第8話「近づく距離と微かな笑顔」
寝室の扉が開くと、昨日とは違い、窓のカーテンが少しだけ開けられていた。差し込む朝の光が、部屋の暗い空気を和らげている。
レオンはベッドの背もたれにクッションを重ね、自力で上半身を起こして座っていた。顔色はまだ蒼白だが、昨日ほどの痛々しさはない。アイスブルーの瞳には、はっきりとした光が宿り、ミクの姿を捉えると微かに目を細めた。
「おはようございます、陛下。本日の朝食をお持ちしました」
ミクが円卓の上に盆を置くと、レオンはゆっくりと視線を落とした。
器の蓋を開けた途端、胡麻に似た香ばしい匂いと、鶏肉の力強い旨味の香りが立ち上る。レオンはわずかに鼻を動かし、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……良い匂いだ。昨日のものとは、また少し違うな」
「はい。昨日よりも少しだけ体を動かすエネルギーになるように、鶏肉を団子にしてお野菜と一緒に煮込みました。お野菜は口の中でとろけるまで煮込んでありますから、お腹に優しいですよ」
ミクが小鉢に取り分け、レンゲを添えて差し出す。
レオンは震えの止まった手で器を受け取ると、まずは澄んだスープを一口すする。
「……!」
野菜の甘みと鶏の旨味が複雑に絡み合い、昨日よりも深いコクが舌の上を滑り落ちていく。胡麻油の香ばしさが後を引き、自然と次の一口を求めてしまう。
続いて鶏団子をレンゲですくい、口の中に入れる。
歯を立てるまでもなく、ホロリと崩れる柔らかな食感。その中から、すりおろした根菜の甘みと、閉じ込められていた肉汁がじゅわりと溢れ出し、口内を幸福感で満たしていった。
「美味しい……」
レオンの唇から、昨日よりもはっきりとした感嘆の声が漏れる。彼は夢中で匙を動かし、熱いスープと柔らかい団子、そして白く輝くお粥を次々と平らげていく。
その食べっぷりは、かつて食事を恐れていた頃の彼を知るバルトにとって、信じられない光景だった。バルトは目頭を押さえ、静かに部屋の隅で深く頭を下げていた。
「ふふ……」
器をすっかり空にしたレオンは、満足そうに深い息を吐き出した。額にはうっすらと汗がにじみ、頬にはほんのりと赤みが差している。体の中に熱が回り、活力が蘇ってきている証拠だ。
「神谷……いや、ミクと呼んでもよいか」
レオンが突然、静かな声で問いかけてきた。ミクは少し驚いたが、すぐにふわりと微笑んで頷いた。
「はい、陛下。ミクで構いません」
「ミク。お前の料理は不思議だ。私の舌は、毒見役が微量でも違和感を覚えるような隠し味のスパイスでさえ、針を刺されるような痛みとして感じてしまう。だが、お前の料理は……どんなに熱くても、私の体を傷つけない。ただ、温かいだけだ」
レオンのアイスブルーの瞳が、ミクを真っすぐに見つめる。そこには、絶対的な権力者としての威圧感はなく、ただ一人の青年としての素直な感謝と、わずかな安堵が浮かんでいた。
「それは、食材の声を聞いているからです」
ミクは少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「食材の声?」
「はい。どんな食材にも、一番美味しく食べてもらうための温度や組み合わせがあるんです。私はただ、その通りに火を通しているだけ。それに……」
ミクは一呼吸置き、レオンの目を見てしっかりと告げた。
「料理は、食べてくれる人のことを思って作るものです。陛下がこれ以上苦しまないように、元気に笑えるようにって、それだけを考えて作りましたから」
その純粋な言葉に、レオンはハッと息を呑んだ。
幼い頃からの毒殺への恐怖。信じていた者からの裏切り。冷たい玉座に座り、誰にも本音を明かせずに孤独に耐えてきた彼にとって、見返りを求めない純粋な善意というものは、あまりにも眩しく、胸を打つものだった。
レオンは少しうつむき、自分の膝の上で強く手を握りしめた。
「……お前の料理を食べていると、自分が生きていても良いのだと、そう言われている気がする」
かすれるような声でつぶやき、レオンは顔を上げた。
その瞬間、彼のかたい表情がふっと緩み、微かに、本当に微かにだが、不器用な笑顔がその端正な顔に浮かんだ。
氷の皇帝が初めて見せた人間らしい表情に、ミクの心臓がトクリと跳ねる。
『私のご飯で、こんな風に笑ってくれるんだ……』
ミクの胸の奥に、料理人としての喜びとは違う、小さな温かい火種がポツリと灯った。
これから先、彼女が作る料理の数々が、冷え切っていたレオンの心と体を少しずつ、確実に溶かしていくことになる。二人の間に芽生えた小さな信頼は、やがて来る大きな試練を乗り越えるための、確かな絆へと成長していくのだった。




