでしたが、以前のように、まるで自分が子供であるかのような、屈託の無い笑い方はしなくなってしまいました。笑っていても、どこか寂しげでした。それはまるで、お母さんが迎えに来てくれるのを待っている、迷子センターの子供のような表情でした。りょうさの心は、たまちゃんがいなくなってから、ずっと迷子のままだったのかもしれません。

お葬式の祭壇には、屋形で歌っていた時のりょうさの写真が飾られました。写真のりょうさは、心の底から楽しそうな、少年の面影さえ感じられる笑顔のりょうさでした。それは、まだたまちゃんが元気でいたからこそ、安心してやんちゃも出来ていた頃のりょうさでした。

あの世でたまちゃんに会えたりょうさは、きっとこんな顔で笑っているに違いないと、みっちゃんは思ったのでした。

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