呪受者Ⅰ
慣れない書き方をしているため、他作品と雰囲気が違うのもそうですが、ちーとばかし文章に自信無し。お手柔らかにお願いします。
彼女は立ち尽くしていた。
星の見えない夜、高いビルの屋上で一人、下弦の月に手を伸ばしている。その様は、見えない何かを掴もうとしているかのようだった。
月を掴みたい、などという高望みをしているようには見えない。その目は希望などは見ていない。そう断言出来てしまう程度には、絶望を知っている目をしていた。ようは、輝きの無い瞳だ、という事だ。事実、彼女は世界に絶望している人間の一人だ。
長い黒髪が風に揺れる。その小さな耳にはイヤホンが差し込まれていて、コードは胸の内ポケットに伸びている。
接続されているのはMDプレイヤーという過去の遺物。最新機器を用いれば必要性が皆無の代物。彼女の年齢は高校生ぐらいで間違い無いだろうが、その年を考えると、そんなものを持っている、という事に疑問が生じる。
むしろ、その手にはアイフォンが握られているのだ。MDプレイヤーの必要性を奪う最新機器は、既にその手に握られていた。
彼女は下を見た。
都会の深夜。車の数はそこまで多くない。しかし、街頭の明かりが蛇のように不規則な道を示していて、ときおり暴走車であろう、明らかにスピード違反の光も伺える。雑多では無いが粗雑な景色だった。
「慌しいわね」
最近この辺りで勃発している暴走族の一員か何かが、単独行動でもしているのだろうか、と、彼女は考える。冷静に分析するのではなく、ただ、空虚だった思考になんらかのアクションを起こしたかったのだ。
イヤホンから聞こえてくる音楽は、プロのそれとは程遠い、雑なものだった。
音量も不安定で、ベース音が大きすぎてボーカルの声が聞こえなくなったりもする。それでも、不快感は無かった。ただ彼女はそのボーカルたる少女の声を、その少女の魂の叫びを、優しい悲鳴を、聴いていたかった。
歌に乗せて、そのボーカルは言った。
『視界を覆う月夜の暗さが、この感情も呑み込んでくれたらいいのに。
悲しまなくて済むなら、いくらでも望むよ。
そうやってぼくは、貴方を見失った』
一体少女は、誰を失って、こんな歌詞を書いたのだろうか。その疑問が浮かんでくると、私だったらいいのにな、という願望も混じってきた。
彼女はその有り得ない欲望を振り払うため、首を振る。
それは、有り得ない。有り得てはいけない。何度も言い聞かせて、闇夜を睨む。
この闇夜が、全てを呑み込んでくれたらいいのに。
歌詞も一部を思い出し、その通りだ、と、彼女は頷いた。見上げた闇が何もかも飲み込んでくれた、どんなに報われるだろうか、と。
だ、それが出来ないのが現実だという事も、彼女は知っている。
屋上で一人立ち尽くす彼女にとって、そのインディーズバンドのボーカルを勤める少女は光そのものだ。
そして彼女は、その光を絶やさぬように、色々なものを犠牲にしてきた。
それでも足りないというのなら、全てを投げ出す覚悟も出来ている。
少女は光だ。
ならば自分は闇だ。
彼女は故に、願う。
――この声を聴くために自分は今ここに居て、この声を守るために、自分は戦っているのだ。ならば、今はまだ、死ぬわけにはいかない。
――どうか、戦い続ける強さを。
不意に、手も持っていたアイフォンが鳴った。
初期設定のままにされた、無愛想な着信。華の高校生という言葉を根本から否定しかねないものではあるが、彼女はそもそも、普通の高校生では無い。
「首尾はどう?」
イヤホンを片方だけ外し、彼女は尋ねた。
電話の相手は若い男だ。
『上々、かな。データの解析と上書きも終わって、サーチも完了した。目標のアジトは割れた。行こう』
その男は簡潔に言った。目標、というのは、彼女と電話先の男が追っているヤクザの事。アジト、というのは、当然目標の本拠地の事だ。
「早いのね」
もう少し、この音を聴いていたかった。別れを惜しむように、もう片方の耳からもイヤホンを外す。
『なんならゆっくり来てもいいけど? その分、依頼者が怖い想いを長引かせる事になるだろうけど』
彼女達は今、個人的な理由でヤクザを追っているわけでは無い。仕事なのだ。
今回の仕事は、借金の肩代わりで闇金融に携わってしまい、家族共々悲惨な毎日を送っている、という人から来たものだ。
そもそもその借金事態が不正なものだったというのに、警察の上部とも繋がりがある連中だからか、それがまかり通っているのをなんとかしてくれ、という依頼。
『話によっては、中学生の娘さんが身売りに出されそうな勢いなんだって。それはお前も聞いてただろ、復讐者』
「そうね、聞いてたわ」
『取立てに来た時に母親か娘が見つかったら、よからぬ乱暴もされるらしいってのも、ちゃんと覚えてる?』
「……ええ、忘れようとはしていたけれど」
そう。これは、普通の仕事では無い。
だが、間違えてはいけない。
これは、正義の仕事でも無い事を。
『なら、今、ちゃんと思い出して』
「ええ、ちゃんと、思い出した。腸が煮えくり返りそうな程度には」
そして電話の相手から復讐者と呼ばれた彼女は、ふらふらと、ビルの端へ近づく。
「すぐに向かうわ」
地上への高さは、目算が難しい程ある。
しかし、復讐者は飛び降りた。
先ほどまで手を伸ばしていた月から遠ざかるように、下へ、下へ。ただ、落ちていく。