自己否定と優しい友人
作者の青春の一ページ
俺のマジレスが嫌だと言う人間は俺の周りには多い。それに関しては諦めるようだが、性質と言うか遺伝なのでしょうがないと思っている。このすぐに諦める性質がダメなのか? だが、無駄に諦めずに頑張ると言うのも無駄である気がしてならない。それに俺が無駄に熱血入ってもそれはそれでウザいことだろう。
そして、さっきふと思った。今の俺のキャラクターは、俺が嫌いだと公言して憚らないクラスメイトと同じようなものではないか? いや、クラスメイトよりもひどいかもしれない。クラスメイトの行動で俺が嫌だと感じるのは、うるさいところ。無駄にテンションが高いところ。あとはガキ臭いところではあるが、親しい友人をとられたと思っているからであろう。
ならば、俺は何だ? 冷静に考えて俺が認識している範囲内ではぶっちぎりのクズではないのか? 先輩は敬わない。すぐに暴力を振るう。口が悪い。すぐにマジレスをする。人のことをすぐに嫌いだと言う。テンションで周りを引っ張り回す。根性がない。口先ばかりである。苛めを行う。ネガティブである。言ったことすら守れない。普通の人ならすぐに忘れられるようなことを延々と引きずる。そして、そのせいでその人間が信用できなくなり、友人関係を崩壊させると言う悪循環。自分勝手で自己中心的である。自分のなかで人に勝手に線引きをして、すぐに見下す。自分のことをクズだと言って人に言われても改善しようとしない。
パッと自身で思い付くだけでもこれだけの物が出てくる。俺が認識していないだけで他人から見たらこの十倍ほどの物が出て来ることであろう。
…………さて、本題に入ろう。俺はどうするべきなのだろうか? たぶん、これに関しては自分で答えを出さないことにはどうしようもないだろう。……何故なら、どうしたって人間は相手の顔色を伺ってしまうからだ。まっすぐ言葉を伝えてくる人間と言うものも少なからずいるが、俺がそれを信用できなければ意味がない。それに、友人にマジレスがウザいと言われただけでその友人に悪感情を抱いている俺がいるからだ。友人にとって、さっきの一言はちょっと口をついて出ただけの言葉なのだろう。だが……いや、だからこそ本音が出てきたのだと捉えることすらできる。……こんなことを考えてしまうから俺はダメなのだろう。こんなのはパラノイア患者と大差がないではないか。
俺は昔から理解を得られないと言い、嘆いてきた。
だが、それは現実とは違うのかもしれない。誰しも門戸を開かない人間の門を叩き続けたいとは思えないだろう。俺だってそうだ。心を開く気のない人間に接触していくのは無意味で無価値だ。そんなただただ疲労がたまっていくだけのことを俺はしたくない。
この門戸を開いていないのが俺だったのではないか?
すぐに面倒になると縁を切り、相手にこちらに会わせることを強要し、自分は相手に理解を求めるが相手のことを理解しようとはしない。これでは一緒にいたいと思う人間の方がおかしい。
人間関係と言うのは相手と自分の最大公約数を求める作業だ。人間関係が広がっていけば、そのそれぞれの人間との間の最大公約数を求め続けるのが最適解だ。だが、それがグループになると、その二人の関係に複数人が介在してくると一気に最適解が求めづらくなる。何故ならば、その全員に共通する公約数を見つけなければならないからだ。これにおいて交遊関係が広い、またはコミュ力が高いなどと言われる人間はその自身の数字がとても高いかとても低いかのどちらかなのだろう。これにおける俺と言うのは、まず整数ではないのだろう。それでは最大公約数を求める求めないではないのだろう。
まず、求める求めない以前に、誰もそんな面倒なことはしたがらないのだろう。
だから、俺が嫌われているのは当然と言えば当然のことなのだ。
そんな俺が好かれるにはどうしたら良いのだろうか?
その答えは少なくとも俺には出せない。それ故に、私を好く人間はいないのだろう。
だが、そんな俺の良いところを必死に考えてくれる友人が俺にはいたらしい。
俺にはもう自分がわからない。どこからどこまでを友人と呼ぶ? と聞かれたとしたら、俺に友達はいないと答える。どこからどこまでが友達かなんて俺にはわからないし、その友達だと思っている相手に「え? 友達じゃないけど?」などと言われたら十中八九どころか、確実に立ち直れない。と言うか、立ち直れなかった。昔にそう言われたことで生まれた棘は今を持って、俺の心に置いて痛みを発し続けている。
その俺を友人だと呼んでくれた人間は俺の話を聞いて泣いていた。その時には俺も泣いていたが。
その友人の涙を見た時に心の内にあった悲しみは驚きに変わった。俺は他人のために泣くことなどできないからだ。
俺がネガティブなことを言っていたら楽しい空気な場所に連れていってくれた。俺が論理的に自分を否定していたらその論理を打ち壊そうとしてくれた。俺の話に親身になって悩んでくれた。
俺の脳はその友人を見て、エラーの警報を鳴らし続けていた。
その友人の様は二次元……所謂、創作物では幾度となく見たことがある。その光景は俺の心に暖かなものを運んでいった。だが、その暖かなものが心に入り込む度に、その暖かなものの熱エネルギーを急速に奪っていく自分がいたからだ。その自分は毎回俺にこう言っていた。「あんなのは作者の妄想だ。三次元ではありはしない。仮にあったとしてもそんなのは偽善だ。信ずるには値しない」と。
だが、俺にはその友人の涙を偽善と断じ、否定することができなかった。その友人とそれなりの期間一緒にいた俺には、友人の涙に魂が通っているような気がしていた。
その友人は基本的に優しい人間だ。
常に周囲に気を配り、争い事の種があったらそれを人知れずに取り除く。その行為を誰かに見られてもヘラヘラと笑いながら、「気にするな。俺が勝手にやっているだけだ」と言いながら、あしらう。いつも場の空気を読んで、空気を壊すようなことはしない。だと言うのに、周囲の人間がしている行いを自分が間違っていると判断したら、場の空気も何もぶち壊しながらその人間を止めることができる。友人の雰囲気がいつもと違うと感じたら、他の友人たちと楽しくしている最中でも、気遣って話を聞く。
この友人はひどく不器用だ。
だが、不器用ながらに人のために行動し、時に失敗もする。失敗したとしてもその失敗に挫けずに、またヘラヘラと笑いながら人のために行動を始める。
この友人にとっては打算など一欠片もありはしないのだろう。
それ故に人はその友人に惹かれる。
そんな友人は、不器用ながらにもその不器用さを隠そうともせずに、人のために行動できる俺にとっての英雄なのだ。
さて、俺のネガティブな気持ちも晴れたことだし、もうそろそろこの筆をおこう。
優しい優しい彼が、温かい温かい幸せに包まれることを祈って。
ホント、修学旅行中に何をしてたんだ俺は……