第1話「目覚めの森と神の舌」
登場人物紹介
◆神谷美紅
料理人になる夢を抱き、修業資金を貯めていた平凡な会社員。不慮の事故により異世界へ迷い込んでしまう。食材の成分や最適な調理法を直感的に把握できる規格外の能力「神の舌」を授かる。明るく前向きな性格で、誰かのために美味しいご飯を作る時間が何よりも好き。
◆レオン・ヴァルハイド
広大な帝国を治める若き皇帝。幼少期の毒殺未遂による心の傷と、桁外れの魔力がもたらす過敏すぎる感覚のせいで、極度の偏食に陥っている。食事そのものに嫌悪感を抱き、常に体調を崩してやせ細っているが、本来は民を想う心優しい青年。
◆アルフ
王宮に仕える護衛騎士。明るく裏表のない性格で、剣の腕は超一流。森で魔物を討伐していたところ、ミクと出会う。彼女の作った料理の味に度肝を抜かれ、衰弱していく主君を救いたい一心で彼女を王宮へ連れて行く。
◆バルト
王宮の厨房を取り仕切る厳格な料理長。頑固で職人気質だが、料理に対する情熱は本物。最初は素性の知れないミクを警戒するものの、彼女の確かな腕前と真摯な姿勢を見るうちに、良き理解者となっていく。
深い泥の底からすくい上げられるように、ゆっくりとまぶたが持ち上がった。
鼻先をくすぐるのは、雨上がりのような湿った土の匂いと、むせ返るほどに濃い緑の香りだ。背中にはごつごつとした木の根の感触があり、ミクは思わず顔をしかめて身をよじった。
薄暗い視界の中で、幾重にも重なった巨大な葉の隙間から、まばゆい光の筋が一直線に差し込んでいる。見渡す限り、見覚えのない植物ばかりが生い茂っていた。幹がうねるように天へ伸びる巨木に、紫色のまだら模様が入ったシダのような葉。ここは東京の街角でも、近所の公園でもない。
『私、たしかスーパーの帰りに交差点で……』
横断歩道を渡ろうとした瞬間、甲高いブレーキ音とともにトラックが突っ込んでくるのが見えた。強烈な衝撃と痛みを感じた記憶がかすかに残っている。しかし、今の体に傷ひとつない。着ているのも普段着の白いブラウスと薄手のカーディガン、それにデニムのままだ。
ふらつく足に力を込めて、どうにかその場に立ち上がる。手や足をさすってみたが、どこも痛む様子はない。ただ一つ、強烈に主張してくるものがあった。
お腹が、空いている。
それも、三日三晩何も食べていないかのような、胃袋が背中にくっつきそうなほどの極限の飢えだった。足元がふらつき、冷や汗が額をつたう。手先はひどく冷え切って、まるで真冬の朝のようだった。
『何か、口に入れないと倒れちゃう……』
乾いた唇をなめながら、ふらふらと足を引きずって歩き出す。周囲の木々を見上げると、少し先の太い枝から、奇妙な形をした果実がぶら下がっているのが見えた。
大人の拳ほどの大きさで、表面は濃い青紫色をしている。皮には細かい産毛がびっしりと生えており、とてもではないが食欲をそそる見た目ではなかった。それでも、飢餓感には勝てない。背伸びをして一番低い枝からその果実を一つ、もぎ取った。
ずしりとした重みがある。鼻を近づけると、微かに甘酸っぱい香りが漂ってきた。
『毒とか、ないよね……?』
不安が胸をよぎるが、背に腹は代えられない。両手で果実を包み込むように持ち、思い切って皮ごとがぶりと噛みついた。
その瞬間だった。
パチンと、頭の中で何かが弾けるような感覚があった。舌の表面から脳の奥底へ向かって、目も眩むような莫大な情報量が奔流となって流れ込んでくる。
果実の水分量、糖度の正確なバランス、繊維質の硬さ。それだけでなく、皮の裏側にわずかに含まれる苦味成分の構造や、種が持つ微小な毒性までもが、まるで立体的な映像のように頭の中に浮かび上がった。
『この果実はアオトゲウリ。毒は種だけ。果肉は火を通すと甘みが増して、豚肉の脂と合わせると極上のソースになる……!』
誰かに教えられたわけでもないのに、完璧な調理法と食材の知識が次々と閃いていく。それは今まで培ってきた料理の知識とはまったく違う、神の視点とも呼べるほど研ぎ澄まされた直感だった。
ミクは驚きのあまり目を見開いたが、口の中いっぱいに広がる瑞々しい果汁の甘さに、夢中で果肉をかじり続けた。種を丁寧に避けながら、青紫色の実をあっという間に平らげてしまう。
甘酸っぱい汁が乾いた喉を潤し、空っぽだった胃袋に心地よい重みが落ちていく。手の震えが少しずつ収まり、体にじわじわと熱が戻ってくるのがわかった。
『なんだろう、今の感覚。私が考えたわけじゃないのに、この果実の一番美味しい食べ方が、手に取るようにわかっちゃった』
手のひらに残った果汁をハンカチで拭き取りながら、ミクは自分の体に起きた不思議な変化に戸惑いながらも、少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。幼い頃から料理人になることだけを夢見て、来る日も来る日も包丁を握り続けてきた彼女にとって、食材のすべてを理解できるこの能力は、たまらなく魅力的なものに思えたからだ。
***
とはいえ、いつまでもこんな見知らぬ森で立ち尽くしているわけにはいかない。
木々の隙間から差し込む光の角度を見る限り、おそらく今は午後を少し回ったあたりだろう。日が暮れる前に、人が住んでいる場所か、せめて安全に夜を明かせる場所を見つけなければならない。
ミクは足元に生えている名も知らない草花を観察しながら、歩きやすそうな獣道を慎重に進んでいった。歩くたびにカサカサと落ち葉が鳴り、遠くで名も知らぬ鳥の声が響く。
少し歩いたところで、ふと奇妙な匂いが風に乗って漂ってきた。
土と緑の匂いの中に混じる、鉄が錆びたような血の匂い。そして、獣の荒い息遣いのようなものが聞こえてくる。
『誰かいるのかな。でも、この匂いは……』
不安と期待が入り交じる中、ミクは足音を殺して匂いのする方へと近づいていった。茂みをそっとかき分けると、そこには信じられない光景が広がっていた。




