5話:最後
……気配がする。
うとうとしながら不意に俺は思う。
膝に押し当てた目が圧迫されて痛い。しかし動く気には全くならない。絶対目を開けるもんか。冷や汗が背中を伝う。眠ってしまいたい。眠ればきっと大丈夫。俺は何も気づいていない。
気配が近づいてくる。
眠れ。眠れ。眠れ。眠れ。眠れ。
焦るほど眠気が遠のいていく。意識が覚醒に近づく。
気配が俺の前にいる。
眠れよ!
「寝たふりぃ?」
ビクッと肩が震えた。甘い声。忘れるはずもない。あの日悪夢が始まった日の声。懐かしい声。
それは目の前から降ってくる。
「ねぇ、起きてるのわかっとるんよ」
くすくすと笑い声。俺は恐怖に震える。なのに、その声は真昼の雑談のような響きだ。
「おーい、おはよ」
俺は動けない。抱え込んだ膝の下で力一杯拳を握った。怖い。こんなの夢だ。妄想だ。気のせいだ。
「ふーん……。話す気ないならそれでもええよ」
気配が遠退いた。良かった、このままやり過ごそう。このまま朝が来れば一安心だ。そう考えて、俺はふと気づく。
……本当にいいのか? これはもしかしたらチャンスなんじゃないのか?
ここで幽霊と向き合えば正体がわかるかもしれない。呪いが解けるかも。ここでやり過ごしてしまったらそのチャンスを失うんじゃないか。もう二度と現れないんじゃないか。謎が謎のまま、逃げ続けることになるんじゃないか。怖くても顔を上げるべきなんじゃ。
さっきまでとは違う焦りで冷や汗が出る。
動くなら早くしなければ。気合いをいれろ。顔を上げるだけだ。ちょっと動くだけだ。簡単だ。簡単さ。
よし……、よし、1、2の3!
「ばぁ!」
「ぎゃあッ!」
俺は思いっきり悲鳴を上げた。のけぞった拍子に背中から倒れ込む。心臓が飛び出そうなほど激しく打つ。全身から汗が吹き出した。完全な不意打ちだ。
目の前に顔があったのだ。らんらんと光る目玉が二つ。ばぁ!だなんて可愛らしい声かけだったが冗談じゃない。気配は去ったと思っていたのに、むしろ急いで呼び止めなくてはと思っていたのに、目の前で待ち構えられていたとはまったく気づかなかった。
質の悪さに恐怖より怒りが勝った。俺は起き上がるとそいつに向かって怒鳴る。
「おい、ふざけんなよ!」
「やだ、こわぁい」
そいつはふざけた調子で明るく笑う。それがますます勘に障る。
俺は感情のままに叫んだ。
「いい加減にしろよ! なんなんだおまえは!?」
そいつは笑うのをやめる。また以前のように顔を伏せて前髪で表情がわからない。
俺は続けて叫ぶ。
「おまえのせいで俺の人生めちゃくちゃだ! どうしてくれるんだよ!」
そいつは答えない。黙ったままだ。
俺は深く息を吸う。叫んだおかげで少し冷静になった。脅かされて縮み上がった心臓も落ち着いてきている。
俺はなるべく冷静に話すことにした。ここでしっかり話さなければ解決できない。
「なぁ、おまえ、どうして俺に包丁掘らせたんだ? 死体が埋まってるなんて嘘までついて」
そいつは答えない。
「警察に捕まるように仕向けたのもわざとか?」
そいつは答えない。
「……俺を恨んでるのか?」
そいつは答えない。
「そもそもあんた……、誰なんだ?」
そこで初めてぴくりと肩が動いた。顔を伏せたまま そいつは答える。
「エイコだよ?」
「いや……、違うだろ? 確かに俺はエイコだと思い込んでたけどさ。けど、エイコは生きてるってさっきダチに聞いたんだ。だとしたらあんたは全然別人ってことだ。一体誰なんだよ?」
「エイコだよ」
「いや、もういいって。勘弁してくれよ。あんたがエイコだったら俺を恨むのもわかるよ。恨まれても仕方ない。ひどい振り方したし。悪かったと思ってる。いくらでも謝るさ。でも別人ならもうやめてくれよ。関係ないだろ? なぁ頼むよ」
俺は祈るように言う。しかし返ってきたのは乾いた笑い声だ。
「あははっ」
そいつは顔を上げる。
相変わらずらんらんと光る目が俺をじっと見つめる。
ああ、どうしてだろう。それはエイコと同じ顔だ。
「わたしはエイコだよ」
繰り返される答え。
「あなたにされたこと全部覚えてる」
俺はたじろぐ。確かにあの日、幽霊が社宅に現れた日、エイコしか知らないことを口にしていた。
でも、そんなはずは……。高野の話は……。
「悪かったと思ってる? いくらでも謝る? 薄っぺらい言葉」
冷ややかな声。先ほどまでのふざけた雰囲気は消し飛んでいる。
俺はぎくりと固まって動けない。
何かおかしい。なんだ? 空気が歪む。息が苦しい。目の前のエイコが大きく歪んだ巨像になる。まるで蜃気楼のようだ。頭がクラクラする。
『おまえなんかサンドバック以下の価値しかねーよ!』
「うぐっ」
罵倒の声。と、同時にいろんな物が飛んでくる。リモコン、漫画、陶器の皿……。額や肩にそれらが直撃した。衝撃に目が回る。
痛い! なんだ!? どうなってるのかわけがわからない。
『うるせーな。黙っとけよ』
「あっつ!!」
右腕に強烈な熱さを感じて俺は屋上の床に転がる。二の腕の服が焦げてやけど跡ができている。巨像がタバコを捨てる姿が見えた。
『おまえに拒否権なんかねーよ。黙って股開けクズ女』
突然首を絞められる。巨像がのしかかる。苦しい、痛い! ジタバタしているうちに、すごい力でズボンと下着が引きずり下ろされる。俺は必死に体を捩る。涙でにじんだ視界の端に巨像の顔が見える。鬼のような形相だ。
巨像が棍棒のようなものを振り下ろす。
「ぎゃあ!」
尻を思いっきり殴られた俺は悲鳴を上げる。しかし痛みに耐える暇もない。そのまま棍棒が肛門に捩じ込まれそうになる。
俺は狂ったように足を蹴りまくって巨像から逃れる。
下半身丸出しのまま必死に走り、屋上の角の手すりに縋り付く。
振り返ると巨像が複数に増えている。ぐるりと周りを取り囲まれた。逃げられない。
「わ、悪かった! 俺が悪かったから! やめてくれ! 助けてくれ!! この通りだ! 嫌だ!!!」
巨像が迫ってくる。
俺はそこでやっと気づいた。巨像はエイコではない。俺自身だ。
『おまえに拒否権なんかねーんだよ』
ガッと髪を掴まれて引き抜かれる。俺は痛みに悲鳴を上げる。
『まじでブスだな。よくその顔で出歩けるな』
両頬を思いっきり叩かれる。目の前がチカチカして口に血の味が広がる。
『なんで生きてんだ? 早く死ねよ』
再び首を絞め上げられて吊るされる。
苦しい、苦しい、苦しい。
俺は力を振り絞って巨像を蹴る。ふっと首元が緩んだ。呼吸が楽になる。ほっとする。
その瞬間落下が始まった。
落ちる!
思い切り蹴ったせいで、手すりを乗り越えてしまった。空中に体が投げ出された。俺は必死に手を伸ばす。
全てがスローモーションに見える。
いつの間にか俺の巨像が消えている。エイコが目の前にいる。俺はエイコに手を伸ばす。届かない。届かない。届かない!
手のひらが虚しく空振りする。
「少しは思い出した?」
エイコの静かな声が最後に耳に届いた。