呪受者Ⅱ
「早かったね」
男は言った。服装は、黒を貴重にした背広だ。喪服のようにも見える。だが、まだ幼さの残る顔つきから、未成年である事が伺えた。事実、彼はまだ高校生で、その年齢に見合った外観が、服装との違和感を作り出している。
「ええ、貴方が私の怒りを焚き付けてくれたから」
そう答えたのは、ほんの数分前までビルの屋上に居た女だ。
彼女もまた喪服のような服装をしていたが、男を違い、中途半端だった。服そのものは喪服なのだが、最も半端に思えるのは足元、つまり靴だった。
彼女は運動靴を履いていた。
他にも、喪服という点を除けば動きやすそうな格好だ。
そしてさらに、その手にはナイフが握られていた。柄が異様に長いナイフだ。
「下準備としては上々だろう?」
男は肩をすくませながら言う。彼女を怒らせればこうなる、というのが解かっていたかのような反応だ。
「そうね。ただ。上々過ぎるわ。私が暴走しないように、気を付けてね」
「ああ、肝に銘じるよ」
そして苦笑する男の対応は、若干冷めた様子があった。だが、復讐者と呼ばれた女がそれを気にする様子も無い。
二人は深夜の廃れたビル群の路地裏に入っていった。先導しているのは男のほうで、今向かっているのはさっき話していた目標のアジトだろう。
ヤクザの本拠地に乗り込もうとしている割には、二人の足取りは軽かった。
もはや慣れた、と、その大きな歩幅が語っている。
「それで、目標の状況は?」
女が聞いた。
「本拠地に常駐しているのは十人程度らしい。昼は人員が増える変わりに外回りしてるやつらも居るからね。基本的には十人以上居る事は無い。つまり、奇襲をかけるには絶好のチャンスだってことなんだけど、実は常にチャンスでした、という見方も出来てしまうのが少し残念だ」
その男の返答には若干のユーモアが込められていたが、女には通じなかったらしい。女は表情ひとつ変えず、
「そうね、残念だわ」
そう答えた。
だが、男は知っている。この相槌が、実は相槌なんかじゃないことを。
ほの暗い路地裏は、狭かった道を終えて僅かに広くなった。二人並んで歩いても左右に余裕が生じ、二人は改めて距離を取る。
この女が残念だと言ったのは、情報が無意味だったことに対してでは無い。
敵がたったの十人しか居ない事が残念たと言ったのだ。
それは、彼女が復讐者たる所以だった。
彼女は仕事仲間から『復讐者』と呼ばれている。彼女の性格から来たふたつ名なんかでは無い。彼女は正真正銘の復讐者なのだ。
ふと、路地裏が終わりを迎えた。最奥へと辿り着いたのだ。そこには、スーツを着た一人の青年が立っていた。青年、と言っても、そこに青の要素など微塵も無い。見た目の年齢上そう言うしか無いのがいたたまれなくなるくらいに、青年は黒い雰囲気を纏っていた。
青年は眠たそうに欠伸をしているが、その立ち姿はまるでSPのようだった。筋骨隆々で、いかにも、ここから先には誰も通さない、という役目を任されるには適任。つまり、そこが目的地だった。
あの青年の後ろにある扉が、アジトへの入り口だろう。アジトと言われたら大げさな設備を考えてしまうかもしれないが、所詮常駐しているのは十人程度のアジトだ。そこまで大した設備は無いのだろうし、だからこそ、見張りなんかを付けているとも言える。
「行ける?」
男が聞いた。
復讐者たる女は静かに頷く。
「なら、ゴーだ。無茶はしないでよ」
「尽力はする」
言外に無茶をする、と告げて、女は走り出した。
それは、普通の速度では無かった。
おそらく常人の二倍程だろう。多少とはいえ有ったはずの青年との距離は瞬く間に無くなり、青年が女の接近に気付いてなんとか何かを言いかけるが、間に合わなかった。ナイフの柄で殴られ、青年は即座に意識を失う。
それを確認してから、後ろで待機していた男が走り寄った。安全になってから近づく、という辺り、姑息さを感じざるを得ないかもしれない。しかし、これが彼と彼女に与えられた役割分担。どちらも了承している事だし、当然のように納得もしている。
「キーロックじゃなくて、暗証番号みたい。よろしく」
扉に触れていた女はそう言って、一歩下がった。
変わりに今度は男が、嵌めていた手袋を外し、その暗礁番号の機械に両手で触れる。そして、十秒程度の沈黙。
「早くして」
女は足を大きく上下に揺らしながら、男を威圧する。下手をすればその威圧感のせいで、作業の手が止まってしまいそうな程だ。しかし、男は作業と呼べるような事は一切していなかった。ただ、機械に両手で触れているだけだ。
にも拘らず、
「開いたよ」
男は言った。
さらにその通り、扉はきいい、と重たい音を立てて、ゆっくりと開いた。
「遅い」
「そう言うなって。お前が早すぎるんだ」
女は、開くと同時に中に踏み込んでいた。しかし男は焦るどころかむしろ悠長に、今度は気絶している青年の頭に両手を添える。
「……そうだな。じゃあ、転んで頭をぶつけた、という事にしようか」
呟き、数秒。男はその手を青年の頭から離した。
「少し、急ぐか……」
必要な作業を終え立ち上がると、既に女の姿は見えなくなっていた。ビルの中に消えてしまった、という言い方は正しく無い。扉からすぐの所に、下りの階段があったからだ。むしろ、それしか無かった。ただ、階段があるだけの場所。一方通行だ。
だから、迷う余地など無い。故に男は走った。
先に行った女と比べ、ロスした時間は僅か数秒。しかし、それが命取りになる事もある。
階段の下から、怒声が聞こえた。少なくともさっきまで一緒に居た女のもでは無い。野太い野郎の声だった。
「……無茶はするなって言ったのに……」
見ると、階段の途中で二人の男が倒れている。どちらも出血は見当たらない。柄で殴っただけなのだろう。おそらく、どちらも一発で。その手にはナイフや拳銃が握られていて、明らかに堅気では無い。おそらくヤクザの一員だ。
「炊きつけ過ぎた、かな」
男は反省しつつ、気絶しているヤクザの片割れに両手を伸ばした。
その時、さらに奥、つまり階段の下のほうから、いくつかの銃声が聞こえた。
一瞬、動きを止める男。
これはまずいか、と、本能が告げている。だから、目の前で気絶している二人のヤクザを放置して、走った。
その先で見たものは――地獄絵図に近いものだった。
階段の下はすぐに事務室になっていた。だが、そこはもはや事務室なんかでは無い。数人のヤクザと思わしき人間が倒れていて、出血もしている。
銃を持っていたのであろう者は手首を切られ、呻いている。どれも息はしているから、まだ、一人も殺していないようだ。
――そこで立っているのは、女だけだった。喪服を着た、若い女。まだ高校生でありながら、ナイフ一本で、十人のヤクザを、僅か数秒で全滅させた女。
この展開は、仲間である男にとっても予想外だった。いくらなんでも早すぎる。
「待て。ちょっと待て」
まだ意識があるヤクザに留めを刺そうとしたのだろう、ナイフを掲げたその女を、なんとか止めた。
「どうしたんだ。一旦落ち着け」
とはいえ彼女が冷静さを欠くのは、仕方の無い事ではあった。なぜなら彼女は今、正気では無くなっているから。
女は無言のまま、事務室の隅を指差した。そこに在ったのは、血を被ってしまってもう使いものにならなそうな、札束の山。おそらく、闇金経由で徴収したものだろう。
違法の金は、マネーロンダリング(金洗浄。法律上使えない金を使えるようにする事)しなければ、銀行に預ける事も出来ない。それで無ければ、こんな大金を現金で保管しているなんて考え難い。つまり、違法の金。どうやって誰から搾取したかは、相手がヤクザだ、というだけで、想像に難く無い。
「こんなお金を、こいつらは、普通の人達から奪ってるのよ。そんなやつらが幸福になるなんて間違えてる」
女は言った。怒りに満ちた口調で。怒りに操られるようにして。
男は嘆息した。
そうだ。そんなのは間違えてる。
しかし、それよりも優先して、間違えてはいけないものが二人にはある。
すなわち、自分達は、正義の味方なんかでは無い事を。
だからこそ、男は冷静に、今留めを刺されそうになって、怯えている中年を見た。
女が先走らないよう、なんとか押さえ込みながら、
「なあ、あんた」
声をかけると、ビクッと、そいつは浮き足立つ。相当恐ろしい光景を見たのだろう。当然だ。なぜなら、今男がなんとかなだめているこの女は、普通じゃないから。
「今ここに居る人間の中で、一番偉いのはどいつ?」
聞くと、そいつはすぐに、一番奥、大金の山の近くで気絶しているやつを指差した。
「そうか。教えてくれてありがとう」
言って、男は女を解放した。
そして、
「間違えても、殺すなよ」
「……尽力はする」
「ひっ、ひい!」
女の一撃は、容赦無い一撃。だが、事実容赦はされたのだろう。ナイフの柄による全力の一撃。酷い殴打音と共に、そいつは床に倒れた。
入れ替わるようにして、静寂が空間を包む。
「さて」
数秒の余韻の後に、言葉を発したのは男のほうだった。
「まずは、お前からだな」
女と向き合う。
「うん、お願い」
呼吸を荒くし、今にも叫びだしそうな面持ちで、女は言った。
その言葉に返事はせず、男は両手で、女のこめかみに触れる。
再び、数秒の沈黙。
「ふう、落ち着いた、みたい。ありがとう」
女は言った。その様子から、本当に、抱いていたであろう怒りが収まっている事が伺える。
「どういたしまして。お前が暴走を始めた時は少し焦ったけどね」
嫌味を込めた言葉をぶつけて、男はその部屋にある唯一のパソコンに目を付けた。
「私は焦ってなかったわ。貴方がなんとかしてくれると信じてたから」
当然のように言う女。その唇は、僅かに釣り上がっている。そう、笑っている。さっきまで怒りに身を任せ、たった数十秒で十人の男を気絶させたとは思えない程、無邪気に。
「そりゃ、なんとかはするけどさ」
呆れた口調で答えながら、男はパソコンに触れた。操作するのではなく、両手で触れたのだ。
「……ありがたいわね、本当に。貴方のその力」
女の言葉に他意は見当たらない。しかし男は「やめてくれ」と一言、投げやりに返した。
パソコンが、点滅するように高速で、画面を切り替えていく。
しつこいようだが、男はパソコンを操作していない。ただ両手で触れているだけだ。にも拘らず、画面は動く。上書きされていく。そして、ひとつの画面で止まった。そこは、依頼者の家族の情報を記したページである。
「よし、あとは、この情報を適当な物で上書きして……完了っと」
男はパソコンの電源を落とした。そして、気絶しているヤクザの連中を見下し、
「これであとは、こいつらの記憶を、そこで伸びてるお偉いさんがいきなり暴れだして現状を生み出しました、って記憶に上書きすれば依頼は事後処理も含めて完遂だけど……、気分は悪くない?」
首を鳴らして女のほうを見ると、女は苦笑した。
「まあ、貴方が私の感情を上書きしてくれたからね。私は平気よ」
「そうかい。それはよかった」
男は適当に答えて、ヤクザ連中の記憶を上書きする作業に入った。
上書き。
それは、この男に与えられた力。
男の名前は進藤隼人という。しかし、仕事仲間からは『超越』と呼ばれている。それは彼の力所以の名で、彼は、情報を上書きする力を持っている。両手で触れただけで、人の記憶や感情、電子機器などのデータ、など、あらゆる情報を上書きする力を。
対する女のほうは、本名は布施鶴技という。仕事仲間からは『復讐者』と呼ばれている。彼女の力は、復讐者の名の通り、怒りによって身体能力が上がる、というものだ。十人の男、それも、人を傷付けることに慣れている連中を相手に、一人で瞬殺してしまうほど強くもなれる。
だが、彼も、彼女も、これを超能力とは呼ばない。むしろ、こういった力の存在を知っている者は、その力の事を、呪いだ、と言う。何故なら、この力には必ずデメリットがあるから。
そのデメリットは、場合によっては取り返しのつかない事にも繋がる。
例えば、布施の力。
布施の身体能力向上には、怒りという引き金を要する。そして、高い身体能力を得る代償として、その怒りに身体の所有権を奪われる。つまり、怒りに身を任せ、その根源を叩こうとする、まさしく、復讐者となるのだ。
さらに性質が悪いのは、この力を自らの意思で発動し、抑える事が出来ない事にある。復讐したいと思うほどの怒りを感じれば必ず発動してしまい、その怒りが収まるまで消えない。そこに布施の自我などは関係無い。
だから、呪い。
力には必ず、そういった副作用が存在する。それは、情報の上書きをする進藤とて例外では無い。
進藤の上書きは、両手で触れた物や者の記憶、情報を、自分がイメージしている何かで上書きするものだ。そしてそれは、両手で何かに触れれば、必ず発動してしまう。自分の意思などは関係無い。とにかく闇雲に、触れたもの全てに、自分の思考をトレースしてしまうのだ。
故に普段から、彼は手袋を嵌めている。そうやって制御できるのだから、彼の呪いはまだ大分マシだろう。
呪いにはまだ、複数のデメリットが存在する。しかも、これは呪いなのだから当然、生まれつきのものでは無い。
――誰かに呪われて得た力を、呪い以外の言葉で表現出来るはずも無い。
きっかけがあるのだ。必ず、呪われたきっかけが。
誰かに呪われるような経験を、まさか自分で誇れるは道理も無く、呪いを受けた者は必ず、自分の人生も呪う。そうなれば後は、呪いの呑まれてしまうだけだ。
そうならないように、彼らは集まった。寄り添って、呪いの呑まれないように、時に協力しあっている。
呪いを受けた者達は、そんな自分の運命を悲観し、自らを、自ら達を、こう呼ぶ。
――呪受者。
と。