第9話「大国の使者と傲慢な舌」
ミクが特任料理番に就任してから、季節が一つ巡ろうとしていた。
王宮の庭園には、日本の桜によく似た薄桃色の花びらを持つ「春告樹」が満開に咲き誇り、風が吹くたびに甘い香りを乗せて散っていく。その柔らかな陽射しの中を、レオンが自らの足で歩いていた。
「陛下、本日はお顔の色も随分とよろしいですね」
少し後ろを歩くアルフが、安堵と喜びの入り交じった声をかける。
レオンの足取りはかつての亡霊のような重さはなく、黒髪にもつやが戻り、軍服のように仕立てられた蒼い上着が、引き締まった体躯によく似合っていた。氷のように冷たかったアイスブルーの瞳には、確かな生気と威厳が宿っている。
「ああ。ミクの作る食事が、私の体を作り変えてくれたからな」
レオンは立ち止まり、王宮の厨房がある方角へと視線を向けた。その横顔には、ミクへの絶対的な信頼と、隠しきれない柔らかな響きが滲んでいる。
毎日、毎食。ミクは神の舌を駆使し、レオンのその日の体調、気温、疲労度を完璧に読み取り、決して彼の胃腸を脅かさない、それでいて極上の旨味を引き出した料理を提供し続けた。
ある日は、異世界の川で獲れた白身魚を、臭みを完全に消し去る香草とともに蒸し上げ、とろけるような餡をかけたもの。またある日は、太陽の光をたっぷり浴びたトマトに似た果実と、細かく叩いた赤身肉を、スパイスを使わずに野菜の甘みだけで何時間も煮込んだ柔らかなシチュー。
レオンはそれらを一口食べるごとに、失われていた味覚の喜びと、食事を楽しむという当たり前の幸福を取り戻していった。ミクとの会話も増え、食卓を挟んで微笑み合う時間が増えるにつれ、二人の距離は自然と縮まっていた。
***
しかし、平穏な日々は突如として破られる。
その日の午後、謁見の間に重々しい足音が響き渡った。
訪れたのは、帝国の隣に位置する大国、ガルディアの使節団だった。先頭に立つのは、豪華な毛皮の外套を引きずるように羽織った恰幅の良い男、使節長の大臣だ。指にはいくつもの宝石がはめられ、傲慢さを隠そうともしない薄ら笑いを浮かべている。
「皇帝陛下、ご機嫌麗しゅう。ガルディア国王からの親書と、ささやかな貢物をお持ちいたしました」
使節長は形ばかりの礼をとった後、大仰な身振りで後ろの従者に合図を送った。従者が恭しく運んできたのは、銀の蓋が被せられた巨大な盆だった。
「我が国の最高級の特産品、『火竜の熟成肉』と、それを引き立てる『幻の黒胡椒』でございます。陛下が美食にはご興味がない、いや、偏食がひどく固形物すら召し上がれないという噂を耳にしまして。ぜひとも、本物の味というものを思い出していただきたく存じます」
その言葉に、謁見の間に並ぶ帝国の貴族たちがざわめいた。表面上は貢物と言っているが、これは明らかな侮辱だった。レオンの病状を嘲笑い、「まともな食事もできない虚弱な皇帝」だと暗に喧伝し、外交の場での優位に立とうとするガルディア側の思惑が透けて見える。
アルフが剣の柄に手をかけ、ギリッと歯を食いしばる。しかしレオンは表情を一つも変えず、氷のように冷徹な瞳で使節長を見下ろした。
「ガルディア国王の心遣い、感謝する。だが、私の偏食の噂は少々古かったようだな。私は今、我が帝国の厨房が作り出す至高の料理を、毎日残さず楽しんでいる」
「ほう? それは初耳ですな。ならば、明日の晩餐会が楽しみだ」
使節長は面白そうに口の端を歪め、わざとらしく両手を広げた。
「我が国の料理人たちも同行しておりますが、彼らの出番はなさそうですな。帝国の総料理長が、さぞかし我々の舌を唸らせるような、歴史に残るフルコースを振る舞ってくださるのでしょうから」
退路を断つような挑発。明日の晩餐会で、ガルディアの使節団を満足させられなければ、「皇帝は味覚音痴であり、帝国には大国を歓待する文化すらない」という不名誉なレッテルを貼られることになる。それは国家の威信に関わる大問題だった。
謁見の間の空気がピンと張り詰める中、レオンは微動だにせず、ただ静かに宣言した。
「良いだろう。明日の夜、我が帝国の誇る特任料理番が、貴公らの想像を絶する晩餐を用意する。楽しみにしておくことだ」




