第6話「静寂の寝所と涙の味」
厨房の熱気から一転し、王宮の奥深くにある皇帝の寝室は、冷え切った空気に満ちていた。
床を覆う分厚い絨毯が足音を吸い込み、壁を飾る豪奢なタペストリーさえも重苦しい影を落としている。高い天井から吊るされたシャンデリアの蝋燭は半分しか灯されておらず、部屋全体が深い水底のように薄暗い。
その最奥、天蓋のついた巨大なベッドの上に、広大な帝国を統べる若き皇帝、レオン・ヴァルハイドが横たわっていた。
年齢は二十代半ばだろうか。波打つ黒髪は枕に乱れ、かつては精悍だったはずの頬が痛々しいほどにこけ落ちている。閉ざされたまぶたの裏には濃い隈が刻まれ、血の気の引いた唇は微かに震えていた。呼吸は浅く、寝巻きの胸元が弱々しく上下するだけだ。
アルフに先導され、バルトとともに部屋へ足を踏み入れたミクは、その痛ましい姿に息を呑んだ。
『なんて辛そうな顔をしているんだろう。どれだけ長い間、食べる苦しみと戦ってきたの』
ミクの両手に乗る銀色の盆からは、器の蓋を通してじんわりと温かい熱が伝わってくる。彼女は足音を殺してベッドのそばに置かれた小さな円卓に近づき、そっと盆を下ろした。
「陛下……食事をお持ちしました」
バルトが静かに、しかし深い敬意を込めて声をかける。
レオンの長いまつ毛が震え、薄く目を開いた。氷のように冷たく澄んだアイスブルーの瞳が、力なく天井をさまよった後、傍らに立つ者たちを捉えた。
「……また、あの泥のような薬か。もう結構だと言ったはずだが」
擦り切れたようなかすれ声が寝室に響く。言葉の端々に、拒絶と諦めが重く絡みついていた。
「いえ、本日は別のものをご用意いたしました。新しく入った料理人が、陛下の体に合わせて作ったものです」
バルトの言葉に、レオンは微かに眉をひそめた。重い体を少しだけ起こそうとしたが、それすらも辛いのか、すぐに力尽きて枕に沈み込む。
「新しい料理人……。どうせまた、私の舌を試すような味の濃い肉料理か、匂いのきつい薬膳スープだろう。私の内臓は、もう何も受け付けないのだ。下げてくれ」
顔を背けるレオンに対し、ミクは一歩前へ出た。
「陛下、どうか一口だけでも召し上がってみてください。これは薬ではありません。ただの、温かい雑炊です」
その高く透き通った声に、レオンはわずかに目を見開いてミクの方を見た。見慣れない服を着た、小柄で風変わりな少女。その瞳には、自分の体を気遣う純粋な光だけが宿っている。
ミクは円卓の上に置かれた白い器に手を伸ばし、ゆっくりと蓋を開けた。
ふわぁ……っ。
その瞬間、寝室の冷たく淀んだ空気を切り裂くように、黄金色の出汁の香りがふわりと立ち昇った。鳥の骨の髄から丁寧に引き出された上品で奥深い旨味の匂いが、湯気に乗って部屋中に広がる。そこに卵の甘く優しい香りと、青い香草の爽やかな風味が重なり合い、決して押し付けがましくない、胃の底から自然に食欲を呼び覚ますような温もりがレオンの鼻腔をくすぐった。
レオンの瞳が、驚きに見開かれる。
これまでに嗅いできたどんな豪勢な料理の匂いとも違っていた。鼻を刺すような強いスパイスも、胃を逆撫でするような脂の匂いもない。ただひたすらに優しく、透き通った命の香りがそこにあった。
「……なんだ、この匂いは」
レオンはベッドの縁に手をかけ、自力で上半身を起こした。あれほど食事を拒絶していた体が、不思議な匂いに引き寄せられるようにして前のめりになる。
ミクはすかさず器を手に取り、ベッドの脇に膝をついた。白い磁器のレンゲで、ふんわりと黄金色のスープを吸い込んだ米粒と、花びらのように柔らかな卵をすくい上げる。
少し冷ますように息を吹きかけ、レオンの口元へと運んだ。
「熱いので、少しずつお召し上がりください」
レオンは震える唇を微かに開き、レンゲの中の熱い雫を口に含んだ。
――次の瞬間、彼の体がビクリと震えた。
熱いスープが舌に触れた途端、細胞の隅々まで染み渡るような強烈な旨味がパッと弾けた。それは過敏になった味覚を刺激する暴力的な味ではなく、まるで乾ききった大地に降る慈雨のように、傷ついた胃袋や喉の粘膜を優しく包み込む味だった。
米粒は噛む必要がないほどにとろけ、卵の甘みが塩気の角を丸くしている。青い香草が後味をさっぱりとさせ、どれだけ飲み込んでも胃が重くなることはない。
美味しい。
ただその一言が、レオンの心の中にポツリと落ちた。毒殺未遂のトラウマから食事を敵だと思い込み、生きるために無理やり詰め込んできた数年間。味を感じるたびに吐き気を催し、口の中が苦味と恐怖で満たされていた。
だが今、彼の口の中に広がっているのは、温かくて、どこまでも優しい命の味だった。
「……あ、あ……」
レオンの喉の奥から、言葉にならないかすれた声が漏れた。彼のアイスブルーの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、青白い頬を伝って掛け布団に染みを作っていく。
「陛下!」
アルフが驚いて声を上げようとしたが、バルトがそれを手で制した。バルトの目にも、光るものが浮かんでいる。
レオンは涙を拭うことも忘れ、自ら震える手を伸ばしてミクからレンゲを受け取った。そして、一心不乱に雑炊を口に運び始めた。
ハフッ、ハフッ、と熱い息を吐きながら、少しずつ、しかし確実に器の中身が減っていく。その姿は、長年暗闇の中に閉じ込められていた者が、初めて光を求めてすがりつくような切実さに満ちていた。
ミクはただ静かに、その様子を見守っていた。料理人として、自分の作った料理を心から美味しいと感じてもらえること。それ以上に嬉しいことはない。彼女の胸の奥がじんわりと温かくなり、自然と優しい笑みがこぼれた。
やがて、カチャリとレンゲが器の底に当たる音が響いた。
レオンは深く息を吐き出し、空になった器を見つめた。彼の青白かった顔には微かに赤みが差し、冷え切っていた手先にもじんわりと血が通っている。
「……すまない、見苦しいところを見せた」
レオンは目元を袖で拭い、ミクを真っすぐに見つめ返した。その瞳に宿る光は、先ほどまでの死人のような虚ろさとは違い、確かな生気を取り戻していた。
「この料理は……なんというのだ」
「温かい玉子雑炊です。お体に合わせて、一番消化が良くて、旨味が引き立つように作りました」
「玉子雑炊……。これほどまでに美味く、胃の腑に沁み渡る食事は、私の生涯で初めてだ。お前は、魔法使いなのか」
「いいえ。ただ、美味しいものを食べて、元気になってもらいたかっただけです」
ミクがふわりと微笑むと、レオンは目を丸くし、やがて小さく、本当に小さく唇の端を吊り上げた。それは彼が何年ぶりかに見せた、心からの安堵の笑みだった。
「神谷美紅、といったな。今日からお前を、私の特任料理番に任命する。私の命を、お前に預ける」
皇帝の低く響く声が寝室に静かに満ちた。
その瞬間から、平凡なOLだったミクの運命は、広大な帝国を治める若き皇帝と深く結びついていくことになるのだった。




