雲梯
仕事を失った70歳の男は
近くに公園がある。三方を狭山丘陵の裾野に囲まれた田舎の公園である。その一角に体育館があって中央部分にグランドがある大きな公園、昼であればグランドでは少年野球で黄色い歓声が飛び交い、体育館からはバスケットボールでもやっているのだろうか、ボールが床を叩きつける甲高い音が外まで響く。
グランドの周りでは親子がビニールシートを敷いて弁当を広げている。今の季節ではウグイスの声が林の中からよく聞こえる。陽はまだ高く日曜日の期待ある時間はまだまだある。人々は何を期待しているのだろうか。陽が落ちるまでの残された時間に、期待することは山ほどあると思う人もいるだろうが、そんなものはないさ、と言う自分のような人間もいることは確かだ。
しかし、今は深夜の3時過ぎ、さすがに早起きの高齢者も、この時間に散歩をする者もいない。私はナップザックを背負い深夜の誰もいない公園に歩いて行った。公園の中に雲梯がある。私の馴染みの遊具である。
手前の1本に両手でぶら下がり、ターザンのように体を揺らしながら、まず右手を離して1本先の鉄棒に掴み直し、次に左手を離し、これを繰り返し1本ずつ前に進んでいく。これは70歳を過ぎてやっとできるようになった。私の唯一自慢できることである。
就職希望したアルバイト先に出す履歴書の自己PR欄に「雲梯」と書いたら、これを見た面接担当者が「この「くもはしご」って何ですか」と聞くから「これはうんていと言って」両手でジェスチャーをしたら「ああ、あれですか」と言って納得したが、すごいですね、の一言もなかったのは残念だった。
私は65歳の時に、21歳から勤め上げた会社を辞めた。私の言葉で言えば、辞めさせられた。住宅ローンはまだまだ残っている。当然のごとく会社で次の職場を紹介してくれることなどなかった。
そこで生まれて初めてハローワークへ行ってみた。もっとお役所風なのかと思っていたが、当たりは柔らかく対応も良かった。しかし、私が希望した事務職などは高嶺の花で、紹介されたものは警備員やマンション管理人ばかりだった。昔の同年齢の友人に相談して見ると、
「警備員は親会社次第だな、小汚いビルの小さなワンルームを会社事務所としているような小さな会社は辞めとけよ、給与不払いなんてことがあるからな。マンション管理人も大手は65歳過ぎは無理だな。管理人は安い時給で注文ばかり多くて、おまけに住人からのクレームも多くて」
など希望のないことばかり宣う。その友人は定年退職後は相当苦労したらしい。今はシルバー人材で清掃をやっていると言う。「いくら貰っているんだ」と聞くと「月4万くらいかな」と言う。彼は住宅ローンもなく仕事は暇つぶしの一部だから、その程度の収入でもやって行けるのだろうが、私の場合は無理だ、生活費の大事な部分だ。
その時の面接で先日まで勤めていた警備会社は、幸いにも友人の言うような給与不払いを心配するような会社ではなかった。大手ではなかったが中堅どころだった。ところが、親子でやっている会社で、父親が亡くなり息子の代となると、警備員の若返りが始まった。70歳以上は雇用契約の更新なし、有期雇用の私は契約更新ならずで退社となったのである。社員であれば文句の一つも言いたくなるが、契約社員であればそうもいかない。
70歳にして2回目のハローワーク通いが始まった。70歳を受け入れてくれる職場はなかなか見つからなかった。人出不足と言いながらも、同じ給与を払うなら、1歳でも若い人を取りたいのはわかるが、ただこれでは、私は永遠に職に就けなくなる。となると、あと5年の住宅ローンを払う方法で残されたものは、一つしかない。
誰もいないことを確認してから最初の1本目にぶら下がった。春先だというのに深夜の鉄棒は冷たかった。いつもやっているのは、夕暮れ時、日没の夕焼けを見ながらぶら下がる。今の空は星が遠くに光るだけ。すると誰かが公園の門を入って来た。うそだろう、こんな時間に、もの好きもいるもんだ。私はあわてて体育館の後ろに隠れた。
暗い中、街頭の真下にその人が来ると、男性だった、若者ではない、自分と同様の高齢者と見えた。誰かに似ている、どこかで見た顔だ。それもひどく親近感がある。どこで見た顔だろう。夢の中で見たような、不思議な感覚だった。
よくよく見ると、鏡の中で見る顔だ。そう思うと、体中に電気が走ったような、悪寒に包まれた。その人間は自分にそっくりだった。その人も私と同じようなナップサックを背負っていた。その人はスイスイと雲梯を一往復した。私は片道がやっとだ。雲梯から降りると、ナップザックからロープを取り出した。片方を鉄棒に縛り付けると、もう片方の輪の部分に自分の首を突っ込んだ。
私は「やめろー」と叫びながら飛び出した。私の叫び声が聞こえたのか、その人は「俺はお前の身代わり」と言うと、あっけなくぶら下がった。私は身体が震えてうずくまった。2,3分経っただろうか、私は正気を取り戻してその人の顔をしげしげと見た。やはり自分だった。左耳の下のあざもそっくりだった。
私は携帯を取り出して110番をして首吊り自殺を通報した。サイレンは鳴らさずに赤色灯を点滅させながらパトカーが到着した。警察官が二人走って来た。
「首吊りはどこですか」
「すぐそこの雲梯のところです」
と答えたものの、警察官が集光ライトで照らす雲梯には、先ほどの首吊り死体はなかった。
「いいかげんな通報してもらっては困りますね。虚偽通報で犯罪にもなりますよ」
私は夢を見ていたのだろうか。警察官も、
「夢でも見たんじゃないんですか。ところであなたは、こんな時間に、なんでこんな所にいるんですか」
警察官は私を怪しみだした。
「そのナップザックの中味を見せてもらえますか」
「これはちょっと」
「別に怪しいものでなければ、堂々と見せてくださいよ」
これ以上、拒否したら、ますます怪しまれるだけだ、として、ナップザックを警察官に手渡した。警察官はナップザックからするすると取り出したロープを私の前で垂らした。ロープの先端は丸くなっていた。
「このロープは何ですか、まるで首吊り用じゃないですか」
私は震えているだけだった。




