第十七話:とある一日 ~少年Bの場合その一~
時はすでに夜の八時。とあるお家の一室には一組の男女の姿があった。男女、と言ってもその二人はまだ少年少女の範疇に入る。少年の方は椅子に座ってあぐらをかきながらただひたすらに少女を見つめ、見つめられている少女の方は恐らく少年の物であろうベッドに横たわっていた。その瞼は固く閉ざされているが、それは安らかな眠りによるものだった。
真っ赤なツンツン頭に着崩した学生服姿の少年の名は百田太郎。
そして茶髪に獣―――恐らくは犬―――の耳を生やし、所々がほつれ気味の毛布を纏っている少女の名は………分からない。まだ聞いてはいないのだから分かるはずもない。
「……………生えてるよなぁ、やっぱ」
一人ポツリと呟いて、少女の犬耳(?)に手を伸ばす。自分なりに優しいと思える強さでそれを摘んでフニフニと揉む。以前近所のワンちゃん相手に感じた、顔が綻ぶような柔らかさとあたたかさが指先から伝わってきた。
…………………念のため言っておくと、モモがあまりにも動物好きだからこの犬少女を自宅に拉致監禁したとか、そういう訳では断じてない。モモは本物の犬に萌えても犬っ子には萌えない。
ただ道端でこの少女が倒れていたので助けようとしたら何やらでっかい猫野郎に襲われたもののそれを撃退してそのままよっこらせと彼女を自宅に連れ帰って今に至る訳だ。
……………今日一日の主な出来事を一言で言えばこんな感じだが、こんな話中学生でもしないとモモは思う。だが、誰が信じなくともここに助けた彼女がいる事が現実である。モモの勝手な妄想などではない。
「………つーかいつまで寝てんだこの女は」
ため息混じりにモモは呟く。連れ帰って来てから一向に目を覚ます気配がない。母親から押しつけられたトレイに乗っている少女の分の夕食もすっかり冷めてしまっていた(有言実行型の母はもちろん息子の分は用意してくれなかった。だからと言って勝手に食べれば天罰(拳骨)が待っているので手も出せない)。別にベッドを占領されるのは構わないが、赤の他人が眠っている部屋に自分一人は何とも居心地が悪い。
どうすっかな……? と耳を摘んだまま途方に暮れるモモだったが、
パチリ、と突然少女の目が開いた。
「ぎょわっ!?」
馬鹿みたいに驚いて馬鹿みたいに声を上げて馬鹿みたいに勢いよく後ずさって馬鹿みたいに学習机の角に腰をぶつけた上老人みたいに腰を押さえながら倒れた。
そんなモモをよそにむくりと起き上がった少女は部屋をキョロキョロと見回してから、
「…………………」
モモと目が合った。
「…………………は、ハロー?」
痛みに耐える涙目少年モモはあんまり日本人らしくない挨拶をした。少女はぽかんとしていたが、やがてニッコリと向日葵みたいに笑った。
あ、ちょっとかわいいな、と痛みも忘れて珍しく異性に対してその類の好感を一瞬持ったモモだったが、
「わんっ!」
という少女の声でその気持ちも木っ端微塵に砕け散った。
「………………あ?」
かろうじてモモが搾り出したのはそんな間の抜けた声だった。
待ってほしい。確かに眼前の少女からは犬っぽい特徴は見受けられるが、まさか言語機能まで犬並だなんて事は…………
「わんっ!」
「って有り得たー!!」
思わず全力の大声で突っ込んでしまった。
「ちょいと太郎!! あんた何叫んでんの!? 天罰行くよ!?」
「ああワリィ母ちゃん!」
下から聞こえて来た母親に再び大声で謝罪する。『だからうるせぇって言ってるでしょうが馬鹿息子!!』とそれ以上の大声で返された。近所迷惑な親子である。
「ちっくしょう……お前のせいで天罰寸前だぞコラ」
恨みがましく少女を睨むモモ。赤鬼の眼力に打たれてもびくともしない鉄壁少女はニコニコ笑って、
「わんわんっ!」
「わんじゃねえよ!」
「きゃん!」
「いや、そうじゃなくてよ………」
モモはげんなりとして肩を落とした。
一応、こちらの言葉はそれなりには向こうに通じているらしいが、逆に向こうの言う事は自分には分からない。流石のモモも動物語翻訳機能は搭載されていたりはしない。
「おいおい……これじゃ話聞こうにもどうしようもねえじゃねえか」
「きゃん?」
「よーしこら犬娘。それわざとやってんじゃねえだろうな? 新手のキャラ作りとかじゃねえよな? 怒らねえからもし喋れるなら喋ってみ?」
「にゃん!」
え、実は猫科!? と叫んでモモは頭を抱えた。本気でどうしよう。
動物少女はそんなモモを不思議そうに眺めていたが、何かに気付いたのかパンと手を合わせてからゴホンと二、三度咳払い。そして、
「どうも初めましてッス!」
「ッ!?」
突如少女から発せられた元気の良い挨拶にモモはビクンッ! と全身を震わせた。誰が見ても分かるくらい思いっきり狼狽しつつ、
「って、え? はあ!? なんだよ普通に話せんじゃねえか!! なんだよ今までの犬語は!?」
「あ、少々お待ちを。ん、んー? 何かまだ喉の調子が悪いッスね」
そう言って調子を確かめるように再び『ん、んー!』と喉を鳴らす。
モモはあんぐりと口と開けて少女を見る。
訳が分からない。犬の特徴に犬語、かと思えば普通に人語。しかも何故かパシリ口調。いや、訳が分からないのは今さらかもしれないが、こうスケールの小さい疑問だと逆にそちらの方に食いつきたくなる。
「ふぃー。あーすっきりしたッス。あ、どもども」
『よっ』と挨拶でもしそうな極めて軽いノリで少女の双眸が自分を捕らえた。やはりきちんと人語を操っている。幻聴ではない。いや、むしろ先程の犬語が幻聴だったのか。
「自分リーナいいます。よろしくッス」
そんな軽々テンションのまま少女は自己紹介した。
「いや、とりあえず自己紹介はいいんだっての。つーかお前、名乗る前にちゃんと説明すべき事と言うべき事があんだろ?」
「おお、そっスね。お腹が空腹状態なので何か食べ物くださいな」
「テメェの腹の具合なんざ訊いちゃいねーよ!? そこに飯あるだろさっさと食え!」
「さーいえっさー!」
ビシィ! と敬礼してからトレイの上の冷めた夕食に手を伸ばし、そのまま勢い良くかっ食らう。ちゃんと箸を使っている辺り、犬よりは人間寄りに見えた。
しかしこのリーナとかいう少女、見知らぬ人物の部屋でも全くのマイペースぶりだった。自分が危険人物だったならどうするつもりなのか、と他人事ながらに心配になる。
「食ったらちゃんと説明しろよ」
「むむむ。残念、冷めてるっス。しかし熱いのは苦手なんでこれはこれでよし。美味美味」
「話を聞け。つーか犬のくせに猫舌か」
「でも美味いっスよホント。これはあなたが?」
「いんやおれの母ちゃん作だ」
母、友莉奈は非常に適当な性格のくせに………もとい、性格であるにも関わらず、炊事洗濯など家事は得意だった。特に料理なら、そんじょそこらのシェフなどでは足元にも及ばないほどの腕前だ。にも関わらず、『アンタも漢なら、いつまでも母ちゃんに甘えてないで自分でなんとかしな』というよく分からない理由から平日の学校での昼食等は全て購買で済ませている。父親も同様だが、雅月だけは毎日重箱のような弁当を(無理矢理)持たせている。差別じゃね? と毎朝弟に弁当が渡される度に思う。
「いいお母さんなんスね」
「…………そだな。怒ると怖ぇけど、自慢の母親だよ」
そんなやり取りをして、気がつけばトレイの上の食器が空になっていた。
「お、終わったか」
「はいっス。繰り返しますが美味かったっス」
「そりゃあよかったな。んじゃあ、ちょいと話を―――」
「そんな訳でおかわりっス」
ズビシ。
「…………見ず知らずの他人の登頂部にチョップかますとは礼儀知らずっスね」
「見ず知らずの他人の家で呑気に飯食っておかわりまで要求してるヤツに言われたくねえ」
頭を押さえて涙目で訴えてくるリーナにキッパリと言ってやった。動物好きでも躾はきちんとするがモットーだ。
「………まあ、いいっス。でも話す前に、おたくのお名前を教えてもらえないっスかね?」
「あん? おれか? おれは百田太郎だ」
「ももたろうっすか。いいお名前っス」
「それはおれが童話の中でもっとも尊敬し、また嫌悪している英雄の名だ。そうじゃなくて、百田太郎だ。も・も・た・ろ・う!」
これだけはハッキリさせなくてはならない。幼い頃から、この名前だけでどれだけ馬鹿にされた事か。だがリーナは首をひねって、
「ももたた………?」
「…………面倒ならモモでいい。周りからはそう呼ばれてるし」
どうにもこの少女にややこしい事を教えるのは不可能であると、半ば直感的に悟ったのでそう言ってやる。
「りょーかい! モモさんっスね!」
「…………なんだろうな。呼び方は由真と変わんねぇのに、舎弟ができた気分だ」
「? なんスか?」
「なんでもねえ。それよか話だ話。お前なんでそんな格好でぶっ倒れてたんだよ」
ここで本題である。ボロボロの毛布身に着けて道端でお昼寝などよっぽどの事だ。まさかこの歳(と言ってもあくまで外見上はだが)で本当にホームレスな訳ではあるまい。いや、ホームレスが道路のど真ん中で眠るような人種なのかは知らないが。
「ああ、それはっスね………」
リーナは目を細め、神妙な面持ちになった。自然とモモの表情も真面目なものになる。そして小さく、だが確かに聞き取れる大きさの声で言った。
「…………………まったく分かんないんスよ」
ズビシズビシ。
「………………モモさん。さっきと同じ場所にチョップ二刀流はキツいっス」
「うるせぇちゃんと説明しない方が悪ぃんだよ」
スッといつでも手刀を繰り出せるよう構える。リーナは若干青ざめた顔で弁明を始める。
「ちょ、お待ちくださいっス! 嘘は言ってないっス! まあ確かにめんどくさいなーとは思わないでもなかったっスけどごめんです謝りますからチョップ構えるのはご勘弁を!! えーと、ちょいと訳ありなんで順を追って話すっスから聞いてお願い!!」
なんでかベッドの上で土下座をするリーナ。それを見たモモは満足そうに頷いた。
「そんじゃいい加減話せ」
そんなこんなで、本当にようやく本題。