第二十話:二つの日常が交わる時
モモ、リーナの二人は平日の街を歩く。歩くと言ってもリーナの鼻が頼りなのでモモは自然と後からついていく形になる。
「しっかしよー」とモモは欠伸を噛み殺しながら、「……なんつーか、こうして周り見ると、今このここが大ピンチになりかけてるなんて嘘みたいだよなぁ」
空を仰げば綺麗な青空が視界いっぱいに広がり首を巡らせれば平日だから人の姿もあまり見ない。…………あまりにもいつもの光景すぎて正直実感が沸かなすぎる。
「そっスね。まあそれ抜きにしても、世界の危機はちょいと大袈裟だったかもしんないっスね~。『鬼神刀』って、ほっとけばただの刀らしいっスし」
「あ? そうなのか?」
リーナは頷く。
「ハイっス。ウチの祖父の話だと、手にした者に絶大な……それこそ世界を破壊しかねないほど力を与えるって話だったっスから、用は誰も触らなきゃいいだけの話っスよね?」
確かに、鬼神刀がリーナの言う通りの代物ならばその理屈は通る訳だが、
「んじゃああれか? 誰にも触れられずに置いてありゃ万事解決って訳か?」
「まあそういう事っスね」
なんだそりゃー、とモモは若干拍子抜けした。もっとこう、未知との遭遇!! みたいなのを少しばかり期待していたからだ。
「なーんかつまんねぇなー」
「いや、なにを期待してるんスかなにを………?」
そこまで言ってリーナの口が止まる。いや、口だけではなく身体の動きも止まっている。
「? どしたよ?」
モモの問い掛けに彼女はわなわなと全身を震わせる。まさかもう見つかったのか? とモモは思ったのだが、
「な、なんスかこの食欲をザックザク突き刺してくるようなカヲリ(発音注意)は………はっ! あそこだ!」
人差し指を前方にビシィ! と突き出す。
なんだなんだと少女が指し示す方に視線を向けると、一軒の牛丼屋を発見した。
「………いや、お前わりと朝メシ食ったばっかだろうが」
そろそろ時間的にコンビニ以外のお店も営業活動に入り始める頃ではあるが、たとえ目の前に牛丼屋があろうがアイスクリームショップが開かれていようが今の自分達にはこれっぽっちも関係ないはずである。冷ややかな視線を送るモモにリーナは両手を合わせて、
「モモさん、寄っていきましょう!」
「却下」
「なーんーでーっスかー!?」
まるで子供(実際子供だが)のように駄々をこねる犬娘。
「なんでってなぁ、おれら急いでんだろ? 拾われたらマズいんだろ? 世界の危機なんだろぉ?」
「大丈夫っスよどうせ誰も拾ってねーっスそれよりもホラホラまだ見ぬ珍味を求めてレッツゴーっス!」
「お前完全に最初の目的忘れてんだろ。だいたいテメェ犬だろ? タマネギ抜かなきゃ食えないうえに牛丼は犬には塩分高すぎるからできれば食わねぇ方がいいんだよ」
「大丈夫獸人って半分くらい人だから犬畜生にはムリでも私ならばきっとイケる!」
「気がついてないなら指摘するが今お前自分の存在半分畜生呼ばわりしたよな?」
ミニコントのようなやり取りを一通りしてからモモはちょっと嘆息して、
「そもそも、お前金ねえだろ」
ズバリ指摘してやった。
「……………………あう」
服は貸してもらってもお金は貰っていないリーナは物が買えない。買うとしたらそれはモモの許可を貰ってからだ。リーナもその事にようやく気がついたらしいが、それでも諦めきれないらしくその表情は未練100%でできていた。モモ、再び嘆息。
(……つーかこのキラキラおめめの犬女どうするよ? 牛丼屋行くって言わなきゃテコでも動かなそうだし………)
実際、鬼神刀が今どんな状態にあるのか分からない以上、あまり無駄な時間もかけていられないのが現状だ。さっきはついつまらんとか口走ってしまったが、よくよく考えればとってもマズい状況なのである。しかし探すにしても肝心のリーナがこれではどうしようもない。取り敢えずは彼女を説得して、
(いや、待てよ? 説得?)
そこまで思考してから、ピーンとモモの頭上に豆電球が浮かぶ。
「なあワンコ、牛丼、食いたきゃ食ってもいいぜ?」
モモのその一言で俯いていた頭がガバッ! と持ち上がる。物理的に光ってんじゃね? ってなぐらい輝いて見える瞳をこちらに向けて、
「マジっスか!!」
「ああ、ただし鬼神刀見つけてからな。すぐに食いたきゃさっさと見つけて回収を目指せ」
小学生のいる家庭などでよく見られる成績アップ法『物で釣る』を使用してみた(欲しい物があるなら○○点目指しなさい的なやつだ)。すると案の定、
「っっっしゃ―――――ッ!! 唸れ我が鼻!! すぐにでも発見&食!! まだ見ぬ珍味が我を求めておるわうふあはははははははははははははははは!!」
なんかキャラが崩壊するほどやる気にみち満ちていた。……………小学生並に単純なヤツだなと思う小学生以下の短気さんなモモである。
それじゃ行くか、と口を開こうとして、
瞬間、平和な世界は終わりを告げた。
「はははははははは………って、モモさん? どうし」
と、リーナの口もそこで止まる。変わりに鼻をひくひくさせてから、
「も……モモさん……」
「ああ、分かってるよ」
表情をこわ張らせるリーナに対し、モモはやや引きつった笑みをもって応える。
わざわざ指摘されるまでもない。あまりにも唐突に、不条理に、自分達が身を置く『平和』という居場所は『異常』に塗り替えられたのだ。
二人はゆっくりと振り返る。
「あっ………!」
リーナが小さく声を上げた。
二人の位置からざっと四メートルほどの距離。そこに一人の人物が立っていた。
少年だった。モモと歳はそう変わらないだろう背格好に、チェーンを主な装飾とした紺色の上下の服装。髪は気味の悪い白に染めてある。そこまではいい。
問題はその右手。
遠めでもはっきりと分かるくらい目立つ物を手にしていた。
――――刀、だった。鞘に収めてもいない、抜刀状態の刀。
それも時代劇などで見掛けるようなただの刀ではなく、鮮血を連想させる禍々しき赤色の刀だ。刀なんて現物を見るのは初めてだが、あの赤い刀身の異様さはそんな思いすら霞んでしまう。
そして、それ以上にモモを驚かせるのは、
(すげえ敵意……いや、もうここまでくると殺気って言った方がいいか)
しょっちゅう不良達からの敵意に晒されてきたモモだからこそ、常人よりもそれを敏感に感じ取る事ができる。空気そのものが怯えているかのようにビリビリと震動し、鋭い刃を喉元に突き立てられたような息苦しさがある。まさしくこれは殺気だろう。
モモが隣りの少女に尋ねる。
「おいワンコ、あれがお前の言ってた……」
リーナは重々しく頷いた。
「………『鬼神刀』っス」
そうか、とモモ舌打ち混じりに呟いた。
誰にも拾われていなければそれで済む―――そんな楽観的な考えは甘過ぎた。もう脅威は目と鼻の先にある。モモは静かに決意し、
「………行くぞ」
「へっ?」
リーナの手を引いて走り始めた。
あの少年に背を向けて。
「ちょ、待ってくださいっス! アレをほっといたらマジにヤバいんスよ! 逃げるのは―――」
「逃げるんじゃねえ! 場所を変えるんだよ! ここじゃ誰かの目につく可能性もある。とにかく一旦人目のないとこまで移動すんだよ!」
「え、それって、」
ああ、とモモは頷く。
「あの野郎、理由は知らねえが、どうにも狙いはおれららしいからな」
モモは断言する。あの狩人の視線は、確実に自分達に向いている。獲物は、自分か、リーナか。あるいは両方という事も有り得る。狙いが分からない以上、リーナを逃がして自分一人で対処するという手は使えない。
ちなみにモモは警察などに頼る、という考えは浮かばなかった。もし警察にリーナの事をあれこれ訊かれたら、なにかまずい事になるような気がしたからだ。そもそも犬耳と尻尾が直に生えているという時点で色々アウトだと思う。最悪未確認生物として捕獲された後解剖なんて事になればそれは悲劇だ。
なのでとにもかくにも、
「今は、走れっ!!」
二人が辿り着いたのは広々としたとある公園だった。昨日モモが数多のヤンキーをケチョンケチョンにのした場所である。持って帰るのが面倒だったのか、はたまた回収も忘れてしまうほどのダメージだったのか、園内には釘バット金属バット(もしくはその残骸)が無造作に転がっていた。
「ここなら、人目につく事もねえはずだ」
だいぶ走ったがモモは微塵も疲れていない。隣りにいるリーナは息切れもしていない。意外と体力はあるらしかった。
と、そこで、
「鬼ごっこはお終いか?」
そんな冷たい声が二人の耳に飛び込んできた。
振り返れば、あの少年が立っていた。その顔には声同様冷たい笑みが張り付いている。
「ああ、取り敢えずはな」いつでも動けるよう身構えつつ、「次はクエスチョンタイムだ。テメェに幾つか質問に答えてもらうぜ」
「質問?」
ああ、とモモは頷く。
「一つ目、テメェは何モンだ? その刀をどこで拾った?」
その問いに、相手の少年はくだらない質問だとでもいうような調子で答える。
「名前は河村涼、海星高校二年だ。この刀はウチの学校のグラウンドの隅っこで見つけたんだよ」
「海星高校……はっ、よりにもよってそんな所に落ちてたのかよ」
海星高校は遥崎市の中ではそれなりに知名度のある学校だった。ただし、悪い意味でだが。
とにかく悪評が絶えない。この辺りで起こる少年犯罪は全てそこの生徒だという話もある。というか実際、モモが毎回相手にしている不良の十割が海星高校の生徒である。
そんな連中が強大な力を得たら………答えはおそらく目の前の少年だ。
「んじゃあ二つ目。テメェはおれら、もしくはどっちか一人を狙ってるんだよな? そりゃなんでだよ?」
これには少年―――河村涼は感心したような声を上げた。
「へぇ……すげえな。俺の殺気に真っ先に気付いたのはその女よりもお前みたいだったし、流石は百戦錬磨の『赤鬼』ってとこか」
「おれを知ってんのか」
「ウチじゃ有名だぜ? 鬼みたいに強いヤツが地元にいるってな。何人かのグループのヤツらはお前をぶちのめす事を目標としてるみたいだし」
これにモモは顔をしかめた。
「うっわ嬉しくねえ……あいつら煙草臭ぇんだもんなー………。んで、その口振りからすると狙いはおれか?」
「お前だけじゃない。そっちの女もだ」
刀の切っ先をリーナへ向ける。怯えているのだろう、彼女は少し体を震わせた。
「理由は?」
モモは涼から目を離さないよう努めつつ問い掛ける。
「理由、ねえ」
涼は少しの間を置いて口を開く。
「強いて言うなら“こいつ”かな」右手の刀を掲げながら、「“こいつ”を持つ右手が疼くんだ。そして“こいつ”は俺に言う。『その女を殺せ』ってな。信じられねえだろ? 刀が喋るんだよ。俺の頭の中にだけ聞こえる声でな。これがその女を狙う理由な」
「………それ、ただの刀じゃねえらしいぜ?」
「知ってるよ。こいつにはすげえ力がある。こうして持ってるだけで力が溢れてくる。今ならなんでもできそうだ。なんでも殺せそうだ。例えば、百戦錬磨の『赤鬼』とか、な」
モモは重々しく息を吐く。
「………それがおれを狙う理由、か」
「そ。だってこれだけの力、試さない手はないだろ? そういった意味じゃ、お前はうってつけの相手だって事だ」
涼はおかしそうに笑う。小さな子供のような純粋さを感じさせる笑みだが、それはどこまでも暗い狂気に染まっていた。
(………ったく、なんつー理由だよおい)
なんて事はない。この少年は『面白そうだから殺してみよう』、『殺せそうだから殺してみよう』と、そんなつまらない理由から殺人鬼と化そうとしているのだ。
(くだらねえ……)
本当に、くだらない。
命は一度失えば二度とは戻らないのに。
失ってしまったものの重さで、苦しんだヤツだっているのに。
なのにこの野郎は。
「……まあ、テメェがどこまでイッちまおうがおれにはどうでもいいし知ったこっちゃねえけど」
苛立ちを込めて頭を掻きながら、
「アレだ、テメェも感じてるように、そいつは普通じゃねえ。すっげー危ねえんだ。いや、刀なんて元から危ないとは思うけど、そいつはさらに危ないんだよ。だからそいつをこっちに寄越しな。そうすりゃテメェには何もしねえでいてやる」
モモのその言葉に涼は見下しきった笑みを浮かべながら答える。
「何もしないでいてやる? 面白い事言うな。それじゃまるでお前が俺に勝てるみたいな言い方じゃねえか」
「ゴチャゴチャうるせえよ! 渡すのか? 渡さねえのか!?」
モモの“本気の”叫びにリーナは再び大きく体を震わせたが、モモは気にしなかった。一方涼は変わらずの様子で、
「――――断る」
あっけなく言い放った。
「……そっか。んじゃあ―――」
モモは近くに落ちていた金属バットを拾いあげ、感触を確かめるように数回握る。
「―――こっからは鬼退治だぜクソ野郎ッ!!」
咆哮。それと同時に地面を蹴る。数歩で間合いを詰め、金属バットを振りかぶる。狙いは涼本人ではなく彼の持つ鬼神刀だ。刀がどれだけの強度なのかは知らないが、少なくとも自分が武器を使って全力でやればへし折れるという自信がモモにはあった。取り返せないならぶち壊す。そうすべきなのだと判断した。あの刀さえ無力化してしまえば後はどうとでもなるはずだ。
そして金属バットが振り下ろされ、刀の側面にぶち当たった。
ギィンッ!! という甲高い音が周囲に響き渡る。
「…………なっ…!!」
だが、先に声を漏らしたのはモモの方だった。
刀には確かに命中した。だが、へし折るどころか傷一つついていない。
更に驚くべきは、自分の全力の一撃を受けておきながら、刀も涼本人もまるで微動だにしなかった事だ。よろめく事もなく、むしろ仕掛けたモモの腕の方が痺れてしまっていた。
「おいおい、何のつもりだそりゃ?」
驚愕のあまりに硬直しているモモに涼は笑う。
「こいつをへし折れば、とか考えてたか? だとしたら残念だったな。俺を倒したきゃ頭でも狙え!」
「っ!」
涼は鬼神刀を真横に振る。すかさず鉄バットで防ぐが、想像以上の凄まじい力が込められたその一撃は少年を数メートル吹き飛ばした。地面をごろごろと転がり、擦り傷だらけになりながらもなんとか立ち上がる。
「痛ぅ……なんつー馬鹿力だよ。人の事言えねえけど」
「モモさん!! 大丈夫っスか!?」
リーナがモモへと駆け寄って来る。その顔は真っ青になっていた。問題ねえよ、とモモは吐き捨てるように答える。
「ちょいとキツいなこりゃ……おいワンコ、お前戦闘経験は?」
「ぜ、全然。食後のデザートの取り合いがせいぜいっス」
「どっか行ってろマスコット」
ええ!? という彼女の叫びをモモは無視する。だがこの状況、戦えないなら安全なところに逃げるなり隠れるなりするのがベストだと思う。動けなくて巻き込まれました、では済まないのだ。
「そっ、そんな。そもそもこれは元々モモさんには関係のない事っスよ。なのに、私だけ逃げるなんて……」
「文句があんならそのガクガクしてる足の震動止めてからにしろ」
「わ、わふっ?」
自分の両足を押さえるリーナを一瞥し、モモは再び涼へと突っ込む。彼は心底楽しそうに口の端をつり上げる。
「いいね。そうこなくちゃな。ビビって逃げてるテメェを切っても面白くねえからなぁッ!!」
彼はだらりと下げていた鬼神刀を振るう。真正面から受け止めれば再び吹き飛ばされるのでモモは必然的に刀を受け流す形で対処する。
「おらおらおらァッ!!」
「くっ!」
右から左へ、上から下へ。型などまるでない無茶苦茶な軌道で迫る刃の嵐。金属が奏でる不協和音が鼓膜を打つ。
(ちくしょう! 受け流してるはずなのに! 一撃一撃が重過ぎんぞ! このままじゃ腕も武器もぶっ壊れる! どうする、どうすりゃいい!?)
認めたくはないが、既に限界が近付きつつある。このままだと殺されるのは時間の問題だ。
「ッ!!」
赤刃が頬を掠めた。そこに一筋の線が入り、赤いものが頬から流れ出る。
(考えろ……!!)
モモは思考する。どうすればこの状況を打破できるのかを。
既に所々がへこんでしまった金属バット。彼本人が言ったように、これを涼の頭に打ち込めばそれで済む事には違いない。
だがそれではただの殺人だ。目の前の少年と何も変わらない。正当防衛なんて理由で自分を正当化できるような精神はモモにはない。それに元々武器なんて慣れない物を使っているのは、あの刀を壊すためだったのだ。決して相手を殺めるためではない。
故にこれを使っての直接攻撃はなしだ。
となれば、残す武器は己の拳のみ。
(一撃だ。一撃でいい。なんとか顔面とかにぶち込められれば………!)
そう思うのだが、そんな隙を与えてくれるような相手ではない。この連撃の中をかいくぐって拳を打ち込むのは至難の技と言えた。
そして、ガギィンッ! と甲高い音が響き渡った。
ついにモモの腕から金属バットが離れ、大きく後方に吹き飛ばされたのだ。
「――――っ!」
モモの心臓が凍り付く。涼は笑みを浮かべたまま、
「――――終わりだ」
死の宣告。その直後に振り下ろされる赤き刃。
(ここまでか………!!)
生まれて初めて、モモは自分自身の『死』を意識させられた。『死』という恐怖が、彼の前身を侵し、急激に体温を奪い去った。
だが、刃が振り下ろされる事はなかった。
何故なら、
「はいそこでストップ!!」
リーナが涼の右腕に、まるで柱にでも抱き着くような形でしがみついていた。そして、今まで無視してきたもう一人の獲物のまさかの反撃に、狩人は一瞬体の動きを止めていた。
「!? 邪魔―――」
涼がリーナを引き剥がそうと左手で彼女に掴み掛かろうとする。彼の腕力ならば、あんなか細い少女などあっさりと吹き飛ばしてしまうだろう。
「―――!!」
だからこそ、モモはすぐさま己のすべき事を実行するべく、拳を握る。散々恐怖で震えていたリーナが見せた、確かな勇気に答えるために。
「オォオオオオオオオオオオオ!!」
絶叫。少女に気を取られていた相手の少年がこちらを向くが、気付いた時にはもう遅い。
正真正銘、少年の全力の右拳が発射され、涼の顔面に突き刺さった。
「も、モモさん……自分、頑張ったっスよー……あー、超怖かった……まだ心臓バクバクいってるしー……」
「ああ、上出来だぜワンコ」
満身創痍で会話を交わす二人の前には、気絶している涼が倒れ伏していた。まるで彼の執念が表れているかのように右手には未だ鬼神刀が握られているが。
「マジに死ぬかと思ったけど、これでなんとかなったんだよな?」
「そうっスね。後はあの刀を回収すればOKなはずっス」
それを聞いてモモは胸を撫で下ろす。流石に疲れた。しばらくは喧嘩とかは忘れて飯食って眠りたい。
「あー、飯って言えば腹減ってきたなー」
モモの言葉にリーナが疲労を全く感じさせないキラキラ光を放つ瞳を向ける。
「おお! ついに、ついにまだ見ぬ珍味が我が口の中へ!?」
「珍味って……あー、牛丼か。そだな。食ってく食ってく。つーか食わせてやるよそんくらい。美味い飯食ってついでに生きてる喜びも一緒に噛み締めようぜ」
「さんせーい!」
リーナ、元気いっぱいの挙手。その微笑ましい姿にモモは苦笑する。じゃあとっとと拾って行くか、と言おうとした時、
「随分と平和そうな会話してるな、お前ら」
そんな声が耳に届き、モモの笑みが凍る。
見れば、気絶したはずの河村涼がゆっくりと起き上がっているところだった。
二人は慌てて距離を取り、身構えた。だが身構えたところでなす術はないに等しい。モモは体が、リーナは心が既にボロボロなのだ。
(コイツ、確かに当たったはずなのに……!)
「いや、やっぱお前すげえわ」
涼は鼻血を拭いながら言う。
「今の今まで本当に意識が飛んでたよ。まさかほんの少しとはいえ、今の俺を気絶させるなんて、流石としか言い様がないわ、本当。誇っていいぜ? そこらの雑魚どもじゃ気絶どころか十秒も保たないだろうしな」
彼は笑っているが、その声には隠し切れない怒りがにじみ出ていた。自分は最強なのだと、勝てる者など一人もいないという自尊心を僅かながらも揺るがされた事が、彼には許せなかったのだ。
涼は暗い笑顔のまま、
「気絶の礼と言っちゃなんだが、少しだけ……ほんの少しだけ、本気になってやるよ」
「なん、だと?」
モモは困惑した。本気? まさかあれで、本気ではなかったというのか?
だがそこでモモは思い出した。リーナが鬼神刀についてなんと言っていたかを。何故自分達がわざわざあの刀を回収しようとしたのかを。
世界を破壊しかねない力。
あの刀にはそれがある。
それが、あの程度であるはずがなかったのだ。
「ハァアアアアア……!!」
小さく、力強く息を吐き出す。そして、変化は起きた。
鬼神刀から影が噴き出した。見ているだけで顔をしかめたくなるような、おぞましい黒色の影だ。影は涼の右腕に蛇のように巻き付き、次の瞬間には彼の右腕は変貌を遂げていた。
刀と同じく、血を連想させる赤色の長い爪。それ以外の腕の面積を覆い尽くすのは鋭い突起のついた禍々しい黒き生体装甲だ。挙げ句の果てに、彼の黒っぽかった瞳まで灼熱色に染まりきっていた。
「…………っ!」
リーナが小さく悲鳴を上げる。一方のモモは、
「………はっ、なんだそりゃ。ほとんど化けモンじゃねえか」
モモはただ弱々しく笑う。その態度に涼はやや意外そうな顔をする。
「驚かないのか?」
「さっきから驚きっぱなしだよバカ」
もう笑うくらいしか自分にはできない。そんな錯覚さえしてくる。
「つまんねぇな。さっきよりも更に強くなってんだぜ? もう少しいいリアクション返せよ。つっても、俺もようやく力の使い方が分かってきたって感じなんだが……さて、」
涼はそこで一度言葉を区切ると、スッと目を細めた。
「せいぜい頑張って足掻いてくれよ? 長生きしたけりゃな」
一瞬だった。
一瞬で涼はモモに肉薄した。狂人の狂笑が眼前にある。
「く―――っ!!」
ほとんど闇雲に、勘に頼り、真横に転がるように跳んだ。
すると、背後からゴォォンッッ!! という壮絶な音がした。
つき動かされるように首を向ければ、有り得ない光景が目に入った。
ブロックの敷き詰められた地面が抉れ、土がむき出しになり、巨大な爪痕が出来上がっていた。
「………っ!」
その巨大な爪痕にモモは息を飲み、目を見張った。ありえなかった。これにどう勝てというのだ。
「よしよしよく避けたな。まあ、俺がゆっっっくりと動いてやったおかげだけど」
涼はむかつくくらいの余裕たっぷりの台詞を吐く。彼は自信に満ち溢れた様子で、
「そうそう、俺も今知ったんだけど、こいつにはこんな事もできるらしい、ぜっ!!」
涼の呪われた右腕が上から下へと振り下ろされ、そこから生まれる斬撃が空気を切断し、『飛ぶ斬撃』と化してリーナへと襲いかかる。
「あ――――!!」
リーナは動けない。モモでさえもとっさの事に対応しきれない。
その場にいる誰もが少女の命がそれで終わりだと思った。そう、
「なにをやってんだよ―――――モモっ!」
そんな声が飛び込んでくるまでは。
声の主は勢いよく駆けてくると、そのままリーナをかっさらう。突然の乱入者の登場により、斬撃は空しく空を切った。
乱入者とリーナは地面を転がる。そして二人はゆっくりと起き上がり、
「ふー……なんとかセーフ、だよね?」
やや緊張感に欠ける、聞き覚えのある声。そこでようやくモモはその乱入者を確認できた。
見覚えのある制服に長めの前髪。忘れるはずもない。
「―――煌夜っ!? お前、なんでここに!?」
モモの唯一無二の親友、天神煌夜だった。彼は大丈夫? とリーナに怪我がないかどうかを確認するとモモの方を見て、
「その質問はまた後で。っていうかモモ、お前がいながらなんだよこの有様は? なんか物凄い事になってるけど」
「いや、なにって……」
「あ、あと、俺一人じゃないぞ」
なに? とモモが首を傾げると、
「ルミアキッ―――ク!!」
「ぐおっ!?」
涼と、リーナとは違う少女の声が聞こえてきた。
見れば、涼が頬を押さえながら倒れていて、あの転校生の少女、ルミアがやけに勝ち誇った姿で立っていた。どうやら彼女が涼を蹴り飛ばしたらしい。
黒髪の少女はこちらを振り向くと、
「はーはっはっは! 喜べ赤唐辛子!! このルミア様が直々に助けてやろう! 存分に感謝しろ!! むしろ土下座して滝のような涙を流しながら賛美しろ!!」
ビシィ! と指を突き付けながらそんな事を叫んだ。というか赤唐辛子ってなんだ。それはもしや自分の事を言っているのか。
モモが半ば呆然としていると、
「さってと。モモ、こんな面倒そうな事さっさと終わらせよう。今度は二人だけじゃない。俺達も一緒だ」
リーナを立たせながら煌夜がそんな事を言う。
二つの日常が、今ここに交わった。