第二十三話:彼女の欠片
周囲には緊張の糸が張り巡らされている。それは指先を動かしただけで切れてしまいそうな、極めて細い糸。そんな張り詰めた緊張感の中にいながら、その両者は全く異なる表情を浮かべていた。
少女の顔には笑み。それは自らの勝利を確信した余裕からくる、力強い笑みだ。
少年の顔には戸惑い。事態を理解する事ができずに混乱している、そんな思いが見て取れる表情だった。
そして先に口を開いたのは少年、涼の方であった。
「なんなんだ、それは? 何かの手品か? どこからそんなばかデカい鎌が………」
それはほとんど独り言に近い弱々しい問い掛け。そしてこの場にいる誰も答える事のできない疑問。故に誰も何も言わない。再び沈黙が訪れる、その時、
「っ! ぐ…ぅ……!?」
涼が突然、痛みを堪えるようにその場に蹲った。その視線は、変貌した右腕に注がれている。
いや、右腕ではなかった。正確には、その手が掴む一振りの刀だ。
刀はカチカチと音を立てて震えている。だがそれは彼の腕が震えているという訳ではなく、まるで何かに怯えるように、何かに呼応するように刀そのものが震えているかのように見えた。
―――……セ、……ロセ……
ふと、そんな声が耳に届いた。涼の方から聞こえるが、彼の口は動いていない。苦悶に顔を歪ませているだけだ。
―――…殺セ、………殺セ………!
再び声が聞こえる。地の底から響いてくるような、怨嗟のごとき低くおぞましい声。
(まさか、あの刀から………?)
煌夜は直感的にそう思った。あれには元々怪しげなオカルト要素も含まれているらしいし、刀が意志を持ったとしても不思議ではない。
―――殺セ、アノ女を殺セ!
途切れ途切れだった声が、今度は鮮明に、かつ明確に聞こえた。間違なくあの刀から発せられているものだと煌夜は確信した。
「ちっ、うるせえんだよ……」涼はふらつきながらも立ち上がり、「……言われるまでもねェ……殺してヤルさ……絶対に、ブチ殺しテやる……」
「…………?」
気のせいだろうか、低い声でそう呟く涼から、徐々に人間味が失われていっているような気がする。言葉の端々からザラザラとした荒っぽさが目立ち、眉はつり上がり、殺気も更に研ぎ澄まされた鮮明なものとなっていく。まるで、本当の獣のように…………。
「ふん。どうやら鬼神刀に精神も飲み込まれ始めたようだな。膨れ上がった感情が暴走している」
それを眺めていたルミアの笑みが余裕のものから嘲りのものへと変わり、
「まったく、自我を強く保てないからそんな刀に振り回される事になるんだ。情けなさ過ぎて笑えるな」
ギラギラとした暗い殺意をたたえた涼の双眸がルミアを捉える。
「黙れ……すグに、その生意気な口ゴト引き裂イてヤル………」
「ああ。すぐに黙るさ。ただし、黙るのも引き裂かれるのも貴様の方だ、小僧」
そう言って彼女は人差し指自分の方に折り曲げる。挑発のポーズだ。
「かかってくるがいい、雑魚が」
まるで格下の敵を相手にするような挑発的な台詞と動作。何かがブチリと切れる音がした。
「―――ウォオオオオオオオオォォォオオオオオオオオッッ!!」
涼が吼える。助走なしにいきなりトップスピードで駆け出し、赤黒い閃光と化して少女に迫る。
ふん、とルミアはそれを鼻で笑う。そして《死旋律》を前方に構えた。
鬼神刀が横薙ぎに振るわれ、大鎌と赤刃がぶつかり合い、鼓膜を引き裂くような金属音が響き、両者から火花が散る。
「――――ギッ!?」
驚きの声を漏らしたのは涼だった。
獣が放った一撃は、いともたやすく少女の大鎌に受け止められていた。ルミアの顔には一撃を受ける前となんら変わりない余裕が張り付いている。
彼女はやや落胆したように、
「ふん、つまらんな。こんなものか? 鬼人とやらの力は!?」
ルミアが大鎌を振るう。少女の身の丈の倍近くの大きさを誇るそれは見ているだけで死を連想させられる。
「どうしたどうした!? あまりにも力の差があり過ぎてつまらないぞ! あっはははははははははははははははは!!」
右から左、上から下へ。型などまるでない(そもそも煌夜は鎌を武器とした戦法に型など存在するかは知らないが)、無茶苦茶な軌道で振り回される大鎌。煌夜が手にした時に感じたように、見た目に反して重さなどほとんど感じないらしい。
涼はただ殺られないよう逃げ惑う。隙を見つけて攻撃しようとしているようだが、鎌の連撃はあまりに早く、それは叶いそうになかった。
ギィンッ! と何度目かの鍔競り合い。というよりは鬼神刀が《死旋律》を受け止めていると言った方がいいか。一撃を受ける獣の顔は苦悶が満ちている。
「貴様の力量は知れたぞ、小僧。そろそろ終わりにするとしよう」
ルミアの言葉が終わると同時に、ドゴン! という爆音。涼の身体が宙を舞っていた。ルミアが涼の身体に強烈な蹴りを見舞ったのだ。
そして彼女は跳躍。その華奢な身体からは想像もできない爆発的筋力が生み出す跳ねは少年の身体の位置をあっさりと飛び越える。
それを見た少年の顔が絶望に染まる。
「貴様のようなヤツは――――」
死神の少女は鎌を掲げ、
「文字通りのおにぎりにしてくれるわ!!」
振るった。
鎌は少年の胸の辺りを切り裂き、鮮血を吹き出させた。
涼は受け身も取れずそのまま背中から地面に激突し、ルミアは見ていて惚れ惚れするくらい華麗に着地した。
「もっとも、まずくて食えたものではないだろうがな」
そう言い放って彼女は煌夜達の方を向いた。
「ふふん、どうだコウヤ? 私が本気になればこんなものだ」
胸を張りながら得意そうにそう言ってくる。
「ああ、確かにすごいや………そいつ、死んだのか?」
「いや、まだ生きている。一応は手加減したからな。見た目ほどダメージもないはずだ」
倒れ伏した少年からは微かな呻き声が聞こえる。その事実に煌夜は自然と安堵の息を漏らしていた。どんな人間であれ、命を奪うのは彼には抵抗があった。
―――セ、殺セ!
呻き声と重なって再び聞こえる例の叫び。どうやら刀の意識(?)は健在らしい。ルミアはうっとうしそうな視線をそれに向けて、
「やかましいな。まだやられ足りないのか………?」
そう言った彼女の表情が呆気に取られたようなものに変わる。怪訝に思って視線を追いかけると、
「………おいおい……」
涼がまた立ち上がろうとしていた。だが胸からは依然として出血が続いているし、力なくだらりと下げられた両手や生気の失せた顔を見れば、もう彼が戦えない事など一目瞭然だった。煌夜は流石に心配になって、
「いや、悔しいのは分からないでもないけど、もうやめときなよ。これ以上は本当に危ないから……」
だが煌夜の気遣いの台詞は最後まで続けられる事はなかった。何故なら、
「グ、ぅッ!? ゴァアアアアァアアアアァアアアアアアアアアアアアァァァアアアアアアアアァッッ!!」
突然涼の身体は痙攣し始め、眼球が飛び出してしまうのではないかというくらいに目を見開いて絶叫した。そして数人の少年少女がそれを見つめる中、変貌が始まる。
鬼神刀から影が噴き出し、大樹が地に根を生やすように、禍々しい黒の生体装甲が徐々に彼の腕を伝って身体を侵食し、その度に少年の叫びのボリュームが大きくなる。
苦痛のようであり、歓喜のようでもある叫び。
その叫びが終わりを迎える頃には、侵食は止まっていた。
「………これは……」
誰かがそう呟いた。
涼の身体は全身が鋭い突起のついた黒い鎧に覆われていた。辛うじてそれを人間と呼べる部位はもはや露出している頭部のみ。赤い瞳には殺意以外の色はなく、長い尾を引きずったその姿は、まるで邪神のようである。
「…………グゥゥゥゥゥ………」
荒い息を吐いた後に口から漏れ出したのは唸り声。少年だったそれは、完全に戦うための―――いや、殺すための本物の獣と化した。
ルミアが忌々しそうに舌打ちした。
「ちっ、完全に鬼神刀に肉体を喰われたか。面倒な事に………」
そこで、涼の姿は消えた。少なくとも煌夜にはそう見えた。
直後、すぐ近くで金属音。
「なっ……!?」
釣られるように音のした方を向けば、ルミアが獣の一撃を受け止めているところだった。
(全然見えなかった……!)
獣は凄まじいとしか言えない早さでルミアに切りかかった。常人に視認できるものではない。モモもリーナも驚いた顔でそちらを見ている。ルミアの顔にも驚きの色が浮かんでいる。
「くっ、いい気になるなよ屑が!」
彼女は獣を押し返し、大鎌を振るった。だがそこでまたも信じられない光景を見た。
「なにっ!?」
獣はルミアの一撃を鬼神刀であっさりと受け止めていた。しかも先程は両腕を使ってもギリギリだったのが今は片腕一本。それだけ涼の身体が強化された証拠である。
獣はすぐさま距離を取り、鬼神刀を縦横無尽に振る。黒腕は空気の流れを掻き乱し、例の『飛ぶ斬撃』が幾重にもなってルミアに飛来した。
「くっ!」
彼女は《死旋律》を一閃させる。その一振りで数多の斬撃は真っ二つに切り裂かれて消滅するが、討ち漏らした刃が彼女の白い頬を掠め、そこから赤い液体が流れ出た。
「ルミア!」
「騒ぐな! かすり傷だ」
そう返して頬の血を拭う。
その間に獣はルミアへ突進し、彼女もまたそれを迎え撃つべく地を蹴った。
キィン―――大鎌と赤刃が交錯した。と思ったら、獣はルミアの頭上を宙返りするような形で飛び越える。拮抗していた相手の力が突然なくなった事で支えを失ったルミアはたたらを踏んでしまった。
ルミアの背後に着地した獣は全身をねじるようにして彼女に突っ込む。ルミアは振り向くような形で鎌を横に振り払い、二つの武器が火花を散らした。
だが、吹き飛ばされたのはルミアの方だった。全身をバネとして振るわれた一撃は、ただの腕力を用いたものよりも遥かに重く、衝撃を殺しきれなかったのだ。
「このっ……」
ルミアが体制を立て直す前に、再び獣は駆ける。
(まずいな……)
戦いを見ていて煌夜はそう思った。
かつて涼であった獣は、戦うための生物兵器と化したためか、動きにまるで無駄がない。余計な思考に囚われる事もないため、躊躇する事もない。
恐らく、真正面からぶつかり合えばルミアが勝つだろう。それが分かっているからか、獣はルミアを翻弄するように縦横無尽に飛び回り、隙が現れたら切りかかる、という戦法を取っている。このままでは徐々に消耗させられて殺されてしまうだろう。
なんとかしなければ、と煌夜は動こうとして、
失敗した。
(なん………!?)
驚いて自分の身体を見る。煌夜は膝から崩れ落ちていた。
「煌夜! どうした!?」
それを見たモモが駆け寄ってくる。
「いや、なんか、力が………」
何故か身体に力が入らない。頭では懸命に動けと指示を送っているのに、肉体はそれを拒否している。嫌な疲労感とも言うべきものが煌夜にのしかかっていた。
動けない。
「くっ、そ……!!」
こんな肝心な時に動けない自分に歯がみする。悔しさに拳を握るが、それすらも弱々しい。その事に更に苛々が募った。
仮にここで自分が動けたところでどうなる訳でもないかもしれない。
だが、
(それでも、俺は――――!)
その煌夜の表情を見て、
「…………そうか」
そんな呟きがしたと思った時、一つの影が煌夜の横を駆け抜けた。
「ッ!? モモ!?」
モモは無茶苦茶な動きを見せる涼に突っ込んでいた。
正直、何が起こっているのかは理解できない。
涼が変貌した理由だとか、あの転校生の少女は何者なのかとか、疑問は尽きない。
だが、そんな事は些細な問題だ。
あの転校生へ向けた煌夜の顔。
あれは、決意の顔だ。
自分の大事なものを護ろうとする決意を固めた者の表情だ。
ならば、自分のすべき事は一つだ。
「おい、そこの化け物―――」
語りかけながら、モモはポケットからある物を取り出す。
弟が持たせた、『御守り』のあの赤い石だ。
それを右手で握り締め、
「テメェが傷つけてるそいつは、おれの親友の大事なヤツなんだよ――――」
跳び回っていた獣が動きを止め、モモの方を向いた。少女しか映していなかった獣の瞳が、初めて別の存在を捉えた。
「だから――――」
モモは右拳を振り上げる。獣は特に行動を起こそうとはしない。避けるまでもないと思っているのかもしれない。
「そのくらいにしておきな、馬鹿野郎が!!」
右拳が、赤い光を放ち、獣の胴体にぶち込まれた。
そんな事をしたところで、すでに肉体が最大強化された獣には傷一つつけられない“はずだった”。
凄まじい轟音が、炸裂した。
鼓膜が裂けるような壮絶な音。獣の身体はメートル単位で吹き飛ばされ、何度も地面に叩き付けられ、無様に転がった。
「はっ……………?」
有り得ない光景に思わずそんな声が漏れた。残されたリーナやルミアもほうけたような顔をし、モモだけが拳を振り切った形で荒い息を吐いていた。
「………まぁ、なんだか分からんが」いち早く我に返ったルミアが大鎌を握り締め、「よくやったと褒めてやるぞ。赤唐辛子」
獣は動かない。いや、動けないと言うべきか。今の拳によるダメージはよほどのものだったらしく、殴られたか所を押さえて苦しげに呻いている。
「随分とてこずらせてくれたが、これで終わりだ」
ルミアが獣へと歩み寄る。一振りで決着のつく距離まできて、
「手加減などやはり生温かったな。この私に傷をつけた罪、その命を以て償わせてやる」
死刑執行人のごとく、処刑鎌を振り上げる。そして、罪人へ無情な裁きが下される――――
「―――ッ! ルミアっ!!」
その寸前で煌夜は彼女の名を叫んでいた。
「駄目だ、殺すな、ルミア!!」
殺してはいけない。
その言葉を聞いて、彼女の動きは止まっていた。
(殺すな、だと?)
時間が停止したような錯覚を覚える。
何故殺してはいけないのか、彼女には分からなかった。
こいつは自分だけではない、煌夜だって殺そうとしたのだ。それが鬼神刀による感情の暴走によるものだったとしても、こいつはそれだけの罪を犯そうとした。
ならば、やはり今ここで―――――
―――人の命は、尊いものなのだよ―――
そんな声が頭に響いてきた。
(誰?)
実際に呼び掛けられている訳ではなく、“過去にそう言われた事がある”という、“自分の記憶”から呼び起こされる言葉だった。
(誰なんだ、お前は?)
そこまで“思い出せる”のに、それが誰に言われたものだったのかが思い出せない。
ただ、その声は優しかった気がする。
温かかった、気がする。
「ルミア!」
耳に届いたのは、一人の少年の声。微かな記憶の中に残る声と同じ、温かさを覚える声。
「―――ちっ。全く……」
そこでルミアは頭を振って、
「手間のかかる下僕だッ!」
『死の旋律を奏でる』という名の大鎌を振り下ろした。
《死旋律》は生体装甲をやすやすと貫き、獣の胸に突き刺さった。
そして見守る者達の顔が青ざめていく中、それは起こった。
「ゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
痛いくらいの獣の咆哮。それと共にその身体を包んでいた黒い装甲がボロボロと風化したように崩れていく。腕、脚、胴体―――次々と崩れ落ち、最後には元通り一人の人間の姿となった涼が横たわっていた。
突き刺さったはずの胸には傷はなく、規則正しく上下している事から気絶しているのだろうと分かった。
「え、これは………?」
困惑して瞬きを繰り返す煌夜にルミアは少しむくれた感じに、
「《死旋律》は対象に『死』を与える。さっきの一撃でそいつの肉体の中にあった『強化』の力だけに『死』を与えてやったんだ。だからそいつはもうなんの力もないただの人間だ」
『死』を与える、とは、つまり涼の肉体に憑いていた『強化』の力を無力化したという事だろうか?
彼女はやはりどこか不機嫌そうに、
「どうだ、お前注目通り殺さないでやったぞ。ありがたく思え」
ふん、と鼻を鳴らすルミアに、ようやく事態を飲み込めた煌夜が笑いかけた直後、ルミアが手にしていた《死旋律》が、光の粒子となって消えていった。
「あれ、なんで?」
首を傾げる煌夜に対してルミアは対して興味もなさそうに、
「さあな。どうやらまだ力が完全に戻った訳じゃないらしいが、もう今はどうでもいい。腹が減った。帰って飯だ」
いつも通りのハラペコ発言に吹き出しそうになった。
「………あーと、これで本当に終わった、って事でいいのか?」
ためらいがちに尋ねてくるモモに煌夜は首肯した。
「ああ、多分これで終わったと………」
そこで、カタカタッと音がした。
涼の手から離れた鬼神刀が震えていた。
「なんだ? まだ何か………」
その場にいた全員が視線を向けると、鬼神刀から淡い光が漏れ出した。血塗られた兵器から現れたとは思えないほど、優しい光だった。
「これは……?」
漏れ出した光は上空へと昇っていく。先程の《死旋律》と同じく消えてしまう、という事ではなさそうだ。
「………だ」
「え?」
微かな呟きが耳に届き、そちらを見れば、ルミアが光に向かって両手を伸ばしていた。
待ち焦がれ続けたものを掴もうとするように、
「あれは……」
ポツリと、
「私の………記憶だ」
光が、破裂した。
「!?」
気付けば、煌夜は真っ白な場所にいた。
右を見ても左を見ても完全な白。まるで『狭間世界』の対極のような場所だった。
(なんだ? なにが起こった? 俺は確か、あの光に包まれて………)
―――……ね
「ん?」
今、声が聞こえたような気がする。しかしどこを見渡しても自分以外人の姿はそれこそ影も形もない。
「気のせい、かな」
―――……たのね
「?」
やはり声が聞こえるが、どこにも声の主はいない…………
―――今日も来てくれたのね!
「だ、誰だ?」
少しずつ、声がはっきりと聞こえてくる。うろたえながら辺りを何度も見回すと、
「うわっ!?」
世界が激変した。
―――今日は何して遊びましょうか?
―――あははははっ!
―――歌? それってどんな歌なの?
―――ねえ! 今度はいつ来てくれるの?
そんな少女の声と共に、様々な光景が目の前に広がっては消えていく。
その全てには一人の少女が、『誰か』に向かって、楽しそうに、幸せそうに語りかけている姿が見えた。
(なんか、こんな事前にもあったような気がする!)
グルグル回る世界に翻弄されながら、煌夜は最終的に一つの場所に辿り着いた。
「こ、こは?」
まず見えたのは、晴れ晴れとした青空。
次に見えたのは、綺麗な緑の草原。
そして、最後に見えたのは、その広々とした草原に一人佇む、少女の姿。
「ルミ、ア……?」
その少女は、ルミアの姿をしていた。
妖精のような整った顔立ちに、黒くて長い艶やかな黒髪。身に着けているのは純白のドレス。
そんなルミアが、煌夜が見た事もないような穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
自然と足が彼女の方へ進もうとして、
『駄目だよ、煌夜』
そんな声に引き止められた。
『それ以上は駄目だ。あまり近づき過ぎると、『彼女』の記憶に取り込まれて、二度と戻れなくなるからね』
ルミアではない、男の声はそんな事を言う。煌夜は振り返った。
そこにいたのは青年だった。思わず目を細めてしまいそうな眩しい輝きを放つ見事な金色の髪。風に煽られて後ろで細く縛ってあった金尾が揺れた。身に着けているのはまるでどこかの貴族が纏いそうな、上品さの窺える蒼天の衣。
だが、確認できたのはそこまでだった。
その青年がどんな顔をしているのかが全く見えない。距離が離れているという訳ではない。数歩で詰められる距離だ。視認できないはずはない。
金の前髪は自分同様長いが、それで隠れている訳でもなく、まるで絵に表情を書くのを忘れてしまったかのように表情はなく、ただ三日月型に裂けた口が書かれていた。
え? 新手ののっぺらぼう? と若干引いてしまいそうになる煌夜に対して青年は言う。
『ああ、そんなに怖がらないで。少々君に伝えたい事があったから、ちょっと無茶な方法で今私は“ここ”にいるんだ。容姿が不完全に見えてもそこは容認してほしい』
「伝えたい事?」
青年は頷いた。
『そう、ちょっとした助言さ。君が……君達が、この先に進むにあたっての、アドバイスだよ』
? と首を傾げる煌夜に青年は微笑みを浮かべて、
『君は『彼女』の“欠片”を手に入れた。それはとても小さなものだが、君達にとってはこれからの道を左右するとても大きなものだ』
顔のない青年は煌夜を指差した。
『いいかい、もし君が、これからも『彼女』と共にある事を望むのならば………いずれ巡り逢う『彼女』の“欠片”を、一つ残らず、見落とす事なく全て手に入れるんだ』
静かに紡がれる言葉に対して、煌夜は問いかける。
「ちょっと待ってくれ。いきなりそんな事言われても訳が分からないよ。欠片? それに『彼女』っていうのは………」
だが煌夜の言葉はそこで止まる。
ピシリ―――空に、亀裂が走った。
いや、空だけではない。草原も、青年も、ルミアの姿をした少女も、視界に写る全ての景色がひび割れていく。
『ふむ………どうやら、せっかくの対面もここまでのようだね。“欠片”の空間が崩壊を始めた』
自分の身体が砕けているにも関わらず、青年の声は落ち着いたものだった。
『まあ、伝えるべき事は伝えたし、今回のところはこれでいいか。では煌夜。また会おう』
「待っ……お前は一体………!!」
伸した手は空を切り、その世界は砕け散った。
「――――や、煌夜!!」
そんな聞き慣れた声に意識を引き戻された。
「おい、大丈夫か?」
モモが心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
「モモ……? あれ、俺は………」
キョロキョロと周囲を見回せばそこはあの公園だった。どうやら“戻って来た”らしい。
「なんだったんだろうな、あの光。急に爆発したと思ったらそのまま消えちまうしよ」
「うぅ、目がチカチカするっス………」
リーナもフラフラしながら歩いてきた。どうやらこの二人は『あれ』を見ていないらしい。煌夜は曖昧な笑みを浮かべた。
「そうだ、ルミアは………」
はっとして少女の姿を探せば、すぐ近くで彼女はへたり込んでいた。
「ルミア? どうした?」
何かあったのかと心配になって彼女に近づくと、
「ふ………あははははははははははははっ!」
「おわぁ!?」
唐突にルミアに飛びつかれた。自分より小さな少女に抱きつかれて煌夜は瞬きを繰り返す。彼女は輝かんばかりの笑顔を炸裂させていた。
「やったぞ! ほんの少しだが、記憶を取り戻した! 私が私である理由を、一つ取り戻せた! ああ………」
そこでまた彼女はその場にへたり込んだ。
黒曜石のような瞳には、涙が浮かんでいた。
「よかった……私の記憶は、永遠に失われた訳ではないのだな……。本当に、よかった………」
涙を零しながら小さく言葉を漏らす少女に、煌夜は目を丸くした。
そこまで、不安に思っていたのか。
いや、考えてみれば当然なのだろう。自分を自分だと認める事ができない、というのは煌夜には想像もできないほどの恐怖だ。
失ったものが大きいほど抱く不安は大きく。
取り戻したものが大きいほど抱く喜びも大きい。
煌夜は彼女の頭をそっと撫でた。
今は、喜ぼう。
こうしてみんな無事だった。ルミアも記憶を取り戻した。
だから、今はただ喜ぼう。
様々な謎を残す中、煌夜はそう思った。