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何処へ

作者: 王手

何故(なぜ)私が公園に居るのかといえば、はたして明快な答えを導く事は出来ないだろう。


空は(あい)よりも深い暗い色をしている。


星はない。


空気が今の私の心の様に薄汚れ、(にご)っている。


そんな、時代に(まみ)れた天井をいつまでも見ている理由はない。


私は思考せず、気の向くままに歩を進めた。


私はふと、ベンチに腰掛ける一人の女を見つけた。服装に特徴はなく、目を引く物は黒く長い髪だけであった。


近付いて顔を見ると、女は私を大いに驚かせた。


まるで私の妻と瓜二つではないか。


輪郭、目、鼻、口、耳。ましてやほくろの位置や眉の太さまで同じなのだ。


しかし、その女は私の妻ではない、と断言できる。


女は妻にはっきりと区別する特徴すら見当たらないほど似ているのだが、それでも、私の妻ではない。


何かこの女を取り巻くものと私の妻を取り巻くものに決定的な違いがあったのだ。


抽象的で、あやふやで。


外見的な特徴でも内心的な特徴でもない。


―――雰囲気。


そう、雰囲気こそが目の前に居る女と妻を分ける決定的な仕切りであった。


「こんばんは。」と、私は話し掛けた。


女は私を見、「こんばんは。」と軽く会釈(えしゃく)をして返してきた。


それを聞いて私はホッと胸を撫で下ろした。


やはり、妻ではない。


別人のようだ。


私の中の一抹の不安は一瞬で消え去った。


そして私は、唯一気掛かりになっていることを尋ねてみた。


不躾(ぶしつけ)な質問ですが、あなたに兄弟はいらっしゃいますか。」


女は「いいえ。いません。」と、間髪入れずに答えた。


女の声は小さく、まるで死に伏す直前の様であったが、はっきりしていて聞き取れない事はない。


「どうしてあなたは此処(ここ)にいるのですか。」


女は私に()いた。


「私にも分かりません。」


私はそう答えておいた。


何処から来て、何処に向かおうとしているのか、自分では分からないからだ。


思い出そうとしても、記憶全体にもやが掛かったような感覚に陥ってしまう。


それでも私に恐れは無かった。


明確な理由は持ち合わせていない。


この空間の何かがその意識を麻痺(まひ)させていたのかもしれない。


ただ気になる事は、そのもやがどんよりとした黒い色をしているという事である。


「貴女こそ、どうしてこんな時間に公園のベンチに座っているのでしょう。」


「私は、・・・・・・。」と、ここにきて初めて女の言葉が詰まった。


「私は、大変な事をして逃げてきました。」


「大変な事。」


これまで流暢(りゅうちょう)に話していたからか、私は女の含みのある言葉につい反応してしまった。


そして多少の後悔を即座に雲散霧消(うんさんむしょう)させ、静かに女の次の言葉を待った。


しばらくして女は口を開いた。


「人を殺しました。」


しかし、私はこの女の言葉に驚かなかった。


理由は分からない。


驚かない自分に対して驚愕(きょうがく)したほどだ。


意味を理解していないわけではない。


目の前にいる女が人を殺したという告白は極めて速く私の脳細胞に響き渡った。


しかし、驚かない。


驚けなかったとも言える。


私の前には恐るべき殺人鬼が居るのではなく、(むし)ろ親しい古くからの友人が存在しているようにさえ思えた。


「誰を殺したのですか。」


「大切な人です。」


「何故殺したのですか。」


「分かりません。」


女は淡々と私の質問に答えた。


私は彼女の言う事が理解できなかった。


何度考えてみても彼女の言う殺しの理由は、到底私には理解できないものであった。


殺した理由に何度も首を傾げた。それを察してか、女は言った。


「分からなくて良いのです。理解できなくて良いのです。」


私は女の顔を見た。何度見ても妻ではない。


しかし改めて見ると、人を殺した後とは思えないほど落ち着いている。


そして「そろそろ行きます。」と、女は言った。


「何処へ。」


「私が元来居なくてはならない場所です。」


私はきっと罪を償うのだろうと思った。


勝手な想像だが、死をもって己の犯した罪を償うのだろうと思った。


何故か、そう思いたかった。


「お別れです。さようなら。」


「さようなら。」


そう返すと女は頭を垂れ、そのまま静止した。


ベンチに寄り掛からない状態で、腰を曲げ、動かなくなった。


私は不審に思って肩を揺らそうとしたが、女の首筋を見て息を呑んだ。


首を絞められた痕が、そこにはあった。


私は「大丈夫ですか。」と言って、慌てて女を起き上がらせる。


そして女の顔を見た瞬間、私の記憶にかかっていた(かすみ)が晴れた。


そこで亡骸(なきがら)となっている女は、紛れもなく、私の妻であった。


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