ライフルを持ったプレイボーイ 最強のミドル級王者 カルロス・モンソン(1942-1995)
カルロス・モンソンの強さは具体的に説明できない、とよく言われる。つまり全てが標準以上で欠点がないのである。傑出していなくとも欠点がないからこそ負けにくく、底を見せないまま引退してしまったが、たいして真剣に試合をしているとは思えないのに、ナポレスを子供扱いした試合には驚かされた。偏見抜きでパッキャオでもナポレスのディフェンスを打ち破るのは困難と思われるだけに、カネロやクロフォードでもモンソンのライフルの餌食になる公算が高いと思う(AIならどう判断するだろうか)。
生涯戦績 89勝3敗(61KO)9引分
一九七〇年十一月七日、ローマの星が堕ちた。
ローマっ子の誇りである“華麗なる”ニーノ・ベンベヌーチがアルゼンチンからやってきた優男から番狂わせのナックアウト負けを喫したのだ。戦前の賭け率は3対1で世界ミドル級の絶対王者ニーノの五度目の防衛戦は安泰と見られていただけに、翌朝の各紙は一面でこの敗戦の衝撃の大きさを伝えていた。
ニーノ・ベンベヌーチは一九六〇年代のイタリアが生んだ最大のスポーツヒーローの一人である。
ローマオリンピックのライト・ミドル級金メダリストにして大会最優秀選手という勲章を手に二十二歳でプロ入りしたニーノは、破竹の六十五連勝で世界J・ミドル級王座を射止める一方、ハンサムなルックスを生かしてマカロニ・ウエスタンの主役も務めるなど常に陽の当たる道を歩んできた。
一九六七年には絶対不利の予想を覆してウエルター、ミドルで計五度もの世界王座に君臨したエミール・グリフィスからミドル級タイトルを奪い二冠を達成。リターンマッチで一度はタイトルを手放したものの、ラバーマッチで奪回し、五度目の防衛戦を迎えるまで、八十二勝四敗(三十五KO)一引分けという素晴らしい戦績を残していた。
これに対し挑戦者のカルロス・モンソンの戦績は六十九勝三敗(四十六KO)九引分けで目下五十連勝中と王者にいささかも引けを取らないものの、キャリアのほとんどがローカルファイトのため世界的には無名に等しい。ファイトマネーも、十度の世界戦を経験し、ローマでは三十一戦不敗のニーノの十万ドルに対し一万五千ドルに過ぎなかった。
ところがいざ試合が始まると、ロングレンジからのパンチの正確さに勝るモンソンが序盤から王者を圧倒。十二ラウンド一分五十七秒に右フックでとどめを刺し、ローマスポーツパレスに集った一万五千の歓声を悲鳴に変えた。
かくして新王者となったモンソンは、翌年五月八日、モンテカルロでの初防衛戦でニーノと再び合まみえることになったが、三ラウンドにニーノのセコンドからタオルが入るというあっけない幕切れだった。まざまざとレベルの差を見せつけられた往年のアイドルボクサーは「あいつは恐ろしいやつだ。当分の間、あいつの天下だろう」と言い残して永久にリングを去った。
続いてモンソンが迎え撃ったのが、ニーノのライバルだったエミール・グリフィスである。ボクシングのメッカであるMSGのリングに上がること生涯通算二十九回(史上最多)を数える「MSGの花形」も、敵地ブエノスアイレスのルナパークスタジアムではモンソンの引き立て役に甘んじるほかはなかった。
筋骨隆々、タフの権化のようなグリフィスも、モンソンのジャブを形相が変わるほど浴びたあげくに、十四ラウンドに足を痙攣させたままレフェリーストップ。コーナーに追い詰められ防戦一方のグリフィスが「もうやめてくれ!」と叫んだほどの凄まじいラッシュだった。
一九六〇年代の主役に相次いで引導を渡したモンソンは一躍中量級のスターダムにのし上がった。
一九四二年八月七日、パラナ川流域の村サン・ハビエルに十二人兄弟の八番目として生まれたモンソンは、九歳の時にサンタフェに転居し、幼少時より新聞売り、靴磨き、皿洗い、左官など様々なアルバイトをこなしながら貧しい家計を支えていた。ボクシングに目覚めたのは、ポール・ニューマン主演のボクシング映画の傑作『傷だらけの栄光』(一九五六年製作)を観たのがきっかけだった。
この作品は、実在の世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラジアノの自伝を映画化したもので、貧民窟から這い上がってニューヨークのヒーローになったグラジアノと自らの境遇をオーバーラップさせたモンソンは、「いつかはグラジアノのようになる」を口癖にボクシングにのめり込んでいった。
アマで七十三勝八敗六引分けという好レコードを残したモンソンがプロに転向したのは十九歳の時だった。
モンソンはそれほど傑出した特長を持たない強打者である。特にパンチにスピードがあるわけでもなく、フットワークも華麗とは言い難い。攻撃スタイルは左ジャブで相手を崩し、右ストレート、返しの左フックという単純なものだ。
無謀な打ち合いは避け、常に自分のパンチが当る距離からしかパンチを出さないため、無駄な動きがない。フィニッシュにもってゆく時も、焦らずじわじわと追い詰めてゆくクールな試合運びが実に心憎かった。また、ピンチに陥っても常にポーカーフェイスで自分のスタイルを貫く。それが彼の勝利の方程式であった。
「ライフル」の異名で恐れられた右ストレートは、長いリーチを生かしてロングレンジからノーモーションで打ち込まれるため非常に避けにくく、スピードのある相手でも正確に急所を捉えることが出来た。仮に初弾をかわしたとしても間髪いれずにフォローの左フックがガードの隙間を縫って飛び込んでくるため、相手はなかなか懐には踏み込めない。結果、モンソンの距離で戦うことを強いられ、射程距離の長さと正確さで優るモンソンに試合の主導権を握られてしまうのである。
モンソンのベストバウトは何といっても人気俳優のアラン・ドロンがプロモートしたホセ・ナポレス戦(一九七四年二月九日)であろう。
すでに八度の防衛に成功し同級では無敵のモンソンに挑むナポレスは、「不滅のキューバン」の異名をとり、今もなお歴代ウェルター級十傑に名を連ねる強豪である。強すぎるがゆえに世界チャンピオンから敬遠され続け、王座に就いたのは二十九歳の時だったが、その後は試合中にカットした傷口からの出血が激しくストップ負けしたアンラッキーな敗戦(再戦では難なくKO勝ちで王座に復帰)を除き磐石の第二次政権を築いていた。
通算防衛回数は九回を数え、その犠牲者の中には連続KOの日本記録保持者(当時)ムサシ中野を軽くKOしたアーニー・ロペス、東洋王者の竜反町ら日本中量級のトップクラスをなで斬りにしたアドルフ・プリットらが含まれる。
モンソンより十センチも小柄ながら、見切りがよく相手のパンチを紙一重でかわしながら強打を叩きつける一連の動作は「バターのようになめらか」と形容されるほどで、まさに死角のないパーフェクトボクサーであった。
スロースターターのモンソンに対し、ナポレスは初回から得意の左トリプルブローを再三クリーンヒットさせ無敵王者をたじろがせた。しかし、三ラウンドに入ってからモンソンが槍のようなジャブで距離をとりながら右ストレートを狙い打ち始めると、ナポレスは容易に懐に飛び込めなくなり、出足が鈍ってきた。
こうなるとやはり体格差は大きい。ウエルター級屈指のナポレスの強打はモンソンに大したダメージを与えられなかった代わりに、モンソンのジャブはタフなナポレスを棒立ちにさせるほど重かった。劣勢に立ったナポレスはダウンこそ喫しなかったものの、六ラウンドには完全にグロッギーに追い込まれ、ラウンド終了と同時に棄権した。
モンソンは真っ向勝負を挑んだナポレスのことを「ナポレスは偉大だ。なぜかって?私のベストパンチにもびくともしなかったんだ。二階級も下の男がだよ」と言って称えたが、内容的にはあのナポレスが全く子供扱いだった。
もはや敵なしのモンソンは、新興のWBCが擁立したロドリゴ・バルデスを下して王座を再び統一すると、リターンマッチにも勝利し、当時のミドル級記録である通算十四度目の防衛に成功。結局これがラストファイトになった。
世界王座を剥奪された後もローカルファイトを続け、六十連勝のまま引退した元J・ウェルター級チャンピオン、ブルーノ・アルカリ(イタリア)のような例もあるにはあるが、七十連勝中の現役王者の引退というのは空前絶後である。しかも衰えの兆しもなく王座を脅かすようなライバルが見当たらず、さらなる長期政権が期待できただけにその潔さも格好良かった。
「もうリングで証明することはない」こういい残してモンソンはリングを後にした。
モンソンは現役時代に傑出したライバルに恵まれなかったことで、その強さは未知数である。防衛戦の対戦相手の半数が新旧の世界王者という点にしても、彼らのほとんどがピークを過ぎていたため、あまり参考にはならない。しかし、防衛戦のほとんどをアウェイで行っていながら、苦戦を強いられたのはグリフィスとの再戦だけで、それ以外はほぼ完勝しているところは凄い。
時差、気候や食事の違いなど、ホームグラウンドと比べるとアウェイでの試合はコンディションの調整面において大きなハンディがある。それは日本人が海外での世界戦でほとんど勝ったためしがない事実を見ても明らかである。
ところがモンソンはといえば、練習もほどほどにさっさと防衛戦をこなすと、その後はナイトクラブで豪遊というのがお決まりのコース。アウェイのプレッシャーなどどこ吹く風で、まるで海外旅行を楽しんでいるかのようにどこのリングでもマイペースだった。
あまり練習しないのも、さほど本気にならなくても試合に勝てるからで、暇さえあればクラブで歌い、踊り、酒と女に囲まれた生活を送っていた。練習嫌いはともかく、取り巻きを引き連れて世界中を転戦したところや、私生活は派手で奔放であったにもかかわらず、リング上では冷静沈着で無敵を誇ったところなど、シュガー・レイ・ロビンソンと共通する部分も多いが、天文学的なファイトマネーを一セントも残らず使い果たしたロビンソンと比べると、モンソンは引退後も悠々自適な第二の人生を満喫していた。
現役時代に本当の底を見せることがなかったのは残念である。それでも、同時代の中では傑出した強さを誇っていたことから、某ボクシング雑誌が企画した一九七〇年代最強のボクサーに、デュランやアリを抑えてモンソンが選ばれている。
遠征試合には必ず愛人を同行し、映画女優とも浮き名を流すなど、現役時代から女性関係が派手だったモンソンは三人の女性との間に四男一女をもうけたが、引退後もスキャンダルな話題には事欠かなかった。
一九八八年、奔放なプレイボーイチャンプにも遂に年貢の納め時が来た。痴話喧嘩の果てに元恋人を誤ってバルコニーから突き落としてしまったのである。懲役十一年の判決を受けたモンソンの入獄は、その知名度ゆえに世界中で大々的に報道された。
その後、モンソンは模範囚として過ごし、一九九五年に仮出所する目処もついた。出所後は最初の妻メルセデスともう一度やり直すことになっていた矢先の一九九四年一月八日、すでに週末の外出を認められていたモンソンは、知人の男女二人を乗せて国道一号線を走行中、運転を誤り横転。モンソンと同乗の男性一名が死亡した。
モンソンの事故死は翌朝の各新聞のトップニュースとなり、葬儀には五千名のファンが詰め掛けたという。
モンソンの連続防衛記録はバーナード・ホプキンズに破られてしまったが、王座が乱立している現在と実質的に七年間唯一無二のミドル級王者だったモンソンとは対戦相手の質が違うため比較にならない。
ともに長身の強打者でありながら、ステディで負けにくいボクシングをするという点においてはモンソンとホプキンズは似たタイプのボクサーといえるかもしれない。しかしタフネスで劣るホプキンズではライフルストレートに耐え続けることは困難であろう。そういう意味では、全盛時にモンソンとの優劣が話題にのぼったマービン・ハグラーの方がクレバーな試合運びと打たれ強さの点でホプキンズを凌ぐ理想的なミドルウェイトと言えるかもしれない。何しろリーチ、ジャブと連打の早さ、パンチ力でホプキンズを上回るトーマス・ハーンズを三ラウンドで料理しているのだから。
ではハグラーはハーンズ戦と同じように接近戦に持ち込んでモンソンを仕留められるかというとそうはいかないだろう。ハーンズは自らのパンチ力を過信して打ち合いを挑み、グラスジョーを打ち抜かれてマットに沈んだが、冷静沈着なモンソンこと、射程距離の長さを生かしてアウトレンジから右ストレートと左右のロングフックでハグラーの接近を許さないだろう。
ナポレス戦のような試合展開に持ち込まれると、リーチで劣るハグラーは得意のショートフックを殺され、アウトボックスされる公算が高い。しかも単発でも急所にクリーンヒットしさえすれば倒せるハーンズと違ってモンソンはダウンを喫しても逆転KOしてしまうほどタフで打たれ強い。ハグラーが強引に接近戦に持ち込もうとすれば、逆に正確無比なモンソンのライフルストレートをカウンターされ、ダウンということもありうる。
いずれにせよ、プライドの高い両者のこと、KO狙いの打撃戦になるのは間違いなく、モンソン引退時に二十三歳だったハグラーは、すでにミドル級のホープとして注目されていただけに、あと一年モンソンが現役でいてくれれば、ミドル級屈指の名勝負が実現していたかもしれない。
カルロス・モンソンは引退するまで73連勝しているが、ライバルだったベンベヌーチの65連勝にしかり、当時のボクサーの試合数が凄い。現在のようにDXも発達しておらず、会場以外で試合観戦をする機会が限られたがゆえに、一試合あたりの報酬も安かったからだろうが、現在無敵ぶりを謳われているボクサーが同じスケジュールで試合をしたら、もっと短期間で潰れてしまっているだろう。




