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08

 靴の中に泥水が染み、一歩ごとに足に絡みついた。泥濘みに刻まれた足跡は途切れなく続き、無人の屋台の間を抜け、粗末な橋を渡り、やがて町の広場へとリュカを誘った。古い石造りの建物に取り囲まれたその場所へ辿りついたリュカは、息を切らしながら口を開いた。

「おじさん」

 無人の広場の中央で男は立ち止まり、振り向いた。濡れ髪から滴る雫が、年月に荒らされた貌を伝う。古傷を歪めて彼は笑った。「一人で来たのか、坊主」

「……あのひと、今、調子が悪いから」

「そうか。そうだろうな」男は答えた。

 リュカは恐る恐る、殆ど囁くように言った。

「短剣を返して」

 男は首を横に振った。

「どうして」とリュカは訊ねた。「お貨が、必要なの」

 男は苦笑した。

「違うな、そんなものにどれだけの意味がある? だが、たとえそうだとしても、そんなものは簡単に手に入る。古い王は死んだが、諸侯は未だに抵抗を続けているからな。どこもかしこも戦だらけだ」

 リュカは、王が代われば内乱がある、という戦士の言葉を思い出した。二人の旅は戦場を避けてきたが、今もどこかでは争いが起こっているのだろうか。

「やつは言わなかっただろう、坊主」男は穏やかに言った。その声音には哀れみが含まれていた。「お前の故郷も乱に巻き込まれ、包囲の末に二日前、陥落した」

「え」

 咄嗟に思い出したのは草原と森の豊かな土地、赤い屋根の家々が立ち並ぶ小さな村の光景だった。男の言葉を想像に重ねることはできなかった。血みどろの戦場は鮮やかな悪夢でありながら、同時に、ひどく遠い場所のように思えてもいた。あの場所から逃れ、故郷に辿り着きさえすれば、また日常に戻れるのだと、信じて疑わなかった。父はもういないけれど……

「嘘。だって、あそこには」

 城には、母と、留守を託された叔父がいた。守備のために残った白銀鎧の騎士たちは、出陣の一行を讃えて無事を祈りこそすれ、彼ら自身へ迫る危機などないといった様子だった。

「おじさん、は……嘘、ばかり」

「嘘か」男は苦笑した。熱のない笑みだった。「何故、嘘だと思う?」

「短剣を、返して」

 リュカは問いを無視して言った。それは大人の狡さの模倣だった。

 男は愉快そうに口元を吊り上げたが、目元は相変わらず冷めたままだった。

 返して、とリュカは繰り返した。

 男は右手を上げた。握られていたのは銀の短剣だった。精巧な細工の窪みを雨が滴り、鞘を払われた刃は鋭利に艶めいている。リュカは息を呑み、それを見上げた。

「昨日から、俺は不思議に思っていた。あいつは、お前をどこに連れ帰るつもりなのかと」男は手の中で短剣を玩びながら言った。「一族は城壁から吊られ、村は焼かれて廃墟と化した。嘘だと思うか、坊主」

 だが、と男は笑った。元々が掠め取った土地だ。応報というやつかも知れないな。御伽噺の終わりを覚えているか、坊主。あの男は、言葉を返せぬ王の前を辞し、そしてそのまま姿を消した。与えられた称号も、貨も、そして領土もそのまま残された。

「救国の英雄が放棄した財はあまりにも莫大だった。あの男の親族や友人が所有権を争い、最終的に管理者の座に収まったのは、あの男が嘗て親友と呼んだ騎士だった」男は短剣を、刃を上に胸元に掲げた。騎士が何かを誓う際に長剣で行う作法だということを、リュカも知っていた。

「我が友が戻る日まで、何者も彼の栄誉を穢させはしない」

 男は静かな声で言った。リュカは一瞬、それが御伽噺の時代に生きた騎士の言葉をなぞったものであるとわからなかった。囁くような、冷淡なまでに無感情なその声は、リュカのよく知る他の人物を連想させた。

 男は手の中で短剣を回し、それを見下ろして薄く笑った。

「騎士の誓いは破られた。大して代を重ねる前に勇者の末裔を名乗り、臆面もなく遺産を食い潰し始めた。あの男が王に賜った剣とおなじものが打たれ、血筋の証として伝えられた」男は呼びかけた。「なあ、リュカ。その先に、お前がいるんだ」

「……」

 リュカは辛うじて首を横に振った。雨具の頭巾の縁から水滴が滴った。厚い布には既に水が染み始めている。

 男の話が事実だとしたら、リュカが信じていたことも、父が信じた栄光も、総ては嘘だということになる。信じてはいけないと、頭の後ろで無意識が囁く。だがリュカは知ってしまっていた。

 屋敷にかけられた肖像画、父の形見の古い剣。

 物語を語る物憂げな横顔、リュカを守って血に濡れた鋭い鋼。

 奇跡のように戦場からリュカを救い上げたその手は――雨の中、くずおれた、あのひとは。

「……返して、ください」リュカは男に向けて手を伸ばした。近づくために踏み出すと、泥濘と化した地面に足をとられそうになった。男は無言でリュカを眺めた。

「お話は、後で聞くから。先にそれを返してください。あのひとが……」死んじゃう、と言いかけて、リュカは突然ひどい恐怖に襲われた。視界を遮った血飛沫が脳裏に蘇り、リュカは言葉を失った。

 骸に囲まれて泣き続けるしかできなかった。迫り来る夜が恐ろしくてならなかった。

 嫌だ。あんなのは嫌だ。父は死に、故郷も滅んだのだというならば。

 あのひと、だけは。せめてあの優しい手だけは奪わないで。

 何もなくなってしまうから。

「…………か……」

 リュカは堪え切れず絶叫した。

「かえして!」

 リュカは男に突進し、短剣に向けて手を伸ばした。子供の足で、泥に邪魔をされながら、それは拙い速度だった。

 男は身を翻してリュカを避けた。リュカは勢いで転びそうになりながらも、男の脚に掴みかかった。男はリュカが倒れるものと思っていたのか、意外そうな顔をした。

「坊主」彼は言った。「離した方がいいぞ」

「嫌」リュカは手を離さないまま首を横に振ったが、不意に強い眩暈を覚えて泥に倒れた。

 解放された男はリュカの腕の間から足を抜いた。

 リュカは「かえして」と呻いた。

 ただ一呼吸の間だというのに、精気が霧散してしまったかのように体が重くなっていた。平衡感覚が失われ、立ち上がれない。どうして、と考えようにも、頭がぼうっとして考えがまとまらない。手が空しく泥を掴んだ。雨具を染みた泥が体の熱を奪う。その感覚はリュカに絶望感すら覚えさせた。

 男はリュカから視線を外した。どこか離れた場所から、水が跳ねる音が聞こえた。

「来たな」男は無造作に短剣を翳した。白刃が軌跡を描き、甲高い金属音が雨を貫いた。剣の一撃を短剣で受け、数歩、後退りながらも男は笑った。「いきなりだな。坊主が怖がるぞ」

「子供を相手に何をしていた」

 戦士は刃を引かずに言った。リュカは瞠目してその姿を見上げた。

 男を見据える藍方石の眸は霞がかり、剣を握る手は小刻みに震えているように見えたが、彼はリュカを庇って立っていた。

「……勇者、様」

 リュカは思わず呟いた。

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