コイントス恋愛
彼は、教室の隅にいるだけで空気を変える人だった。
名前は知っている。でも、それ以上は誰も知らない。休み時間も騒がず、かといって孤立しているわけでもない。ただ静かに、そこにいる。そんな彼を、みんな少しだけ気にしていた。
私も、その一人だった。
好きになった理由なんて、正直よく分からない。ただ、気づいたら目で追っていて、話しかける勇気もないくせに、隣の席にならないかなんて考えていた。
だから――放課後、人気のない階段で、私は彼に声をかけた。
「……あの、少しいい?」
自分の声が、やけに遠く感じる。
彼はゆっくりとこちらを見た。その視線は冷たいわけでも優しいわけでもなくて、ただ、まっすぐだった。
「いいよ」
短い返事。
それだけで、心臓が跳ねる。
「その……好き、です。付き合ってほしい」
言った。ちゃんと言えた。逃げなかった。
沈黙が落ちる。
彼は少しだけ首をかしげて、ポケットから何かを取り出した。
――コインだった。
「……え?」
「決め方は、これでいい?」
そう言って、彼はコインを指で弾いた。
軽い音を立てて、コインが宙に舞う。
意味が分からなかった。けど、止めることもできなかった。
彼は落ちてきたコインを受け止めて、手の甲に伏せる。
一拍。
そして、静かにそれを見た。
「……ごめん」
それだけだった。
頭が真っ白になる。
理由も、言葉もない。ただ「ごめん」。
私の気持ちは、コイン一枚で終わった。
「……そっか」
なんとかそれだけ絞り出して、私は笑ったつもりだった。
うまく笑えていたかは分からない。
彼は少しだけこちらを見てから、こう言った。
「このことは、秘密にして」
「……うん」
頷くしかなかった。
それで全部終わりだった。
私はその場を離れて、廊下を歩いて、校門を出て――
その途中で、やっと涙が出た。
次の日。
教室のざわめきの中で、私はいつも通りを装っていた。
彼も、いつも通りだった。何事もなかったみたいに、席に座っている。
――あれは夢だったのかもしれない。
そんなふうに思い込もうとしていたとき。
教室の入り口で、小さな騒ぎが起きた。
一人の女子が、彼に話しかけていた。
あまり目立たない子だった。正直に言えば、容姿に恵まれているとは言えない。でも、真剣な顔をしていた。
嫌でも分かる。
――告白だ。
胸がざわつく。
見ないふりをしようとした。でも、目が離せなかった。
二人は教室の外に出ていく。
少しして戻ってきたとき、周りの空気が変わっていた。
「え、マジで?」
「付き合うの?」
そんな声が聞こえる。
私は、息が止まりそうになった。
その女子は、少し恥ずかしそうにしながら、でも確かに笑っていた。
――成功したんだ。
頭が理解するより先に、足が勝手に動いていた。
私は廊下に出て、人気のない場所まで歩いて、壁にもたれかかる。
視界がぼやける。
なんで。
どうして。
私のときは、コインで終わったのに。
――そのとき、足音がした。
振り向くと、彼がいた。
「……見てた?」
静かな声。
私は何も言えなかった。
彼はポケットから、またあのコインを取り出した。
「昨日と同じだよ」
そう言って、指で弾く。
コインが回る。
落ちる。
受け止める。
そして、手の甲を開く。
「表だったから、OKした」
淡々とした声。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
「……じゃあ、もし裏だったら?」
「断ってた」
迷いのない答え。
私は思わず笑ってしまった。
「なにそれ……」
ひどい。
本当にひどい。
でも、彼は変わらない顔で言う。
「公平でしょ」
「……全然、優しくないよ」
「そうかもね」
彼は少しだけ目を伏せた。
そして、昨日と同じ言葉を口にする。
「このことは、秘密にして」
私は、しばらく黙ってから――
「……うん」
やっぱり、頷いてしまった。
たぶん私は、まだ彼が好きなんだと思う。
コイン一枚に負けたくせに、それでも。




