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コイントス恋愛

作者: 明星院聖真
掲載日:2026/04/20

彼は、教室の隅にいるだけで空気を変える人だった。

 名前は知っている。でも、それ以上は誰も知らない。休み時間も騒がず、かといって孤立しているわけでもない。ただ静かに、そこにいる。そんな彼を、みんな少しだけ気にしていた。

 私も、その一人だった。

 好きになった理由なんて、正直よく分からない。ただ、気づいたら目で追っていて、話しかける勇気もないくせに、隣の席にならないかなんて考えていた。

 だから――放課後、人気のない階段で、私は彼に声をかけた。

「……あの、少しいい?」

 自分の声が、やけに遠く感じる。

 彼はゆっくりとこちらを見た。その視線は冷たいわけでも優しいわけでもなくて、ただ、まっすぐだった。

「いいよ」

 短い返事。

 それだけで、心臓が跳ねる。

「その……好き、です。付き合ってほしい」

 言った。ちゃんと言えた。逃げなかった。

 沈黙が落ちる。

 彼は少しだけ首をかしげて、ポケットから何かを取り出した。

 ――コインだった。

「……え?」

「決め方は、これでいい?」

 そう言って、彼はコインを指で弾いた。

 軽い音を立てて、コインが宙に舞う。

 意味が分からなかった。けど、止めることもできなかった。

 彼は落ちてきたコインを受け止めて、手の甲に伏せる。

 一拍。

 そして、静かにそれを見た。

「……ごめん」

 それだけだった。

 頭が真っ白になる。

 理由も、言葉もない。ただ「ごめん」。

 私の気持ちは、コイン一枚で終わった。

「……そっか」

 なんとかそれだけ絞り出して、私は笑ったつもりだった。

 うまく笑えていたかは分からない。

 彼は少しだけこちらを見てから、こう言った。

「このことは、秘密にして」

「……うん」

 頷くしかなかった。

 それで全部終わりだった。

 私はその場を離れて、廊下を歩いて、校門を出て――

 その途中で、やっと涙が出た。

 

 次の日。

 教室のざわめきの中で、私はいつも通りを装っていた。

 彼も、いつも通りだった。何事もなかったみたいに、席に座っている。

 ――あれは夢だったのかもしれない。

 そんなふうに思い込もうとしていたとき。

 教室の入り口で、小さな騒ぎが起きた。

 一人の女子が、彼に話しかけていた。

 あまり目立たない子だった。正直に言えば、容姿に恵まれているとは言えない。でも、真剣な顔をしていた。

 嫌でも分かる。

 ――告白だ。

 胸がざわつく。

 見ないふりをしようとした。でも、目が離せなかった。

 二人は教室の外に出ていく。

 少しして戻ってきたとき、周りの空気が変わっていた。

「え、マジで?」

「付き合うの?」

 そんな声が聞こえる。

 私は、息が止まりそうになった。

 その女子は、少し恥ずかしそうにしながら、でも確かに笑っていた。

 ――成功したんだ。

 頭が理解するより先に、足が勝手に動いていた。

 私は廊下に出て、人気のない場所まで歩いて、壁にもたれかかる。

 視界がぼやける。

 なんで。

 どうして。

 私のときは、コインで終わったのに。

 ――そのとき、足音がした。

 振り向くと、彼がいた。

「……見てた?」

 静かな声。

 私は何も言えなかった。

 彼はポケットから、またあのコインを取り出した。

「昨日と同じだよ」

 そう言って、指で弾く。

 コインが回る。

 落ちる。

 受け止める。

 そして、手の甲を開く。

「表だったから、OKした」

 淡々とした声。

 胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。

「……じゃあ、もし裏だったら?」

「断ってた」

 迷いのない答え。

 私は思わず笑ってしまった。

「なにそれ……」

 ひどい。

 本当にひどい。

 でも、彼は変わらない顔で言う。

「公平でしょ」

「……全然、優しくないよ」

「そうかもね」

 彼は少しだけ目を伏せた。

 そして、昨日と同じ言葉を口にする。

「このことは、秘密にして」

 私は、しばらく黙ってから――

「……うん」

 やっぱり、頷いてしまった。

 たぶん私は、まだ彼が好きなんだと思う。

 コイン一枚に負けたくせに、それでも。

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