音葉Ⅰ
矛盾するようだが、進藤自身に、呪いを受けた記憶は無い。
彼の人生は、彼の記憶力の無さ故か、ひどく曖昧なものだった。
覚えているのは、色々な家を転々としていたこと。
引越しが多かったわけでは無い。よく解からないうちに、色々な家族に預けられ、気付いたら捨てられてを繰り返していた。自分でもよく解からないまま、いつの間にか呪いを受けていた。気付いたのは、遂に預けられる家が無くなった中学一年の時である。
記憶の中には様々な光景があるが、どれも曖昧過ぎて現実味を実感出来ない。例えば、自分が知らない協会でうずくまっている記憶。教会に行った覚えは全く無いのに、自分の記憶の中では、行っているのだ。
他にも、幼い自分が何かから必死に逃げている場面もある。惰性でただ生きていただけの自分に、こんな必死な場面など想像も出来ない。
記憶がはっきりするのは、まさにこの街に来てから。そして、スターに辿り着き仕事をするようになってからだった。その時にはもう、自分の過去などどうでもよくなっていた。
いつの間にか呪われていた。おそらく、色んな家族をたらいまわしにされている間に、どっかの家族に呪われたのだろう。家族という空間に突然放り込まれた異物を快く思わないのは、人間として仕方のない事だろうし、と進藤は考える。
この街に来て最初に会ったのはスターの店主だが、次に会ったのは布施だった。正確には、二番目にちゃんと話したのは、か。店主曰く、呪いを受けても日常生活は忘れてはいけないという。だから、依頼をこなす傍らで、学校には行ったほうが良い、と言われたのだ。だから、自分で稼いだ金で、中学に通った。そこで、布施と出会った。
布施と、もう一人。風音静葉という人物に。
夜。進藤はとあるライブハウスの前で立っていた。
本音を言えば、漏れて聞こえてくる楽器の音をもっと近くで聴いて、ライブハウス独特の興奮の波の一部になりたかった。
しかし、ライブも後半という事もあってか、外売りのチケット販売は終わっていた。
間に合わなかったのでは無い。わざと、遅れてきたのだ。本当なら来る必要も無かったのだが、それでもここまで来てしまう辺り、進藤の女々しさが伺える。
待つ事数十分、中から人の波が溢れてきた。ライブが終わったようだ。その中に見知った顔があった。
「鶴技」
声をかけながら、布施に歩み寄る。
布施はすぐに進藤に気付き、満足そうに笑った。
「来ていたのなら、中に入れば良かったのに」
「そうしたかったんだけど、来た時にはチケット販売が終わっててね」
それは免罪符だった。わざと遅れたとはいえ、真実に変わりは無い。
「残念なことをしたわね。貴方も今日やった曲を聞けば、仕事の報告なんて後回しにすれば良かった、と思うわよ」
楽しそうに語る布施。普段はあまり動かない表情だが、BBBの話になると、まるで別人だ。
「へえ、なにをやったの?」
この無邪気な布施の顔が、進藤にとって一番好きな顔だった。見ていて安心するのは、呪いが発動する可能性が無いからだろう。その表情を続けさせるために、話を掘り下げた。布施がもっと語りたい、という目をしていたから、というのもある。
「最初はイントロの『刹那』。これはもう鉄板よね。盛り上げ曲のアポロンが二番目で、夜空、クラレス、スターミナルの順でやってから、新曲もやったわ。名前は『スタートレイン』だって。クラレスやスターミナルと同じで、英単語を繋げて造語にしたらしいわ。星の電車と、始まりの雨をかけた、って音葉が言ってたの」
確かに、それを聞いただけでももう、後悔がこみ上げてきた。新曲というのも気になるし、なにより『夜空』というのは、進藤と布施が一番好きなバラード曲だったから。
『視界を覆う月夜の暗さが、この感情も呑み込んでくれたらいいのに。悲しまなくて済むなら、いくらでも望むよ。
目も閉ざせないほど臆病で、耳もふさげないままなのに。そうやってぼくは、貴方を見失った』
BBBの中ではめずらしい暗めのバラード、もといブルースで、ファンの中にはアンチも居るという。
それでも二人は、この曲が好きだった。この曲がまるで、自分達に歌われているような気がしたからだ。
そんなはずが無いのに。そんなことがあってはいけないのに。
望むだけなら許される。それが祈りの変わる前に、と、進藤は首を横に振って、気持ちを切り替えた。
「最後は、最近のライブではあんまりやってなかった『スタンプ!』で終わったわ。音葉もよくやるわよね、楽器的には一番盛り上げられる曲とはいえ、自分で黒歴史判定しちゃう曲を再演するなんて」
「そうだね。どこのアニソンだよ、って、ライブ中に自分で突っ込んでたし。もうやらないと思ってたけど、懐かしいな。確かに、惜しい事をしたよ」
それは、紛う事無き本音だった。
BBBの話なら、音葉の話なら、いくら聞いてても、どれだけ長話になっても、苦にはならない。立ち話もなんだから、どこかファミレスに入ろう、と、進藤が勧めると、もっと語りたかったのであろう布施も二つ返事をした。
「それで、客席が盛り上がり過ぎたみたいね。なんていうのかしら、ダイブ? そんな感じのやつを始めちゃう人も出てきて、驚いたわ。人が人の上を転がってるのよ?」
「うわー、見たかったような、見なくて正解だったような……」
想像してみる。しかし、その光景はあまり気持ちの良いものではなかった。ライブという特殊な環境だからこそ許される蛮行とも言えるだろう。
「そしたら間奏中に音葉が『そんな危ない事する人にはスタンプしちゃうぞ!』って言うのよ。ベースのイツキに『どこのアニメイベントサービスだよ』って突っ込まれて赤くなる音葉、かわいかったなー」
それは、確かに見たかったな、と、純粋に後悔する進藤。ファンとしては、見逃してはいけない場面だっただろう。
ちなみに、このレストランに入ってから、もう一時間以上経っている。注文した料理も食べ終わり、ドリンクバーにも飽きてきた頃だ。布施はその間、殆どずっと語っていた。だが、ようやく落ち着いたらしい。僅かな沈黙が訪れる。
「そろそろ出よう。……一応、仕事の話もしたいからさ」
その沈黙に乗っかるようにして提案する進藤。
「ああ、そうね。解かったわ」
笑みを消さないまま頷いて、布施は伝票を手に取った。
「今日のライブに来れなかった可愛そうな隼人へのせめてもの情けよ。ここは奢ってあげる」
随分気前と機嫌が良いな、とは、もう思わない。この流れは、音葉がバンドを始めた高校一年の時から、ずっと同じだからだ。
どちらかがライブに行けなかったら、行ったほうが奢る。それくらいの慰めが無いと嫌だ、という、布施の提案だった。
しかし、立ち上がり、会計を済ませ、店を出ようとした時だった。
「いやー、今日のライブは最高に盛り上がったなあ。やっぱり『スタンプ!』は黒歴史にしないで、定番に入れたほうが良くないか?」
そんな会話をしながら、店に入ってきた五人組みが在った。男二人、女三人のグループ。
「だあべえ? だっからあれは封印すべきじゃないって、俺あ言ってたんだよ!」
「それはあんたが作った曲だから、思い入れがあったってだけでしょ? 正直スタンプはやってて楽しいけど、うちもあんま人前ではやりたくないもの」
それは、BBBのメンバーで間違い無かった。
その一番後ろで、苦笑して小さくなっている少女が音葉だ。
「そうですよね! イツキちゃんもそう思いますよね! あれ、すごく恥ずかしいんですよぉ」
泣きそうになっている音葉だが、進藤達とすれ違う直前で、動きを止める。
「あ、こんばんわー」
満面の笑みを浮かべながら、彼女は迷うことなく躊躇も無く、布施の手を取った。
「そ、そうね、こんばんわ」
突然の出来事に布施は、不器用な作り笑いを浮かべるだけだった。さっきまであんな楽しそうに話していたとは思えないほど、不器用に笑う。その表情からは「しまった」という感情が漏れ出していた。進藤も似たような状況だ。
「いつもライブ来てくれてますよねー。本当に、ありがとうございます! 実は個人的に、あなた達とお話してみたいと思ってたんですよお」
音葉は楽しそうにそう言うが、二人はそれどころでは無い。大好きは人に話しかけられ、手を握られ、それでも嬉しい、なんて思わない。
――早く逃げなければ。
それだけだった。
彼女は光で、自分達は闇だから。
それは、混ざってはいけないものだから。
「音葉もこう言ってる事だし、もし良かったら、一緒にどう?」
そう提案したのは、ベースを担当しているイツキだった。綺麗系のクールな年上に見えるが、進藤達と同い年である。
「いや、遠慮しておくよ」
そう答えたのは、進藤だ。
「せっかくの打ち上げなんだし、仲間内でやったほうが良い。お互い、変な気を使いたくないでしょ? 俺達は変わりに、次のライブを楽しみにしてるからさ」
なんの変わりかは、言ってる自分にも解からなかった。
ただ解かるのは、その言葉が早口になっていて、怪しまれるかもしれない、という失態と自責があることだけ。
「ええ、そうね。私達はもう食事を終えてしまったし、いちファンでしかないもの。いつかメジャーデビューすると信じてるからこそ、ファンであり続けたい。その距離感、解かるかしら」
布施が援護に続く。いくらか無理のある断りにも思えるが、平然を装っているだけで内心はかなり焦っているのだ。こうなるのも仕方ない。
「えー、でも、私、実は二人を最初に見かけた時から、ずっと気になってたんですよー。まだコピーバンドだったころから、見に来てくれてましたよね?」
音葉のその言葉に、進藤の頭は真っ白になった。感じたのは、危機だ。
見ると、布施も似たような状況に陥っているようだった。
だが、
「ライブには、よく行くんだよ。BBBのだけじゃなくてね。だから、それは偶々としか言えないな」
それはいくらか残酷な嘘だった。本当は、BBB以外のバンドに興味など無い。むしろ、音葉以外には関心が無い、と言っても過言では無い。
「だから、俺らにBBBの皆とお近付きになる資格は無いんだ。ごめんね」
布施の手を引き、慌てて店から出る。これから少しの間、BBBのライブに行くのは控えたほうがいいな、と算段を付けながら、進藤は早足にそこから離れた。
そしてある程度の距離を取ってから後ろを見ると、布施が青ざめていた。
「……音葉が……私達を……」
喜ぶように、では無い。布施は怯えるように、さっきの音葉の言葉を反芻していた。
「鶴技」
「そんな……でも、まさか……」
呼び掛けにも気付かないほど、彼女は震えていた。
「鶴技!」
「ひっ!」
仕方なく怒声をあげると、布施が浮き足立って、我に返る。
少し、やり過ぎたかな、と自省しつつ、進藤は溜息を吐いた。
「大丈夫だよ」
そう言う事しか出来なかったのは、事実、進藤も取り乱しているからだ。
だが、こんなことは有り得ない。有り得てはいけない。
「さっきの様子は見ただろう? 大丈夫。――音葉は、気付いてないから」
気休めでも、慰めでも無い。
これは、祈りだった。
願うだけなら許される。でも、祈りは駄目だったはずなのに。
これは確かに、祈りだった。
「少しの間、BBBのライブには行かないほうが良いと思うけど。……我慢できる?」
可能な限り優しく問うと、数秒の沈黙後、布施は俯いたまま、頷いた。
二人は、BBBのファンだ。もはや信者と言っても過言では無い。
二人が生きる意味であり、戦い続ける意味だった。
それでも、
「……解かった」
そう答える以外に、道は無い。当然だ。二人は、音葉と、ライブ会場以外でも出会っている。話しているし、遊んでいる。中学の時の事だ。
しかし、今はもう、他人以外の何者でも無い。何故なら、音葉は二人の事を覚えていないから。
二人がどんなに音葉を想っていても、音葉の記憶は、音葉が有していた二人の記憶は、進藤が上書きしてしまっているから。