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09

「久しぶりだな」男は刃を噛み合わせたまま言った。「顔を合わせるのは随分振りだ。元気にしていたか?」

「悪いけど、記憶にない」戦士は剣を翻し、短剣を刃に搦めて弾こうとした。男は躱し、飛び退った。

 そうか、と淡白な答えが雨間に落ちる。

 戦士は剣の切先を男に向けた。蒼褪めた端正な横顔には一片の感情も含まれていないように見えた。

 リュカは小さく吐息した。何故、男が戦士の剣を受け止めることができたのかわからなかった。リュカの庇護者は明らかに不調だったが、彼が初めに放った一撃は、まるで閃光のように鋭かったというのに。

「俺は常にお前の近くにいた」男は苦笑した。

「見覚えはないな」戦士は切り捨てるように応えた。

 男は短剣を持つのと逆の手で、煙草の灯火を口元に運んだ。

「お前、あれからまた随分と殺したものだな? 昔はかわいそうな化物どもを、その後は、数えきれない人間どもを。俺は嘗ても言ったよな、お前は殺し過ぎだと。不死の身で、お前一人で、それは不公平というものじゃあないかと」

 戦士は顔を上げた。濡れ髪から雫が滴った。彼は小さく呟いた。

「……鴉羽」

 リュカはその名を知っていた。御伽噺の勇者が退けた最後の化物。最も災なる鴉羽の異形。

 おじさん、と呟いたつもりだが、声は出なかった。男は視界の端にリュカを捉えて苦笑した。しかし言葉は戦士に向けたものだった。

「ああ、そうだ。まったく久しいな、人の暦でどれだけになる? 国から化物は失せ、戦は人間同士のものになった。化物狩りの勇者なんかとっくに用済みのこの時代で、お前は何をしてるんだ?」

 戦士はわずかに切先を上げた。押し殺し損ねた荒い吐息が一度だけ雨間に落ちた。

 教えてくれよ、と男は言った。紫煙と共に紡がれる言葉が麻痺毒を含んでいることをリュカは知っていた。だが、その毒の正体が虚構の甘さであるのか、或いはその逆であるのかは判断がつかなかった。

 リュカは立ち上がろうともがいたが、手足はほとんど動かなかった。思わず吐息すると、喘息のような音がした。雨着を染みた水は、もうあまり冷たいと感じない。代わりに頭の奥が痺れたようにぼうっとする。

 戦士が首を横に振った。「きみを楽しませるような話は何もない。この子に何をした?」

「何も。坊主はただ触れただけだ」男は手の中で短剣を回した。「その意味はお前が一番よく知っているはずだろう、無数の命を俺に引き渡したのはお前なんだから」

 リュカは男の言葉を理解できなかった。眠気に目蓋が落ちかけたが、眠ってはいけないと思った。握り締めようとした指がわずかに泥を掻いた。

 戦士は無言で撃ちかかった。剣閃は銀の軌跡を描いて男の喉元へ吸い込まれた。

 男は今度は避けなかった。鈍く湿った音と共に切先が肉に埋まった。

 血は溢れず、男は倒れなかった。彼は短くなった煙草を泥濘みに落とし、自らを貫く剣の刀身に手をかけて嗤った。

 「無駄だ。お前はそうやって何人も殺してきたんだろうけどな」

「……」

「俺が何だか、わかってるんだろ? 鴉羽なんてのは的を外した異名に過ぎない。お前だけは俺の名を知っているはずだ」

 男はもう片手を挙げ、銀の短剣で長剣の刃を叩いてみせた。「思い出せよ、兄弟」彼は言った。「お前がお役御免になった日のことだ。国境沿いの深い森で、お前は最後の化物と戦った。最後の戦いは普段通りの味気ない勝利で終わるはずだったが、敵は恐ろしく強く、お前は重症を負った。不死身の勇者、しかし生きたまま喰われでもすれば、無事では済まないはずだった。実際にどうなるのかは、わからんが」

 だが、そうはならなかった。俺が助けてやったからだ。と、男は言った。口元の笑みは白々しい作り物だった。

「お前は殺し過ぎたんだ。無数の死を振り撒きながら、自身はその運命から外れるなんてひどい矛盾だ。そんなものは許されない。そんなものが存在するならが、死の化身以外の何でもない――だから俺が現れた。そして手始めにお前の敵を殺してやった。お前の代わりに。ここまで言えば思い出すだろ? あの日のことも、俺の名も」

「……きみの名は」

 戦士は吐息した。その手は関節が白くなるほど強く剣の柄を握っていた。

 彼は藍方石の眸を細め、失われかけた焦点を合わせようとした。

「死、だ。カッサンドラが短剣で切り分けた……」

「そう、お前の半身だ」男は満足げに応じた。「嘗ては鴉の姿でお前を救い、そして今は人の姿でここにいる。坊主は自分から死に触れたんだ。お前のために」

 男は視線だけでリュカを見下ろした。リュカはその声をほとんど意味のある言葉として認識できなかったが、最後に自分のことを言われたことだけは朧げにわかった。

 戦士は低い声で恫喝した。「この子からは手を引いて」

 男は首を横に振った。「裏切り者の子孫じゃないか。お前の功績を総て横取りして、英雄の末裔として貴族面してきた盗人の子供を助けるのか」

「この子の父親は勇敢に戦った。だから、この子は英雄の子だ」

 男は哀れむように笑った。「子供に甘いってのは本当だったんだな。じゃあ、坊主はお前に返してやろうか」

 だから、代わりに寄越せよ。と、男は囁いた。

 皮肉げな光を湛えた双眸は余りにも陰惨だった。

「坊主にくれてやるつもりだったんだろ? だったら、俺に寄越せ」

 リュカははっとして顔を上げようとした。実際にはわずかに頬が泥から持ち上がっただけだったが。寄越せ、という一言は、朦朧とした意識に突き刺さった。彼の言葉が指すものは一つしかない。美しい銀の刃、柄頭の紅玉。

「何に、使うつもり?」

 戦士は問い返した。声は擦れて喘鳴に似て、殆ど音にならなかった。

「単純な好奇心さ」男は含み笑った。「一体どんな情念が、あれほど多くの命を奪ってのけたんだ? 一体どんな信念が、呪いに縛られているとはいえ、死の手中に魂を握られながらも剣を手放さないんだ? 神話の時代から現世まで無数の人間の内に灯り、時には何もかも焼き尽くす、尊い炎の正体を、俺は知りたい。それだけだ」

 男は自らの喉を貫く刃に手をかけ、引き抜いた。戦士は震える手では力を拮抗させることができなかった。

 男は一瞬で剣を奪って持ち替え、翻した。斜めに切り上げられた刃は、体勢を立て直せずにいた戦士の胴を裂いた。背後でリュカが倒れているために彼は退けなかった。

 戦士は膝をついた。飛沫いた血が泥濘に落ち、雨と混ざって色褪せた。

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