彼女に会えるものならばーever afterー
「義定さん、二番にどうぞ」と近くのスピーカーから、呼び出しの声が聞こえた。近頃の病院では、診察室のすぐ近くにある長椅子に座り、医者から直に呼ばれるまではそこで耐えねばならなかった。
通路を挟んだ正面と、真横に置かれた長椅子には私と同じように、声がかかるまでひたすら待ち続ける患者の姿があった。尤も私のような時々の通院者と違い、入院もしくは初診患者の者たちにとっては待つことを苦痛と感じる度合いはまちまちかと思う。
「ふむ、この分でしたら通院の回数を減らせますが、いかがですか?」
「本当ですか。では、半年……いえ、三ヶ月に一度でよろしいでしょうか? 勿論、調子次第ではありますが」
「それで構いませんよ」
私は数年前に大きな事故に遭った。九死に一生を得た出来事と言っても過言ではない。こういうことで地元の新聞、将又、ローカルニュースにまで自分の名前や相手の素性まで知られてしまうとは思ってもみなかった。
「頑張りなさいよ!」
聞こえた声は母の声。遠く意識を失った最中にありながら、不思議なこともあるもので親兄弟特に、母親の声だけは、きちんと届いていた。後々聞いた話では、私自身の瞼はしっかりと閉じられており、開かれることは無かったそうだ。しかし母の励ましの声が聞こえた時、私は母の顔が見えていた。
「ひかるの幽体離脱じゃなくて?」
「あれがそうなのだとしたら、危なかったということか」
「何にしても見えていて、声も届いていたのなら良かったね。本当に」
医学では説明の出来ないことがあり、私は間違いなく意識を失っていて、顔は原形をとどめていないほどの出来だったらしい。だが、見えていたし聞こえていたことが生死を分けたのだろう。
こうして四肢が満足に動かせる状況を作り出せたのは、紛れもなく生きる意志が私の中には根強くあったからに他ならない。そうして今、何事も無かったかのような日常を取り戻した日々を過ごしている。
ただ一つ、私の中で解決出来ていないことがある。あの後、彼女はどこへ行きどうなったのか、についてだ。彼女は私が救急車に運ばれる前まで、一緒にいた知人であり、たまに連絡を取り合っては会っていた関係でもあった。
あれは私の恋、果たして恋と呼べるものだったのか――と。
「義定ひかるさん、今度はどのお店を開拓しますか? 私、ネットで調べておくので予約が取れたら、また一緒に行きませんか?」
「ええ、それは構いませんし、むしろいつもお願いしていて申し訳ないです」
「いえいえ、好きでしていることですので」
彼女の名は、依田さん。残念ながら下の名前までは呼ぶことも無ければ、必要としなかった程度であった。彼女とはSNSで知り合い、趣味が高じて実際に会うまでとなった人だった。
お互いの住所まで教える仲でもなく、恋でも何でもない趣味友達、いや知人といったところだ。そんな関係性にあって、時々、お互いが好きな個人カフェを巡るプライベートを愉しんでいた。
「この辺、あらかたですかね?」
「いや、どうなのか私には分かりかねます。何せ、普段は出不精でして」
「私だってそうですよ。仕事と自宅の往復でしか出かけませんからね。義定さんも?」
「ええ。恥ずかしながら、地元でありながら依田さんとこうして出歩くまでは、カフェがあったことすら知りませんでしたから」
彼女と私は、チェーン店ではない個人経営のカフェ巡りを愉しむ仲だった。親兄弟、友人から見ればどんな関係に見えていたのか、それも今となっては知る由も無い。
お互いの素性は名前のみ。いや、正確には私だけが名字だけを知り、彼女は私をフルネームで呼んでいたことくらいか。SNSの知人であれば、不思議なことでは無いかもしれない。
「どういう人? 何度か会っているなら家に招いてもいいんじゃない?」と母が言う。しかし恐らく、母から見れば、適齢期で独身な私が女性と何度か会っている、ただそれだけのことでも、何かしらの期待を持って聞いて来ているのは明白だ。
「違うよ。知人なんだ、ただの」
「あら、そうなの?」
こればかりは心の中で母に謝るしかなかった。知らないんだ、彼女のことは何もね。そうして、曖昧な関係でありながらも、彼女とは幾度となく互いの趣味の為だけに会った。会い続けて他愛もない流れを共有し続けた。
「あの……」
「はい?」
「いや、次はどの辺にまで繰り出しますか?」
「ですね、一駅だと近すぎるので、三駅くらい羽を伸ばしますか?」
「あ、いいですね」
依田さんとは主に休日、それもお互いの仕事休みがかぶった時だけ会っていた。連絡はSNSだけだ。電話をするでもなく、かといって以上も以下でもない。私は何度か聞こうとしたこともあったのだが、聞けなかった。
「お住まいはどの辺で、仕事は何をされていて……そして、たまにはお電話でお話しませんか?」などと言えるはずも無かった。個人経営のカフェ巡り開拓という趣味といえば聞こえはいいが、それには何の意味があるのかと自分に何度問い詰めたことか。
名前も顔も声も、嫌ではない。きっと彼女もそうに違いないのだ。そうでなければ、何度も好き好んで見知らぬお店には一緒に入ってもくれないし、他愛も無い話もしてはくれないだろう。
そうした疑問がふつふつと浮かんでは沈む時を繰り返したある日のこと、会計を先に済ませて外で待っていると、その時は不慮に訪れたのだ。余所見運転をした自動車によって、私は事故に遭った。
微かに見えていた彼女の立ちすくむ姿を最後に、私は意識を落とした。あの事故以来、依田さんとは連絡がつかなくなっていた。勿論、その時まで手にしていた携帯を、事故によって破損したというのもあるのだが、唯一の連絡手段を失った私に対して、彼女からは何の反応も得られなくなってしまったのだ。
「巡っていたカフェに聞いてみたら?」
「いや、無理だよ。彼女と一度でも行ったカフェには二度行ったことは無いんだ。お店の人だって、一度だけの客を覚えているほど、特徴ある存在でもないだろうし」
友人曰く、それだけカフェにこだわって巡っていた彼女なら、まだ見つけていないカフェに行って、彼女が来るのを待ってみたらいいんじゃないかと言われた。そうは言うが、恋など皆無な関係だった相手に、どうしてそこまで出来ようか。
果たして依田さんと名乗っていた彼女は、この辺りの人だったのか。あるいは、どうしてそこまで私とカフェ巡りをしてくれたのか。深く悩み考え続けたとしても、それが何になるのか。
「SNSで出会ったなら、また探せば?」と友人から言われた。そう言われたが、どうにも不思議な関係であったことは否めない。お互いをよく知ろうともせず、知らせようともしなかった関係だ。
それが事故で数か月ほど入院していた、ただそれだけの間に、それまで時々会っていた彼女とは会うことが叶わなくなるとは、思いもよらないことだった。彼女もまた元気に過ごし、どこかでどこかの誰かとカフェ巡りをしているのだろうか。
恋でも何でもない、それでも私の事故の後に、彼女はどうなったのか。彼女に会いたい、会って話がしたい。この想いとは何なのか、何でもいい。私の無事を知らせるだけでいい。知らせたい。
出来るならば、彼女に……会えるものならば、また会いたい。会って、話がしたい――。
お読みいただきありがとうございました。