何かの縁
(神様の言う“遊び”って一体何なんだろう…)
光希は翌朝になっても、ぼんやりした頭で昨日のことを考えていた。
まるで夢幻のような一日だった。この世の生き物ではないものに、二回も出会ったのだ。ただ、カヤノと呼ばれた女神が、光希を我に返らせたのは事実だった。
あなたと私たちは違う、女神の瞳がそう語っていた。彼女の言うとおり、神様の美しさ、神々しさは最上で、この世の何者よりも優れていた。それを光希たちはたまたま垣間見ただけなのだ。もう気にかけてはいけない、夢の話なのだと、割り切らなければならなかった。そう考えながら、昨夜もぼんやりとした頭で勉強をこなしていたのだった。
玄関のチャイムが鳴った。
光希は思わず時計を見る。
まだ八時過ぎだった。昨日のデジャブのようでどきりとしたが、訪問者を予想できないわけではなかった。
愛子が軽い足取りでやって来て扉を叩いた。
「光希、真人くんが来とるよ」
「すぐ行く」
昨日昼過ぎに神社から帰宅した二人は、大した話もろくにせず別れたのだった。お互いに、何をどう言葉にしていいのか、分からなかったのかもしれない。「凄かった」「感動した」そんな簡単な台詞で片付けてはいけない気がしたのだ。
玄関に立つ真人は、昨日と重なって生き生きとしているようだった。
「おはよう、光希!今から神社に行くけど、一緒に行く?」
「え、もしかして家城神社?」
「まだいるかもしれないだろ、神様」
光希は言葉を詰まらせて、とりあえず外へ真人を連れて出た。愛子には何も話していないためだ。玄関の戸を締めてすぐ、光希は口を開いた。
「関わらない方がいいんじゃない?本当に記憶を消されたりするかもよ」
真人は光希の反応が意外なようだった。
「そんなに悪い奴じゃなかっただろ。名前も教えてもらったし。昨日のお礼もちゃんとできてないしさ」
真人はそう言って、肩に掛けたバッグの中身を開けてみせた。
溢れんばかりのサラミの駄菓子だった。
「貯金箱の小遣い、全部使ったんだぜ」
真人は愉快そうに言った。
光希の脳裏にも喜ぶ風の神の顔が浮かぶ気がした。神聖で無感心そうでありながら、時折豪快に微笑んだりする。個性の面で言えば人間となんら変わらない。
だが、同じくカヤノの鋭い目を、光希は忘れることができなかった。
(根拠はないけど、私はきっと、これ以上関わったらいけない)
光希は一つ大きく息を吸った。
「お礼を言うのはいいことね。もし会えたら、私の分も合わせて伝えてくれる?」
「行かないの?」
「うん。真人だけで行っておいで。でも、何か怖いことがあったら急いで戻ってくるのよ」
「わかった」
真人はとくにこだわりも見せず、くるりと背を向けて駆けていった。未知のものへの好奇心が、きっと光希の何倍もあるのだろう。何も気にせず、気持ちに正直に生きられる年頃が羨ましく思える光希だった。
光希は昼時を除いては自分の部屋で宿題に取り組んでいたが、何度も携帯で時間を確認していた。そして、ずっと耳を向かいの家に傾けていた。どうやら真人はすぐには帰っていないようだった。勉強机からくるりと振り返れば、時計の針はもう三時を指していた。これだけ長い時間子供がじっと神社で待てるとは思えなかった。風の神は現れたのかもしれない。
(大丈夫かな、真人・・・)
光希は天井を仰いだ。使い慣らされた勉強机にベッド、本棚とタンス。ここにあるものは、ほとんど啓介の妹、美鈴が昔使っていたものだった。小物やカーテンで多少可愛らしくは飾っているものの、友達をすすんで呼べるものではなかった。特に趣味もないため、漫画本や文庫本が数冊並ぶだけだった。時間つぶしがない結果、勉強をしているだけなのかもしなかった。昔何回か友達と出かけたときに、お揃いで買ったぬいぐるみが二つ並んで笑っていた。
真人が光希の前に姿を現したのは、それから三日後の朝だった。
光希は結局それまで、真人の音沙汰を知ることはなかった。
わざわざ訪ねていって悠人の耳に入るのも、なんとなく避けたかったのだ。
いつもの八時を回った頃に意気揚々とやって来た真人は、手招きして光希を外へ誘った。
「ねえ、光希も行こうよ!シナト、すごいんだぜ」
「え、あの神様のこと?」
「そうだよ、あの風の神様。家城神社にいるんだ」
「・・・もしかして、あれから毎日行ってるの?真人一人で?」
「うん」
彼はただ仲の良い友達と遊ぶだけのような気軽さで言った。
光希は真人を上から下まで検分する。おかしくなったようなところはなさそうだった。神は記憶喪失だのなんだの言ったものの、真人を狂わせずに返してくれるのだろうか。最初は夢中にさせて、いずれ帰れなくさせるのだろうか。
「・・・大丈夫なの?」
光希は恐る恐る訊ねた。
「良い奴だぜ。色んなところ連れて行ってくれるんだ」
真人と光希は対にいるような気がした。何かと出会ったとき、行動するかどうするかで、きっと人生は変わっていくのだろう。それでも光希は、見ず知らずのものに立ち向かっていけるほどの熱量を持ち合わせていなかった。それはきっと、この世の全てに興味がないからだった。
光希はうっすらと笑った。
「いちおうこう見えて、受験生だからね」
「そっか、勉強があるのか。悠人はサッカーばっかだけど」
「大会が終われば、勉強漬けだよ、きっと」
話が逸れたことに気付いて、光希はひと呼吸置いた。
「あの人は、良くないことが起きるかもって言ってたよ。真人が気付かないうちに、そうなることもあるかもしれない」
光希の心配を多少受け取った真人だったが、それでもにやりと笑った。
「俺はただシナトに会いたいんだ。いつまで会えるか分からないし。それでもし、俺の記憶がなくなったり、頭が馬鹿になっても、俺が決めたことだ。後悔しないよ」
小学三年生とはとても思えない台詞だった。兄二人の影響を受けているのか、またはりくの一件で強くなったのかもしれない。
「心配してくれてありがとう。勉強に疲れたら、家城神社に来てよ」
「疲れたらね」
真人はそれだけ聞くと、軽く手を振って家城神社の方へ駆けていった。
これで日常に戻るだろうと考えていた光希だったが、非現実に引き戻されることになったのはその晩だった。
食事を終え、シャワーを浴びて自分の部屋に戻ったのだが、明かりを付けた瞬間浮かび上がったのは、あの風の神だった。ベッドの上にどっかりと座っている。
思わず叫び声を上げた光希は、愛子が慌てて駆けてくることに一層動揺し、反射的に廊下へ出た。
「どうしたんだい、光希」
「く、蜘蛛が出てびっくりしただけ。どこかへ逃げていったから、もう気にしないで」
光希が暮らしてから今まで、蜘蛛や蛾などは数え切れないほど出ていた。最近は見慣れるくらいになっており、あれほど声を上げることはない。愛子が信じてくれるかどうか怪しかった。
「そうかい、また出てきたら言うんだよ」
「ありがとう」
祖母が居間に入っていくのを見届けてから、光希はそっと戸を開けた。
隙間から見ても、赤髪と金色の衣が煌びやかに見えた。神は一つ大きな欠伸をしていた。なぜ光希の部屋にいるのか、現実に存在する非現実は違和感で溢れていた。
光希は落ち着こうとわざとゆっくり戸を締めながら、
「・・・なぜここに風の神様が」
吐息とともにこぼした。
神は反応する素振りを見せなかったが、耳には入っているようだった。
距離を測るように数歩進んで止まった光希を、神は大儀そうに一瞥した。
「シナトだ。前に言っただろう」
名前を覚えたところで、いずれ忘れてしまうなら何の意味があるのだろう。
シナトは光希の心の声を察したようだった。
「風の神は大勢いる。お前のことを人間って呼んでるようなもんだ」
「たしかに、それは嫌ですね」
人間と呼ばれるのと神様と呼ばれるのとでは受け取り方が違うような気がしたが、これ以上はこだわらないことにした。光希はひと呼吸置いてから、退屈そうなシナトを不思議そうに見た。
「神様は、神社以外にも現れることがあるんですね」
「俺たちは自由だ。いちおう神社に、憑代はあるけどな」
「憑代?」
「そんなことはどうでもいい」
「・・・あなたは私の命を取りにきたんですか」
光希はそっと訊ねた。神がわざわざ神社を離れてこんな所に現れるなんて、そうとしか思えなかったのだ。シナトは足を組み替えてため息をつく。
「忘れたのか。俺に頼んだだろう、母親探しを」
「本当に聞いてくれるなんて思ってもいなくて・・・」
シナトの圧にやや押されながらも、光希は精一杯反論した。
「こんな私一人の個人的な願いを、叶えてくれるんですか?」
「まあ普通は有り得ないな。だが、約束を交わしちまったからな。俺たちには簡単に破ることはできない。言葉は重たいものだ」
「破るとなにか罰があるんですか?」
光希の言葉を受けて、シナトは軽く頭を掻いた。
「さあな。俺たちは誰かに縛られるものじゃない。破ったところで実際は何もないだろう。だが、俺の格が下がる気がしてな。自分に一度でも甘くなればきりがないだろう」
彼なりの信念、理屈があるようだった。
光希が考えていた神様像よりずっと厳格で、この世の人々に近い考えを持っているようだ。それでも、私利私欲を感じさせないところが、どこか人間を超越していた。
「もし叶えば、私は貢物になるんですか?」
「それが条件だからな」
シナトはきっぱりと言い切ってから、光希の心情を読み取ろうと観察する。
光希は動揺一つせず、ただ大きく息を吸っただけだった。
「わかりました。お願いします」
シナトはすぐには反応しなかった。
光希の態度が崩れないのを見て、ようやく腰を上げて光希の前に立った。
「なら、神社へ来い。家は守られている。俺の力はここでは発揮できん」
「じゃあ、どうしてわざわざここまで・・・」
「お前が来ないからだろう。真人は毎日のように来るのに」
「ここを教えたのは真人ですか」
「素直さは子供の取り柄だな」
シナトは満足するように微笑んだ。
「お前はなんだ、何を気にして意思を隠してる。真人のように、正直に生きたいように生きろ」
シナトの言葉は、妙に胸に刺さる。全てお見通しだとでも言うように。
光希は負けまいと見返す。
「あの女神様が私たちに言いたかったことは分かります。神様と人間は違う。本当なら、一生交わることのない存在なんですよね。個人的なお願いを聞いてもらうだなんて、おこがましいですよね、本当は」
シナトがどう考えているか知りたくて、光希はあえて女神の名前を出した。
光希の予想通り、彼は表情一つ変えなかった。
「普通なら、交わらないだろうな。だが、お前らは俺の前に現れた。きっと、何かの縁があるんだろう」
「・・・何かとはなんでしょうか」
「俺が知るわけがないだろう」
シナトはぴしゃりと切ってから、口調を改め感慨深げに言った。
「俺にとっては、お前らの一年なんて何千年のうちのたったひと時だ。人の人生だって、正直どうなったっていい。だが、それでも、お前にとってきっとこの出会いは大きいもののはずだ。俺はきっと、お前の縁に引かれて現れちまったんだろう」
毎月光希が家城神社で願っていたことが、ついに神様まで届いたのかもしれなかった。シナトはきっと、光希の母を見つけてくれる。死んでいるにしろ生きているにしろ、白黒つけてくれるだろう。彼はきっと、そのために現れてくれたのだ。
「お前じゃないです、私にも金子光希っていう名前があります」
「・・・光希ね。明日は来るんだぞ」
シナトはそれだけ言うと、見えない風に乗って姿を消した。
カーテンがふわりと揺れた。