風の神
「でも、どうやって探すの?」
真人が光希の隣で言いにくそうに訊ねる。
神様はこの時初めて、嬉しそうににやりと笑った。
「俺は神だぞ。志那都比古神、風の神だ。まあ見とけ」
彼は両手を袖の中に入れたまま、数歩下がり目を閉じた。
するとすぐに、ふわりと風が吹き抜けていった。
足元から全てを包み込む。しばらくは止まずに、草木をなびかし続ける。
光希や真人にも、この風が自然に吹くものとは異なる気配を感じた。これだけ吹き続けるのもおかしいうえ、風が遠い大地から吹き抜けてきたような、巨大なものに思えた。
目を閉じたままの風の神は、髪や金の衣を美しくなびかせ、ただ静かに立っていた。光希は思わず目を奪われ、陽光を受けてきらきらと輝く水面のようだと感じた。自然と目頭が熱くなるような、この世の不思議そのものだった。これは夢なのではないかと疑うほどだ。真人を見れば、彼も光希と似たような表情を浮かべていた。
風が止んだ。
気付けば神様は瞳を開け、光希たちの傍にいた。
「お前ら、ちゃんと探したのか。犬はこの下にいるぞ」
「下?」
真人が首を傾げて受け合う。
光希は先程の神々しさとかけ離れた彼の態度についていけずにいた。口調はいたって人間そのもの、むしろ言葉遣いは悪い方だろう。
「雲津川だ。参道があるだろう」
光希は当分ここの境内しか訪れていなかったが、存在を知らないわけではなかった。家城神社には、こぶ湯と呼ばれる霊泉があった。まだ小学生の頃、興味本位で悠人らと探検に行った記憶がある。真人ならきっと、ここ数年でも遊びに出かけているはずだ。
「まさか、こぶ湯の道をりくが通ったの?」
真人が驚いた声を上げた。
参道は大きな道ではなく、見つけようと思わなければ見つからないほどの入口だ。飼い主からすれば、りくがわざわざそこを通るとは考えにくいようだった。
「犬にも意思はある。たまには自分で行きたい場所もあるだろう」
三人はそれから、雲津川を目指した。
草木が生い茂る細い道を、かさかさ言わせながら通る風の神を、光希と真人は後ろから見守った。
「神様なら、ぴゅうっと飛んでいったりしないの?」
真人はだいぶ慣れてきたのか、興味津々のようだった。
「そりゃあできるさ」
神様は前を向いたまま無造作に言う。
「お前らの前に降りてこなければ、むしろ常に飛んでいるといってもいい。俺は風だからな。足があってこうやって歩けるなら、たまには人間気分を味わってもいいだろう」
「神様って楽しいの?ずっと飛んでるの?」
「楽しいだのなんだの、そういう次元に俺たちはいない。俺たちはこの大地の一部だ。大地がある限り存在し続ける。ただ、風の神も俺一人じゃない。風にも、色んな風があるからな。俺がここで遊んでいたって、風は吹いているだろう」
「たしかに」
「そんなに神様のこと、私たちに喋ってもいいんですか」
光希は水を差すように言った。風の神は腕を組みながら後ろを振り返り、光希の顔を窺った。
「どうせ記憶を失くすか正気を失うかだ」
神様はからかうように言ってから続けた。
「俺だって、害のある人間かそうじゃないかくらい鼻が利く。本当に賢い奴なら俺の存在を分析にかかるだろうが、お前たちにそこまでの頭はないだろう」
光希は馬鹿にされた気がして面白そうに笑う神を睨んだ。
「もちろんまだ本物かどうか疑ってますからね」
「写真でも撮ってみれば分かる。俺は本物の神だ」
「写真?」
真人が思わず声を上げた。
光希はふと思い出して、ポケットに入れてあった携帯電話を取り出した。
カメラの画面を開くと、立ち止まって神様と真人が歩く後ろ姿を映す。二人は光希の目に見えている通り、画面の中にも存在していた。光希は声も掛けずシャッターを押した。
光希は立ち止まって撮った写真をよく見てみる。
「なにこれ」
思わず声を上げると、真人も聞きつけて駆け寄ってきた。光希は手に持った携帯を少し下げる。
「わあ、きらきらしてる」
写真には、真人しかいなかった。そして、風の神がいるはずの場所には、白く光る玉のようなものが無数に浮かんでいた。まるで魂を絵に描いたようだと光希は思った。だが、見たことがないわけではなかった。それは写真にたまに映り込む白い光に似ていた。小さい頃には心霊写真だのなんだの、悠人たちと騒ぎ立てていた記憶がある。
「・・・神様は、光なんですか?」
「違う違う、俺たちはお前らの見たまんまだ。だが、本来はここの世界とは少しずれた別の次元にいる立場だ。普段のお前ら人間には、俺の姿を見ることはできない。見える奴にとっては、俺たちの持つエネルギーが、そういう光になって見えるらしい」
「エネルギー…」
真人は神の言葉を受け取った。
確かに光は、自ら輝いて見えるような、ただのものではなかった。じゃあ今目に見えている神の姿はなんなのだろうと、光希は首を傾げずにはいられなかった。それに加えて先ほど真人からサラミまでもらっている。実体があるということだ。
「お前らの頭で悩んだって答えは出ないぞ」
風の神はからかうでもなく言った。
光希と真人は目を合わせてから、携帯をポケットにしまって再び歩き出した。
少し歩けばだいぶ下っていたようで、川の音が聞こえてくる。汗ばんだ体に心地よく響く。
森を抜けてすぐにこぶ湯があり、その目の前には大きな雲津川が広がっていた。
(そっか、こんなに大きな川があったんだ)
光希は心の中で密かに驚いていた。小学生の頃の記憶はすっかり曖昧になっていたのだ。むしろ、家城神社と雲津川が繋がっていることを忘れていたのだった。もちろん、白山高校を少し過ぎれば橋が掛かっており、大きな岩が群がる雲津川が見下ろせるのは知っている。ただ、家とは反対方向なため、物心つくと遠のいていったのだった。
こちら側の岸辺に、明らかに異なる出で立ちをした人物がいた。
岸辺にしゃがみこんで犬を抱えている。
「カヤノ」
「あら、シナトじゃない」
真人は目を丸くして見とれているようだった。全身銀色の衣に身を包み、艶やかな黒髪が波の模様を描くように流れる。シナトと同じように真っ白な肌に、凛々しい大きな黒い瞳がのぞいた。耳にも首にも手首にも、翡翠や瑪瑙の珠を連ねている。皺一つなかったが、年齢は不詳だった。
光希は美しいと思ってすぐに、彼女が向けた敵意に気付いてしまった。彼女もきっと、神様の一人なのだろう。風の神と存在感が一緒だった。
「りく!」
真人は銀色の神に撫でられている犬にやっと気が付いたようだった。
りくは名前を呼ばれて反応したものの、その場から動かなかった。
「何をしている、こんなところで」
風の神は腕を組んでため息をついた。
「あなたこそ何をしているの、そこの子供、人間よね」
カヤノと呼ばれた女神は、軽蔑するように光希たちをちらと見た。
「簡単に人間の前に現れるなんてどうかしているわ」
「頼まれ事をされたんだ、どうしようと俺の自由だろう」
二人が並んで話す様子を、光希たちは離れて見守った。向かい合っている神はまるで太陽と月のように、神々しく美しかった。背を向けて帰ってしまいたい衝動に駆られた光希だったが、りくをこのまま見捨てる訳にはいかない。
風の神の説得にかけるしかない。
「その犬、あの男の子が飼い主だ。早く返してやれ」
カヤノはわざとらしくりくの首に手を回した。
「嫌よ。最近シナトが遊んでくれないから、さみしいんだもの。この子は可愛くて素直でいいわ。私たちの世界に連れて帰るわ」
「おいおい、犬なんか連れて行ってどうする、すぐに死んじまうぞ」
「かまわないわ、私の気がちょっとでも晴れるなら」
真人が動揺しているのが分かった。光希は肩に手を回し、引き寄せる。
「大丈夫」
光希は小声で、根拠のない励ましをした。銀の女神は折れなさそうだが、それでも、風の神が負けるとは思えなかった。
赤髪の神は、同じようにしゃがんで視線を合わせた。
「もっと面白い遊び相手を見つけてきてやる」
「シナトが遊んでくれなきゃ嫌よ」
「わかった、遊んでやるから」
この時初めて、カヤノはしてやったりと微笑んだ。
「それならいいわ、犬に用はない」
カヤノが手を離すと、りくはまっすぐに真人の元へ走り寄ってきた。
「りく!」
真人は無我夢中でりくを抱きしめる。
「ごめんな、りく」
りくに顔をうずめた真人は、泣きだしそうな声で言った。
光希は彼の背中を優しく撫でる。
気付けば、風の神が近くに立っていた。
「あいつがここにいると面倒だから、今日は早く家に帰れ。手綱を離すなよ」
真人は立ち上がって向き合うと、意外としっかりした表情をしていた。
「見つけてくれてありがとう、風の神様」
「シナトだ、覚えとけ」
風の神はそう言ってうっすらと笑った。