うわさま
お風呂上がりに愕然とした。
私の荷物を誰かに漁られた形跡があったから。
気のせいかなって思おうとした。
だってここは彼の実家。
彼以外には彼のご両親とお祖母様だけしかいらっしゃらないはずだから。
ああ。
気のせいじゃない。
確認したら、なくなっているものがあった。
ヘアスプレー、それからお気に入りの黒いメッシュカーディガン。
疑いたくはないけれど、盗まれたってこと?
とりあえず荷物をキャリーケースにいったん全部戻してロックをかけてから、彼の部屋へと向かう。もちろんケースは持ったままで。
居間を出ると、暗く長い廊下は静まりかえっている。
消音キャスターの転がる音と、私のスリッパの音だけがやけに響く。
板張りの床は磨き上げられているのに、天井の方は対照的にちらほらと蜘蛛の巣が目立つ。いや、ちゃんと目は逸らしていますけど。
彼は蜘蛛の巣に「触れてはいけない」と言っていた。
正確には「糸の巣には触れてはいけない、といううわさ」と。
物理的な接触のみならず言及的な接触も、見つめるのもマズそうな感じだったんだよね、あれ。
普段はとても優しい彼が、今回のご挨拶帰省に関してだけはやたらとピリピリしていたから。
そもそも最初に結婚の話が出た時だって、「ましろにはあそこでの暮らしは難しいだろう」なんて言われたんだよね。
だからとんでもない実家を想像してしまっていた。
ご両親が怖くて気難しいとか、さもなくば電波が入らないくいらい辺鄙な山奥とか。
半分は当たっていた。
村から一番近い「店」まで車で二時間半。そしてその「店」以降、スマホ画面から圏外マークが消えてくれなかった。
言っちゃ悪いけど真のド田舎。
ただ、到着が夕方だったこともあり、黄昏の農村風景は最高に綺麗だった。
「あっちの斜面は段畑だから、上から見ると綺麗だよ。向こうの斜面は日当たりがいいからみかんを植えている。かなり甘いよ」
久々に「うわさ」がつかない彼の説明が、景色の素晴らしさをより深めてくれる。
「こんなに素敵な雰囲気なら、観光地化してもやっていけるんじゃない?」
私がそう言ったときの彼の少し困った笑顔を見て、やっぱりか、と少し凹んだのが数時間前のこと。
わかってた。
この村には「うわさ」があるってことを。
今回のご挨拶に先立ち言われていたのは「うわさは大切にしないといけない」ということ。
このもってまわった言い方は「うわさ」の成り立ちに影響を受けているようなのだけど、ようは「うわさ」ってのは禁忌を表していて、「うわさ」がつく言い伝えは大切どころか絶対に守らなきゃいけないレベルのこと――というあたりまでを、何度も聞き返してようやく引き出した。
どうやら祟りを恐れて婉曲表現を使ううちに、祟りが広がってしまい、最初の婉曲表現自体が禁忌に含まれて、婉曲表現の婉曲表現を使うようになり、その過程で「といううわさ」なんて表現が使われるようになったみたい。
実際、彼は高校生のときに「うわさ」が一つ増えたのを体験している。
村のとあるお宅に都会育ちのお孫さんが遊びに来て、その子が高熱で三日三晩も生死の境をさまよった理由というのが――彼の婉曲婉曲表現を解読すると、どうやら「昆虫図鑑」っぽいんだよね。
彼が中学生の頃まではまだ「アレ取り網やアレ取りカゴを使ってはいけない、といううわさ」程度だったのが、その子が熱を出した後には「アレへんの漢字の生き物や道具を使うのも長い時間見つめるのもよくない、といううわさ」に進化したみたい。
だから私は今回、彼と一緒に荷物も吟味してきたし、虫よけスプレーとか蚊取り線香だって置いてきたのに――なんて考えているうちに、彼の部屋の前へと到着した。
ノックしながら声をかける。
「崇大さん、いる?」
「ましろ? 入ってきていいよ」
ドアを開け、部屋の中へと一歩踏み出した私を待ち受けていたのは、予想だにしないものだった。
「えっ」
私の左手に突然、何かが塗られた――黒い色の液体。
「ちょ、ちょっと、崇大さん?」
「うわさに触れたものは、これを塗れば祟りから隠される、といううわさ、なんだ」
「うわさに触れた……って、私が?」
「ああ、ごめん。俺がこの村を出ている間に、うわさがうわさを呼んだみたいでさ。スプレー缶はよくない、といううわさと、網目の大きな布自体がよくない、といううわさが広がっちゃったみたいなんだよね」
虫よけスプレーじゃないのに? それに私のメッシュカーディガンは虫なんて取れないよ?
「それ本当?」
というかそれって、やっぱり私の荷物を漁って持っていかれたってことだよね?
彼のご両親もお祖母様も優しそうに見えたのに。
とても素敵なお嬢さんって言ってくれたのに。
なんだかとっても悔しい。
彼は結婚後も実家に戻るつもりはないって言ってくれたけれど、これはちょっと考え直そうかなってレベル。
「ましろのこと、守るためだから」
いつにもなく真面目な表情の彼に絆されて、私は風呂上がりの左手を彼の前へと突き出した。ため息つきだけどね。
そしてすぐに後悔する。
なんか水洗いじゃ落ちなさそうな液体。あと臭い。草と薬の臭いが鼻をつく。
「お守りだったならさ、もういっそお風呂に混ぜたらいいのに。菖蒲湯とか柚子湯みたいに」
「そういうわけにもいかないんだよ、色々とさ」
彼はまた「ちょっと遠い目」をした。時々こんな目をするんだよね。
「崇大さァ、居るけ?」
不意に背後から声がした。
彼のお祖母様だ。
「うわさまが煙たがっとるちゅううわさだァ」
今、うわさまって言った?
あと煙たがってるって?
「ばあちゃん、どっしたらええ?」
「隠せ隠せ。そん嫁が大事っちゅうなら」
「わかった」
お祖母様が部屋を出てゆくなり、彼は部屋の中にレジャーシートを敷き広げる。
「ましろ、悪いけど全部脱いで」
「え? 脱ぐって」
「あの図鑑の子、本当は三日三晩じゃ熱が引かなくて、隠してようやく命だけは助かった、といううわさなんだ」
「隠すって……もしかしてこれを塗るってこと?」
「今のましろが熱を出したら……」
彼が下唇をぎゅっと噛む。
わかってる。
私のお腹には彼との子が宿っているから。
「わかった。全部、脱ぐから」
わけはわからなかったけど、それ以外に言葉が見つからなくて。
でも郷に入りては郷に従え、だよね。
私が再び全てを脱いでいる最中なのに、彼は待ち切れないとばかりにあの黒い液体を大きな刷毛でペタペタと私に塗りつける。
私と、私が脱いだ服とがあっという間に薄黒く染まる。
服や下着までこんな汚されたことには正直、腹立たしさもあったけれど、こんな茶番じみた「儀式」をさっさと終わらせてもらうためにも、私は一切抵抗せずに塗られるままに受け入れた。
辺鄙な田舎で独特な風習がある、みたいなことはなんとなく聞かされていたし。
「目を閉じて」
念のため、息も止めて良かった。顔面まるっとしっかり塗られたし。
刷毛は耳を経由して頭部へ――髪の毛にまで?
それから後頭部、首へと降りてゆく。
本当に全身塗るのね――そう考えたとき、風に包まれた。室中とは思えないような風に。
「もう、いい?」
彼の返事はない。
「ね、崇大さん? もう目を開けて平……っくしゅん」
くしゃみの勢いで思わず瞼が開いた。
目はすぐに閉じたけれど、その一瞬にとんでもないものが見えた――私は我慢しきれずにもう一度目を開く。
満点の星空。
気持ち悪いくらいの星々――本当に星?
「っくしゅん!」
待って待って。なんで天井が――ないの? 本当に?
暗いからわからないけれど、私、多分、草むらの上に素足で立ってない?
慌てて服を着る――手の中に残っていた下着と最低限のインナーだけだけど、全裸よりはマシだよね。
え、でも、一体全体どうなってるの?
たった今起きたことを整理しようとしてみる。
彼の実家までやって来て、彼のご家族にご挨拶して、夕食前にお風呂おあがんなさいって言われて、お風呂上がりに荷物の一部が消えてて、彼の部屋に行ったら左手に変な黒いの塗られて、お祖母様がいらして、さらに全身に黒いやつ塗られて、そして目を閉じて、開いたら屋外だった?
それに、私を取り囲む幾つもの気配。
何かを擦り付け合うようなギチギチという音が、幾重にも。
星明かりでうっすらと見えるシルエットは、恐らく人ではない――「うわさま」という言葉が頭に浮かぶ。彼が一度だけ、おそらくうっかりと口にしてしまった言葉。そしてさっきお祖母様が口にした言葉。
でも、だからといって何かできるわけじゃない。
足が勝手に震えて力が入らないし。
この場から逃げ出したいのに、逃げられない。
私はお腹を抱えるようにその場にうずくまり、目を閉じた。
気がついたら朝だった。
夢じゃないと思えるのは、私の肌と着ている服とが余す所なく薄黒くなっていたから。
でも夢だとしか思えないのは、あのとき私が見た黄昏の村の景色、あれがそのまま廃墟化している周囲の光景。
彼は居ない。車もない。私が手に持っていた薄黒く染まった服以外の持ち物も見当たらない。
そのとき、お腹の子が内側から蹴った――そして、ギチギチという音が、なぜか私のお腹の中から聞こえた。
<終>